仙台さんがいる場所

第287話

 否定することは簡単だ。

 やだ、とか、駄目、とかそういう一言を口にするだけでいい。


 世の中にはそういう簡単なことがたくさんある。


 挨拶をすることとか、ジャンケンをすることとか。ドアをノックすることだって簡単にできることだと思う。でも、今日はそんな簡単なことがやけに難しく感じられて、仙台さんの部屋のドアをノックできずにいる。


 シーンという音が聞こえてきそうなくらい静かな朝、私は心の中でため息を一つつく。


 たまたま早く目が覚めた。

 それがゴールデンウィークの初日で、天気が良さそうな日で、増えた脂肪を減らすために散歩に行っても良さそうな時間だった。ただそれだけだ。


 だから、仙台さんの部屋のドアはノックしなくていい。


 仙台さんはまだ寝ているだろうし、ゴールデンウィークもバイトをするという彼女の睡眠時間を削ったら可哀想だ。そもそも散歩なんて寝ている人間を起こしてまで一緒にする必要がないものだと思う。


 一人でできることは一人ですればいい。


 私は部屋へ戻って、なにかあったときのために五百円玉を一枚デニムのポケットに突っ込み、スマホを持つ。本棚の番人である黒猫の位置を直して、真っ直ぐ前を見るようにする。


 共用スペースへ出ると、目が勝手に隣のドアを映した。

 そっと近寄って、ドアに耳を当ててみる。


 ――なにも聞こえない。


 連休の朝六時過ぎに起きていたりはしないらしい。


 共用スペースを後にして、玄関でスニーカーを履いて外へ出る。パーカーを着ているけれど、朝早いせいか肌寒い。


 部屋へ戻ろうか迷って、足を前へ動かす。

 一歩、二歩と、どんどん歩いて階段を降りて歩道を歩く。

 ときどき人とすれ違う。


 ウォーキングをする人やランニングをする人。


 楽しいのかわからないけれど、元気が良さそうだと思う。私がしているのはウォーキングでもランニングでもないが、足を前へ出すたびに体が温まっていく。


 小さな犬や大きな犬ともすれ違う。


 でも、散歩をしている人が連れている犬は柴犬やラブラドールのようなよく見る犬ばかりでボルゾイはいない。もちろん、仙台さんがよく見る三毛猫もいない。柔らかな朝日が私を照らしているだけだ。


 気持ちの良い朝だと言っていい。


 いつもはたくさん走っている車がほとんど走っていないし、頬を撫でる少し冷たい風も心地良い。太陽が作り出す明るい世界は心を明るくする。けれど、面白いか、面白くないかのどちらかを選ばなければならないのなら、私は面白くないを選ぶ。


 一人はつまらない。

 ――二人だったら?


 わからない。

 機械的に足を動かす。


 体が前へ進むけれど、進む速度がゆっくりすぎて、脂肪が燃焼しそうにない。のんびりペースのおかげで疲れはしないが、なんのために散歩をしているのかよくわからない。ポケットの中の五百円玉でプリンを買って帰ろうかなんて気持ちになる。


 きっとハンバーグがいけない。


 私に脂肪という呪いをかけるほどハンバーグを作り続けた仙台さんは、私のことを大事にしてくれているみたいで好ましいけれど、私を不安にもさせる。私を優先してばかりで、私の大事なものばかり大事にしようとする仙台さんがなにを考えているのか、落ちない脂肪のように気になっている。


 ふう、息を吐いて、足を大きく一歩前へ出す。

 でも、速度は上がらない。

 後ろから来た人が私を追い抜いていく。


 足を前へ進める速度が落ちる。

 今度は茶色い犬が走るように歩いていき、後から飼い主がやってくる。人も犬もなにもかも私を追い抜いていき、私だけが前へ進んでいない気がしてくる。


「やっぱりもう帰ろうかな」


 ぼそりと呟いて、回れ右をする。

 辺りを見るけれど、三毛猫はいない。

 あの猫は仙台さんにばかり姿を見せる良くない猫だと思う。

 止まっていた足を動かす。


 どうしてこうなってしまうのか。


 仙台さんと離れていても彼女のことばかり考えてしまう。

 たとえば、今から帰る家が仙台さんの大事な場所だということだとか、そんなことを考えてしまう。


 好きなものも嫌いなものもなさそうな仙台さんに大事な場所があることは驚くべきことだけれど、彼女は親がいる家に帰りたくなくてバイトをしているのだから、そういう家に帰らずにいられる場所を大事にしていてもおかしくないのかもしれない。


 ただ、不思議だと思うことがある。


 大事だというあの家に住み続けるために、高校生だった私が命令の対価として渡していた五千円を使えばいいのに彼女はそうしない。大事なものを守ることができる方法の一つなのに、そうしない彼女の頭の中はどうなっているのだろう。


 大学を卒業しても、大事だと思うものを残しておけるのに。


「ばーか」


 小さく呟いて、歩道を蹴る。

 彼女がしようと言っていた散歩を一人でしても、わからないことがわかることはない。だから、ちょっとしたお出かけをデートなんて言った仙台さんのことがわからないのは当たり前だとも思う。


 彼女は今まで私に対してそういうことを言わない人間だった。

 それなのに急にデートなんて言いだす彼女のことを理解できるわけがない。


 仙台さんが犬だったら良かった。


 尻尾を振っていたら喜んでいる。

 尻尾を隠していたら怯えている。


 これくらいわかりやすかったら、一人で散歩なんてしなくてすんだ。でも、彼女が犬だったらあの家に一緒に住むことはできなかったし、私は今も高校生だった頃と同じように誰もいない家に一人きりだった。


「ばーか」


 私は誰に言うともなく呟いて、足を速める。ここまで歩いてきたスピードよりも速く家へ向かう。けれど、家へ帰り着く前に握りしめていたスマホが鳴った。


「宮城、どこにいるの?」


 電話に出ると、仙台さんの不機嫌な声が聞こえてくる。


「外」

「そうじゃなくて、外のどこにいるか聞いてるの」

「近所。猫探してた」


 一瞬でわかる嘘だと思うけれど、散歩をしていたとは言いたくないから適当な理由を口にしておく。


「猫?」


 怪訝そうな声が耳に響く。


「仙台さんが好きな三毛猫」

「もしかして散歩してるの?」

「そういうわけじゃない」

「三毛猫ってミケちゃんでしょ。散歩してるんだったら私も行くから、その辺で待ってて。すぐ着替えるから」


 私の否定を無視して、仙台さんが早口で言う。しかも、放っておいたら五秒で着替えて家の外に飛び出してきそうな勢いだったから、私は慌てて彼女を止める言葉を口にした。


「いなかったし、プリン買って帰る」

「プリン?」

「消費したカロリー分。仙台さんもプリン食べる?」

「食べたいけど、一緒に歩かないの?」

「疲れたし、帰って朝ご飯食べる」


 仙台さんは私のものだけれど、私の犬じゃない。


 だから、すれ違った人たちのように一緒に散歩はしない。早く帰って一緒にご飯を食べたほうがいい。そもそも散歩をしようという話は断っている。


 ゴールデンウィークは始まったばかりだ。


 仙台さんはバイトがあるからいない日があるけれど、あの家は仙台さんにとって大事なものだから、待っていればちゃんと帰ってくる。それにペンギンを見に行く約束もしているから、その日は一人きりにはならない。


「じゃあ、朝ご飯の用意しとくから早く帰ってきなよ」


 ちょっと不満そうな、でも優しい声がスマホから聞こえてくる。


「言われなくても早く帰る」

「プリン忘れないでよ」


 わかってる、と答えて電話を切る。

 ポケットには五百円玉が一つ。

 私はどんなプリンを買おうか考えながら、コンビニへ向かった。

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