第299話
手の甲を鼻に近づける。
仙台さんからしそうな良い匂いがして、ベッドに寝転がる。
手がべたべたしていてため息が出る。
目を閉じて、見飽きた天井を視界から消す。
私の手を覆うべたべたの正体はクリスマスプレゼントとして仙台さんからもらったハンドクリームで、舞香とお揃いのものだ。正確には同じブランドのもので同じ種類のものだけれど、香りはお揃いじゃない。似ているけれど違うハンドクリームは、数えるほどしか使っていない。
――舞香は全部使ってしまったと言っていたけれど。
はあ、と大きく息を吐く。
仙台さんに帰ってきてほしくない。
仙台さんに帰ってきてほしい。
二つの気持ちがぶつかって、胸がざわつく。
相反する気持ちはどちらかが大きくなりすぎることもなく、拮抗していて対処に困る。私の気持ちなのに、二つの気持ちは私に迎合しない。混じり合うことなく私の中をぐるぐる駆け回って、胸の奥まで踏み荒らしていく。
仙台さんは、遅くなるというメッセージを守るようにまだ帰って来ない。
大学が違うし、友だちも違う。
同じ家に住んでいても違うことがたくさんあるから、合わせようと思わなければ時間が合わなくなっていく。今日のように友だちと会うなんて用事があると、簡単に時間が重ならなくなる。
こういうことが増えていけば、私たちは一緒に住んでいながら別の生活をすることになる。
私と仙台さんは仲が良くも悪くもないルームメイトだから、そうなってもおかしくはない。
閉じていた目を開く。
枕元に置いた黒猫のぬいぐるみを持ち上げて、頭を撫でかけてやめる。
ハンドクリームを塗ったばかりの手で撫でると、黒猫にべたべたや匂いがついてしまいそうだと思う。
家に帰ってきてから、一時間か、二時間くらい。
よくわからないけれど、結構な時間が経っている。
「……仙台さんは私のものじゃん」
帰ってきてほしくないと思う気持ちが私にあっても、彼女は私のものなのだから早くこの家に帰ってくるべきだ。
この部屋と仙台さんの部屋を隔てている壁にそっと触れる。ゆっくりと手を離して、ノックをするように軽くトンと叩く。
返事はない。
黒猫を壁に向けておく。
小さく丸まって、目を閉じる。
スマホは鳴らない。
眠るわけでもなく閉じた目が作る暗闇に漂っていると、トントン、と聞き慣れた音が聞こえてくる。
目が開かない。
体も動かない。
ベッドの上で金縛りにあったみたいに固まっていると、またドアを叩くトントンという音が聞こえた。
「宮城」
仙台さんが私を呼ぶ声がする。
「いるんでしょ」
トンとノックが続く。
帰ってきてほしかったし、早く帰ってくるべきだと思っていたけれど、帰ってきてほしくないと思っている私もいるから体が動かない。
頭の中は“どうしよう”でいっぱいで、溢れ出てきた“どうしよう”がベッドの上に転がっている。
「ちょっと宮城」
苛立ちが滲み出た声が聞こえてきて、少し大きなトンという音が響く。
「開けるよ?」
そう言いながらも仙台さんは入ってこない。
「あ、もしかして具合悪い? 大丈夫なの?」
ドアの外から聞こえてくる声は心配そうなものに変わっている。でも、彼女は行儀がいい。私がいいと言わないから入ってこない。放って置いたらドアの外でずっと私を待っていそうで、仕方なく手を伸ばし、足を伸ばして、固まった体をほぐして起き上がり、ドアを開けた。
「そんなにノックしなくても聞こえてる」
不安そうな顔をしている仙台さんに声をかける。
「宮城、いるなら早く開けてよ。心配するじゃん。調子悪いの?」
「悪くない。寝てただけ」
「本当に? 風邪引いてない?」
「引いてない。大体、ノックしても出てこないなら、いないのかもしれないじゃん」
「玄関に靴あったし、いなかったら変でしょ」
仙台さんが正論を口にして、私に向かって手を伸ばす。
よける間もなくその手が額に触れる。
「熱はないかな」
独り言のように言う仙台さんに、「触っていいって言ってない」と不満をぶつける。
「宮城、機嫌悪い?」
「悪くない。用があるなら言って」
「プリンかアイス一緒に食べない? コンビニで買ってきた」
「持ってないじゃん」
手ぶらで私の前に立っている仙台さんの足を蹴る。
「冷蔵庫に入れてある」
「仙台さん全部食べれば。私はいらない」
素っ気なく言ってドアを閉めようとすると、腕を引っ張られる。体が仙台さんに傾きかけて、足に力を入れる。引っ張る力に逆らって、一歩後退する。腕に張り付いた手を剥がすと、仙台さんの手が頬に触れた。
「宮城」
柔らかな声がして、仙台さんと目が合う。
綺麗な顔が近づいてきて、唇が塞がれる。
「今、キスするのおかしい」
すぐに私から離れた仙台さんのお腹を押す。
「いいでしょ。キスくらい」
「良くない。なんでキスするの」
「したいから」
「キスしたいだけなら自分の部屋に行って」
「部屋に戻ったら宮城とキスできない」
本当に仙台さんはろくなことを言わない。
聞こえてくるのは馬鹿みたいなことばかりで、私は彼女とこういう話がしたかったわけじゃないと思う。でも、したかった話があるのかと問われたら答えられない。
今日はいろいろなことがありすぎた。
話したいことがたくさんあるようで、なにも話したくないとも思う。
「ここにいてもキスできないから」
仙台さんに告げると、「じゃあ、どうしたらキスできるの?」と返ってくる。
こういうときの仙台さんは何度だってキスをしようとしてくるに違いないから、私は彼女の体を押し離してドアノブを掴む。けれど、仙台さんが離した距離を縮めて顔を近づけてくる。
「しないから」
彼女の口を手で塞ぐと、手のひらに湿ったものがくっついてくる。それはどう考えても舌先で、私は手を慌てて離すことになった。
「宮城の手、いい匂いがする」
彼女の言葉にハンドクリームを思い出す。
塗らなきゃ良かった。
なんとなく仙台さんから隠すように手を後ろへ回すと、「そのハンドクリーム嫌い?」と問いかけられた。
「なんで?」
「あんまり使ってくれてないみたいだから」
「別に好きでも嫌いでもない」
「そっか。マフラーは?」
「寒くなったら使う」
好きか、嫌いか。
答えはそのどちらかで、私が口にした言葉は求められている答えとは違うはずだ。でも、仙台さんは「良かった」と笑って、「キスしないでって言うならしないから、部屋に入れてよ」と続けた。
仙台さんはきちんとしつけられた犬のようで、共用スペースで私の“いい”を待ち続けている。
そういう彼女は嫌いじゃないけれど、苛つくこともある。
私は仙台さんの足を蹴って、彼女の服をぎゅっと掴む。
「宮城、宇都宮となにかあった?」
部屋に入れてというくせに部屋に入ってこようとしない仙台さんが、唐突に私の親友の名前を口にする。
「舞香とはなにもない」
「とは、って、宇都宮じゃない人となにかあったの?」
「なにもない」
「じゃあ、機嫌が悪い理由ってなに?」
「悪くない」
これは本当で、機嫌が悪いわけじゃない。
なにか悪いものがあるとすれば、それは能登さんだ。
けれど、能登さんのことは仙台さんに言いたくない。言えば能登さんのことを思い出すことになるし、能登さんのことを考えると、忘れていたいことまで考えることになってしまう。
「……帰るの遅くなったから怒ってるとか?」
探るような仙台さんの声に、視線を床に落とす。
ゴミは一つも落ちていない。
よく見れば埃くらいあるのかもしれないけれど、この家はいつも綺麗だ。私と仙台さんがそうなるように掃除している。
大事な場所は綺麗なほうがいい。
そう思う。
「ルームメイトが遅くなったからって怒るの変じゃん」
ぼそりと答えて、ピカピカの床を蹴る。
「怒りなよ」
「ルームメイトなのに?」
「一緒に住んでるんだから怒ってもおかしくないでしょ」
仙台さんが静かに言う。
それは仙台さんに“恋人”がいても?
頭にそんな疑問が浮かぶ。
「……仙台さん」
「なに?」
床から視線を上げて、仙台さんを見る。
本人に聞かなくても、“恋人”と呼べるような人間が仙台さんにいないだろうということはわかる。今日まで一緒に暮らしてきて、そういう人間がいると思えるような出来事はなかった。
でも、それが永遠に続くとは限らない。
いつかそういう人ができるかもしれない。
そうなっても。
仙台さんが私のものであり続けてくれると思っているのは、私だけかもしれない。
約束は守ろうと思わなければ守られない。
ルームメイトという鎖が今日は頼りなく思える。
頭の中で能登さんが笑う。
――私はそういう誰かがいる仙台さんは許せそうにない。
「……部屋入れば」
言いたかったことはこんなことじゃない。
でも、私は自分が口にした言葉に従って大きくドアを開いた。
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