宮城が美味しくないことは知っている

第11話

「ただいま」


 家に帰ってきたという儀式の一つとして、リビングに向かって声をかける。明かりが漏れる部屋からは笑い声が聞こえてくるが、それだけだ。聞こえているはずの声に返事がないことは当たり前すぎて、文句の一つも出てこない。


 大体、今日になって突然「おかえり」なんて言われても困るから、返事はない方がいい。その方が自然だ。


 夕飯は宮城の家で体に悪そうなお弁当を食べてきたから、お腹は空いていない。リビングに寄る理由もない私は、自分の部屋へ行く。


 過不足なく必要なものが揃った部屋の中、制服を脱いで部屋着に着替える。宿題も宮城の家でやってきたから、今日やるべきことはすべて終わっている。


 私は鞄の中から財布を出して、宮城からもらった五千円を抜き取る。そして、チェストの上に置いてある五百円玉でいっぱいにすると百万円が貯まるという貯金箱に、その五千円を捻じ込んだ。


 いくら入ってるんだろ。


 週に一度か二度、宮城から五千円を受け取っている。この中に五千円札を何枚入れたか覚えていないが、そんな関係が夏の初めから続いているのだから結構な額が入っているはずだ。


 わざわざ開けてまで確かめるつもりはないし、いくら入っていても使う予定があるわけじゃない。でも、私が宮城と過ごした時間がどれくらい詰まっているのかは気になった。


 振ってみると、カラカラと音がする。

 それは、たぶん五千円を貯めるようになる前に入れた五百円玉が立てた音で、詰め込んだ時間を知る手がかりにはならない。


 私は、貯金箱をチェストの上に戻す。

 宮城は、ちょっとした命令をするために五千円を払う。


 高校生には大金で、本当なら気軽に出せる金額ではないそれを宮城は毎週渡してくる。お金には困っていないと言っていたが、貯金箱の五千円のことを考えると少し気が重くなる。命令の内容が金額に見合うものであれば、もらった五千円に思いを巡らすこともないのかもしれなかった。


 それを考えると、宮城が今日、ペンを口の中に押し込まれて感情を露わにした私に言った『そういう顔してて』という言葉は五千円に釣り合うものだったのかもしれない。


 あのときの宮城は今までで一番、楽しそうに見えた。


 だが、あれが五千円と引き換えにすべきものだとしたら、歓迎したいことだとは思えなかった。彼女に告げた「やっぱり宮城はヘンタイだ」という言葉は間違っていないし、私は嫌だと思うようなことを進んでするような変態でもない。


 これなら、犬のように従順になれと言われた方がマシだ。

 嫌がってる顔が見たいだなんて、宮城は病んでいるとしか言いようがない。


「なに考えてるんだか」


 誰に言うわけでもなく呟いて髪をほどくと、スマホがメッセージの着信を伝えてくる。画面を見ると羽美奈からで、『見た?』と書いてあった。


 そう言えば、今日は羽美奈が好きなドラマの日だっけ。


 テレビをつけるとドラマは終盤で、『お風呂入ってた。録画したの見る』と送っておく。

 これからドラマを見るとして、CMを飛ばしても五十分近く拘束されることになる。


 考えるまでもなく、すごく面倒くさい。


 見なければならないドラマは恋愛もので、そのジャンル自体は嫌いじゃないけれど、羽美奈が好きなドラマはストーリーが好みじゃなかった。時間の無駄とまで言わないが、つまらないドラマを見るくらいなら他のことをしたい。


 宮城に続けて呼ばれることはほとんどないから、明日の放課後はたぶん羽美奈たちと出かけることになる。それはありふれた放課後で、彼女たちと過ごすこと自体は嫌いじゃない。その時間を快適にするために踏む手順がほんの少し面倒なだけだ。


 明日、出かけたら絶対にドラマの話になる。


「見てないって言ったら、機嫌悪くなるだろうしなあ」


 相手が宮城だったら、わざわざドラマを見る必要もないのに。


 私はベッドに寝転がって、腕を伸ばす。

 部屋の明かりに手をかざして、人差し指を見る。

 バレンタインデーに宮城に噛まれた跡はとっくに消えていた。


 まあ、残っていても困るけど。


 あの日は、あんなに躊躇うことなく人の指を噛めるものなのだと驚いたが、次の日まで歯形が残るようなことはなかった。


 学校に関わるような命令は契約違反。


 指に歯形が残って羽美奈たちに追求されるようなことがあったら、ルールを守らなかったことになる。だから、宮城なりに加減してくれたのかもしれなかった。もしかしたら、歯形というのはそんなに跡が残り続けるものじゃないのかもしれないが、今まで歯形を付けられたことなんてないから、宮城の配慮だったのか偶然だったのかはわからない。


 私は歯形があった場所を撫でてみる。

 痛みも何もない。


 唇で触れて、見えない跡をたどるように舐めてみる。

 別に何も感じない。


 そうだよね。


 第二関節から指の根元辺り。

 宮城に舐められて気持ちが悪かった。

 でも、同時に柔らかな舌が神経を撫でるようなおかしな感覚があった。


 ――あのとき、私も宮城と同じ顔をしていたのだろうか。


 宮城の足を舐めて、噛んだ。

 あの日の彼女の顔を覚えている。

 私もああいう顔をしていたのだとしたら。


 小さく息を吐いて、起き上がる。


 やっぱり、ドラマ見よう。


 私は再生速度を速めることで時間を短縮することにして、リモコンの再生ボタンを押すと、早口の登場人物たちがせかせかと動き回り始めた。


 痛いのは好きじゃない。

 ぞんざいに扱われるのも好きじゃない。

 それでも、宮城の部屋は自分の家にいるよりも居心地が良かった。


 私も毒されてるのかもしれないな。


 深い意味はないにしても、互いの肌を舐めるような真似をしたことで距離感がおかしくなっているのかもしれない。でも、今さらそれをどうこうするつもりもないし、宮城も狂ってしまった方向を修正したりしないだろう。


 テレビの音量を上げる。

 羽美奈が好きだというイケメン俳優の声が大きくなる。

 私は、それほど面白いとは思えないドラマに意識を向けた。

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