第197話
「葉月、おはよー」
ざわついている講義室の真ん中より少し前、ノートとペンを用意して耳を触っていると声をかけられる。
「おはよ」
元気が有り余っているらしい澪がバタバタと私の隣に座る。周りの何人かが彼女を見ているが、気になったりはしないらしい。私に家庭教師のバイトを始めるきっかけをくれた澪は人懐っこくて付き合いやすいけれど、大雑把だ。
そう言えば、先輩も適当だったっけ。
私に桔梗ちゃんを紹介してくれた澪の先輩は、三時間後に連絡するという約束が倍以上後になるような人だった。
「葉月、なんかいいことあった?」
澪の声に、指先でピアスを確かめる。
小さな丸いものがしっかりと耳たぶについている。
大学へ来るまでに落としたりするはずがないとわかっていても、指先から伝わってくるピアスの感触に安心する。
「ないけど、なんで?」
いつもと変わらない声で答える。
「にこにこしてるから、なんかいいことあったのかと思って」
楽しそうに澪が言う。
いいことがなかったわけではない。
いいことがどんなことか聞かれたら面倒なことになるから「ない」と答えただけで、今日は朝から気分がいい。
宮城がリップを塗らせてくれたし、一緒に駅へ向かう道を歩けた。宮城が開けてくれたピアスだってしている。
でも、そんなことを澪に言うわけにはいかない。
「駅に行く途中にミケちゃんに会ったからかな」
当たり障りのないことを口にして、にこにこしているらしい顔をわかりやすい笑顔に変える。
「例の猫ちゃん?」
「そう」
ミケちゃんが姿を現すのは大学の帰り道で、行く途中に見かけることはない。今日だって駅に行く途中にいたりはしなかったが、円滑な人間関係を維持するためなら見なかったものを見たことにするくらい些細なことだ。それに宮城は野良猫みたいなものなのだから、大きな嘘ではないと思う。
「猫、好きだよね」
澪がしみじみと言って、「可愛いけどさ」と続ける。そして、私の耳に視線をやると、少し驚いたように「それ、ピアス?」と言った。
「だね」
「葉月、ピアスしないって言ってたじゃん。なんかあった?」
「気が変わっただけ」
澪が「へえ」と納得していない声をだす。
過去に何度かピアスをしないのかと澪に聞かれたときに「興味がない」と答えているから、微妙な反応になるのもわかる。
澪の視線が耳に注がれる。
あまりいい流れではないなと思う。
「あ、わかった。彼氏でしょ」
澪がにやりと笑って私を見る。
「違うから」
「いや、絶対彼氏だね。最近、っていうかずっと付き合い悪いじゃん。夏休みもあたしの誘い、忙しいからって断りまくったよね?」
こうなると思った。
大学生になっても雑談の半分は恋愛に関することで、高校生だった頃と変わらない。女の子を真っ二つに切ったら、血の代わりに“恋”という文字が流れ出てきそうだ。
恋の話を聞くことは嫌いではないが、話せと言われると困る。
宮城のことは説明が難しい。
澪のことを信用していないわけではないけれど、言ったらどうなるのかわからない。そもそも踏み込んだ友人関係を作りたいわけではないから、必要以上に自分のことを話したくない。
「あれはバイトとかいろいろあって、本当に忙しかったから」
「嘘つかなくていいって。彼氏とったりしないからさ」
「そういう心配はしてないから」
「じゃあ、はい」
澪がなにかを催促するように右手を開いて出す。
「その手なに?」
「スマホだして」
「なんで」
「ロック画面に彼氏の写真を設定してないかなって」
「マジで彼氏いないし」
私は差し出された澪の右手をべしんと叩く。
「それなら、今度みんなでご飯食べに行こうよ。男子から葉月ちゃん呼んできてって言われて困ってるんだけど」
「そういう嘘はいいから」
「ほんとだって。マジで一回顔出してよ」
「そのうちね」
「そのうちって、来る気ないでしょ」
「まあ、ないけど」
笑いながら言うと、澪がわざとらしくため息をつく。そして、私の肩を掴んでにこりと笑った。
「じゃあ、食事会の代わりにカフェでバイトしない? 短期のヤツ」
「話、飛びすぎじゃない?」
「細かいことはいいじゃん。サークルで学祭の準備があって、バイトにあんまり行けなくなりそうなんだよね」
おおらかというよりも適当な澪らしい台詞に、今度は私がため息をつくことになる。
「それ、澪の代わりにバイトに行けってこと?」
「そうなるかな」
「バイトって他人が行ってもいいわけ?」
「親戚の店だから大丈夫。学祭終わるまでだしさ。それに人がいない方が困るし、葉月なら安心して任せられる。駄目なら、葉月が学祭の準備に行って、あたしがバイトでもいいけど」
澪の大丈夫とは思えない軽い声が響き、それに続くように講義室のドアが開いて先生が入ってくる。
あと一ヶ月とちょっとしたら、学園祭がある。
その準備は論外だが、バイトには興味がある。
本当は夏休みに家庭教師以外のバイトもしようと思っていたけれど、宮城との時間を増やすことを優先した。今も宮城との時間を削りたくはないが、未来の私のために使う時間もほしいと思っている。
大学を卒業した後もここで暮らしていくためには、お金が必要だ。卒業したら親には頼れないし、頼るつもりもない。宮城がルームメイトという関係を解消すると言っても、私が実家へ帰ることはない。もちろん、宮城との生活を手放すつもりはないし、ただのルームメイトでもいいからずっと一緒に暮らせるように手を尽くすつもりだ。
「バイトどうする? 駄目なら駄目でいいけど。他の子に聞いてみるし」
講義が始まって、隣から小さな声が聞こえてくる。
「とりあえず後から詳しい話聞かせてよ」
澪のように小さな声で言うと、「おっけー」と返ってくる。
冬休みにはバイトを増やそうと思っているから、予行練習として学園祭まで家庭教師以外のバイトをするのも悪くない。
問題があるとするなら、宮城だ。
彼女は私がバイトをすることを快く思っていない。
宮城が嫌だと言ってもバイトをすることはできるけれど、あまりいいことにはならないはずだ。
私は耳を触る。
ピアスを撫でて、静かに息を吐く。
先生の声が響いて、ノートにペンを走らせる音が聞こえてくる。
私ものろのろとペンを握ってノートに文字を並べていく。
考えごとをしていたせいか、講義があっという間に終わる。
澪からバイトの話を聞いて返事を保留する。
一日の講義をすべて受け、家へと向かう。
バイト自体は変わったものではない。カフェの店員で時給もいい。断る理由もなかったが、宮城のことが気になって即答できなかった。
私らしくないと思う。
今まで簡単に決められていたことが決められなくなっている。
私の中で宮城の存在がどんどん大きくなっていて、なにかをするとき宮城のことが頭に浮かぶ。
電車に揺られて、駅からミケちゃんを探しながら歩く。でも、見なかったミケちゃんを見たなんて嘘をついたせいか、ミケちゃんは現れない。
階段を上って三階、玄関のドアを開ける。
宮城の靴がある。
深呼吸を一回。
靴を脱いで、共用スペースへ行く。
「ただいま」
グラスにサイダーを注いでいる宮城に声をかける。
「おかえり」
宮城がじっと私を見る。
彼女の唇に私が今朝塗ったリップは、とれてしまったのかとったのかはわからないけれど、少しも残っていない。
「ちょっと話したいことがあるから、ご飯食べたら私の部屋に来てくれる?」
「話ってなに?」
嫌な予感でもするのか、宮城が少し低い声を出す。
「後から話す」
「今じゃ駄目なの?」
「ゆっくり話したいから、後からにしてほしいんだけど」
宮城が返事をせずにグラスに注ぎ終わったサイダーを飲む。
透明な液体が揺れて彼女の体内に消えていく。
半分ほど中身が残ったグラスがテーブルに置かれ、宮城の目が私のピアスに固定される。澪の視線とは違う視線に耳が熱くなる。バイトの話なんてどうでもよくなりそうになって、熱を逃がすように耳を引っ張る。
「……わかった」
私を見たまま宮城が静かに答えた。
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