第210話
バタバタと家を出る。
ミケちゃんと時々会う道を歩いて、駅へ向かう。
歩く速度は宮城の速度で、結構速い。
「仙台さん、急いでよ」
「急がなくても大丈夫だって」
宮城がつけた跡を隠すために服を着替えてメイクを直して。
ついでに宮城にも軽くメイクをして。
そんなことをしていたら、予定よりも家を出る時間が遅くなった。
「大丈夫じゃないかもしれないじゃん」
家を出る時間が遅くなったのは主に宮城のせいなのに、一歩先を行く彼女は不機嫌だ。
慌てなくても約束の時間には間に合う。
でも、宮城は私から離れるように歩く。
たぶん、私のしたことが気に入らないのだと思う。
メイクをしたことが悪かったのか、それとも可愛いと言ったことが悪かったのか。もしかしたら最後にキスをしたことがマズかったのかもしれない。いや、きっと全部マズかった。
先を行く宮城は振り返らずに歩き続けている。
私は首を覆うニットの上から赤い印を撫でる。
秋が終わりに向かい始めて風が冷たくなりつつあるけれど、今日は天気が良くて暖かいからタートルネックではないものを着たかった。宮城がつけた印がなければ首筋を隠す必要がなかったのにと思うけれど、見える場所であっても、消えていくだけで、もうつけられることがないはずだった跡が増えたことに私は喜びを感じている。
ニットの上から印を押して離す。
揺れるスカートと宮城の足を見る。
右、左、右。
足は、規則正しく同じ速さで動いている。
速度が緩むことはない。
視線を上げると薄く雲が伸びる青い空が視界に入って、宮城と水族館で見た空を飛ぶペンギンを思い出す。
そう言えば、秋に行こうと話していた動物園にまだ行っていなかった。
空は夏よりも遠く、高い。
早くしないと冬になってしまう。
寒がりの宮城は、冬が来たら動物園に行ってくれないかもしれない。私は足を動かす速度を上げて、宮城の隣へ行く。
「宮城、動物園行くって約束覚えてる?」
声をかけると、勢いよく歩いていた宮城が急に足を止めて私を見た。
「……仙台さんの嘘つき」
「え?」
「もう冬になるじゃん」
「冬はもう少し先でしょ。それより、秋に行くって約束覚えててくれたんだ」
宮城の口から動物園という言葉を聞くことがなかったから、忘れているのかもしれないと思っていた。
だから、嬉しい。
ここでぴょんぴょん飛び跳ねたいくらいだし、スキップして駅まで行きたいくらい嬉しい。でも、宮城の機嫌は良くない。
「仙台さんは忘れてたでしょ」
宮城がさっきよりも低い声を出す。
「忘れるわけないじゃん」
覚えていたけれど、動物園へ行こうと誘う前に私の誕生日があって、宮城の誕生日があった。そして、新しいバイトが始まって、休みはそれで埋まることが多くなり、大学でもしなければならないことが増えた。予定を入れる隙間がどんどんなくなって、気がつけば秋が終わりに向かう速度を速めていた。
「でも、バイトしてたもんね」
宮城のスカートから見える足が動く。一歩、二歩と進んで、私を置いていこうとするから慌てて足を動かす。
「それは悪かったと思ってる。ごめんね」
「謝るようなことじゃないじゃん」
宮城が不満を隠さない声で言う。
「あの約束、まだ有効?」
「仙台さんは行きたいの?」
「行きたいって思ってるけど、宮城はいつがいい?」
「春」
短い返事に、やっぱり、と思うけれど、行かないと言われるよりはいい。今までだったら、行かないと言われていたはずだ。
「わかった。春にしよっか」
行くなら春休みかな。
できれば、水族館にももう一度行きたい。
私たちはミケちゃんに会わないまま駅に着いて、改札を通る。ホームへ向かう人の群に混じると、宮城が「仙台さん」と小さく私を呼んだ。
「なに?」
「動物園って春でいいの?」
「宮城が冬でもいいなら冬にする。冬って人少なそうだし、ゆっくりできそうじゃない?」
「寒いのにゆっくりしたくない」
「ゆっくりしないなら冬でもいいってこと?」
「……暖かい日がいい」
小さな声が聞こえて、私は彼女の気が変わらないうちに答える。
「じゃあ、冬の暖かい日ね」
宮城から返事はない。
いいとも悪いとも言わないけれど、嫌なら嫌だと言うはずだから返事がないということは「冬の暖かい日」という提案が受け入れられたのだと思う。
冬休みでも、その前でも後でもいい。
寒がりな宮城にマフラーを巻いて厚着をさせて、二人で動物園へ行く。
ここが駅じゃなかったら、宮城のピアスに誓うのに。
耳にキスをして約束を誓ったら、宮城からも私の耳にキスをしてほしい。宮城からも約束を守りたいと言われたい。
「約束」
そう言ってキスの代わりに、こつん、と手の甲を宮城の手に当てる。宮城からはやっぱり返事がないけれど、断られなかったからそれでいい。
ホームに着くと電車がすぐに来て、乗り込む。
話が弾むわけではないけれど、学園祭の話をする。
電車が停まったり、言葉が止まったり、それなりの時間が過ぎて、目的の駅が近くなってくる。窓の外へ視線をやると、宮城がいつも見ている景色が流れている。宮城が家から逃げ出して大学へ探しに行ったときも見たけれど、あのときは周りを見ているようで見ていなかった。
あんな思いはもうしたくないな。
宮城は隣にいる方がいい。
私たちは電車を降りて、ホームを歩く。
電車から見た窓の外にも駅にも珍しいものはない。すべてありふれたもので、私が大学に行く途中にだってあるようなものばかりだけれど、宮城が見ている風景を毎日見られたらいいのにと思う。
同じ大学に通って、同じ講義を受けて。
今よりももっとたくさん時間を共有して。
そんな風に四年間を過ごせたらどんなにいいだろう。
手に入らなかった未来を考えながら、首を押さえる。
見えないけれど、ここに宮城が残っている。
根を張り、私の奥深くに向かう赤く、肌を焼く印。
宮城が残した何日か消えないものが私の体にあるのに足りない。彼女を感じさせる印だけではなく、熱がほしい。熱くて、温かくて、体の芯を溶かすような宮城の熱がほしいと思う。
外へと向かう駅の中、さっきはこつんと当てただけの宮城の手に触れる。指先を掴むと、手がするりと私から逃げた。
「仙台さん、なに?」
少し低い声が聞こえてくる。
「手、繋ぎたい」
「もうすぐ待ち合わせ場所に着くんだけど」
「わかってる」
宇都宮とは駅の近くの本屋で待ち合わせている。
「絶対に繋がない」
私も手は繋ぐべきではないと思っているけれど、待ち合わせ場所までの短い時間であっても手を繋ぎたいとも思っている。
「手を繋いでる人なんてたくさんいるじゃん」
「たくさんいてもやだ」
手を繋いでる人なんて珍しくない。
たとえ宇都宮に見られたとしても、なにかを疑われるようなことはないと思う。変だと思われることがあっても、私と宮城がどういう関係かまではわからないはずだ。それに、私たちはルームメイトでしかない。
友だちでも、恋人でも、なんでもない、ただのルームメイトだ。
――宮城がそれしか許してくれない。
「宮城」
改札を通って、もう一度宮城の手を掴む。
でも、すぐに掴んだ手が逃げ出す。
「仙台さん、離れてよ」
そう言うと、宮城がぐいっと私の腕を押した。
それも結構な力で。
思わずよろけて「危ないって」と言った瞬間、明るい声が聞こえてくる。
「決定的瞬間ゲット」
声がする方に視線をやると、スマホを構えた宇都宮が目に入った。
「え、舞香? 待ち合わせ場所、本屋じゃん」
宮城がさっきまで出していた不機嫌な声ではなく、驚いた声で言う。でも、待ち合わせ場所ではない場所に宇都宮が現れたのだから、宮城が驚くのもわかる。
「そろそろ二人が来る頃だろうなと思ってこっち来ちゃった。そしたら、二人がわちゃわちゃしてるの見えたから、なにやってるのかなって」
「なにもしてない。決定的瞬間って、写真撮ったの?」
宮城の声に、宇都宮がにやりと笑った。
「撮っちゃった。宮城志緒理、裏の顔ってタイトルつけたい写真。で、なに揉めてたの?」
「揉めてもないし。今の仙台さんが悪かっただけだから」
不満を隠した声とともに宮城が隣に立っている私の腕を叩き、カシャリ、という電子音が続く。
「もう一枚追加しといた」
「舞香、撮らなくていいから」
「学園祭に行く前の一コマって感じでいいと思うけど。あの仙台葉月をべしべし叩く宮城志緒理ってタイトルつけて亜美に送ろうかな」
宇都宮がスマホの画面を私たちに向け、撮ったばかりの写真を見せてくれる。
私と宮城。
そして、宮城がいつも見ている景色の一部。
宇都宮のスマホに切り取られたそれは、私が初めて見るものだった。私たちは今まで写真を撮ったことがない。
「絶対に面倒くさいことになるじゃん。送ったら一生恨む」
宮城の声を聞きながら、過去の私を恨む。
どうして。
どうして私は、宮城の写真を撮らなかったのだろう。
どうして私は、こんなに簡単に宮城の一部を手に入れられる方法にずっと気がつかなかったのだろう。
宇都宮だけではなく私だって持っているスマホという小さな機械を使うだけで、いつでも宮城を見ることができたのに、ずっと使ってこなかった。
できることなら、過去に戻って水族館で笑っていた宮城の写真を撮りたいし、誕生日の宮城だって撮りたい。他にも撮りたい宮城がいっぱいいる。
「えー、どうしようかな」
宇都宮が楽しそうにくすくすと笑う声が聞こえてくる。
私は小さく息を吐く。
なんでもないことのように。
明日の予定を聞くくらい気軽に。
笑顔も添えて、ほしいものを手に入れる言葉を口にする。
「ねえ、宇都宮。さっきの写真、あとで送ってほしい」
「あ、いま送る。志緒理にも送るね」
そう言うと、宇都宮がすぐに写真を送ってくれる。
スマホを見ると、さっきの私たちを切り取った写真が二枚。
私の腕を押している不機嫌そうな宮城と、私の腕を叩いている不自然に愛想のいい宮城が写っている。
「ありがと」
にこりと笑って言うと、同じ言葉を宮城も渋々といった声で口にする。
「そう言えば、二人で撮った写真ってないの? 見たい」
弾んだ声に宮城を見るが、彼女は答えるつもりがなさそうで私が代わりに答える。
「それが二人で写真撮ったことなくて」
「え、なんで?」
「んー、なんでかな。特に理由はないんだけど」
高校時代の私たちは写真を撮るような仲ではなかった。
大学生になってからは、写真を撮るなんてことに気がつかないくらい一緒にいることがすべてだった。
「もう写真の話は終わりにして、行こうよ」
宮城が急かすように言って、私の手は握ってくれなかったのに宇都宮の手を掴んで引っ張る。
「志緒理。そんなに急がなくていいじゃん」
引きずられるように歩く宇都宮を見ながら、ずるい、と思う。
「仙台さん、早く」
宮城に呼ばれて、息を吐く。
手は繋げなかったけれど、宝物を一つ手に入れることができた。
私は宮城の時間を閉じ込めたスマホを鞄にしまって、二人の後を追いかけた。
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