第17話

「わざわざ命令されに来るなんて、仙台さんてヘンタイなの?」


 帰って。

 一度口にした言葉のはずなのに、それは声に出すことができなかった。


「宮城ほどじゃないから。で、命令するの? しないの?」


 選ぶ権利を私に押しつけて、こっちを見ることなんてできないはずの仙台さんがモニター越しにじっと見つめてくる。


 理由もなく彼女がこの部屋に来なくなってしまうことに耐えられず、春休みが来る前に仙台さんが来なくなってもいい理由を与えた。けれど、彼女は今、インターホンの向こうにいる。


 仙台さんを追い返すことは簡単だ。

 でも、帰ったら彼女はもう来ない。


「――今、開ける」


 どういうつもりか知らないけれど、仙台さんが来たから。

 だから、部屋に入れるだけだ。

 引き留めるわけじゃない。


「ありがと」


 そう言って、モニターから仙台さんの姿が消える。程なくしてチャイムが鳴り、ドアを開けると仙台さんがいた。

 彼女は靴を脱ぐより先に、小さな紙袋を私に見せる。


「これ、どうする?」


 確認するように仙台さんが言う。

 紙袋の中にはあの日あげた服が入っていて、それをどうするのかを選ぶのはやっぱり私だ。

 仙台さんは私の答えを待っている。


「命令されに来たんでしょ」


 紙袋を受け取らずに背を向けると、ドアを閉めて鍵をかける音が聞こえた。


「そういうことでいいよ」


 重くも軽くもない声が聞こえて、私は彼女を置いていくように部屋へ向かう。当然のように後ろから足音が聞こえて、部屋のドアを開けると仙台さんも滑り込むようにして中へ入ってくる。そして、いつも占領していたベッドに腰掛けた。


「部屋、何も変わってないね」


 あれから一ヶ月も経っていないのに、一年ぶりに来たみたいにしみじみと仙台さんが言う。


「変える必要ないもん」

「そりゃそうか」


 彼女は風に舞う花びらみたいに軽く言って、枕元にある漫画を手に取った。


「これ、あのときの漫画。読んでたんだ?」


 片付けておけば良かった。


 私は、初めてこの部屋に来た彼女に読ませた漫画をベッドの上に置きっぱなしにしておいたことを悔やむ。

 けれど、もう遅い。


「読んでたらなに?」

「なにも」


 笑ってはいないが、さっきよりも少し声が高い。


 たぶん、面白がっている。


 仙台さんのこういうところが嫌いだ。


「そう言えばさ、一週間私のこと呼ばなかった理由ってなに?」


 さりげなく。

 読むわけでもなく漫画のページをただめくりながら、仙台さんが尋ねてくる。


「それくらい呼ばないことだってあるよ」

「今まで、一週間も私のこと呼ばなかったことないのに? なんか理由あるでしょ」

「三年になったから」


 私は正確ではないけれど、明らかに間違っているというわけでもない答えを口にする。


「塾にでも行ってるの?」

「……行ってない」


 塾に行く予定はない。

 勉強はそれほど好きではないし、大学にどうしても行きたいという強い意志もなかった。滑り込める大学があればそれでいいし、なければそのときに考える。


 私の答えに納得したのかしないのかよくわからないけれど、仙台さんは「ふーん」と言ってページをめくっていた漫画を閉じて舞香の名字を口にした。


「クラス、宇都宮と一緒なんだっけ」

「そうだけど」


 舞香と同じクラスになったなんてことを仙台さんに話してはいないし、話す機会もなかった。それでも彼女がその事実を知っているということは、始業式の日にわざわざ私の名前を名簿の中から探してくれたのかもしれない。


 いや、私が一組で、仙台さんが二組だから、可能性としては彼女が自分の名前を探しているうちに知ったという確率の方が高いはずだ。

 私は、仙台さんの手から漫画を奪う。


 そうじゃない。

 そんなことは、どっちだっていいことだ。


 頭の中に居座ろうとする余計な考えを追い出すように、漫画を本棚に戻す。


「私と一緒じゃなくて、がっかりしたでしょ」


 綺麗に並べた本を見ていると、からかうような声が聞こえてくる。


「してない」

「そう? 私はしたけど」


 重みのない声に振り返ると、仙台さんがにこりと笑った。


「嘘ばっかり」

「嘘じゃないよ」


 彼女はわざとらしくそう言うと、隣にやってきて本棚から漫画を一冊取りだした。私はその本を取り上げてもとあった場所に戻し、尋ねる。


「命令って、どんな命令でも良いんでしょ?」

「今さらそんなこと聞く?」

「今日は五千円じゃないし、一応」

「いつも通りでいいよ」


 春休み前と変わらない顔で仙台さんが言う。

 窓の外に目をやると、空が赤く染まっていた。隣の家や数軒先のマンションも空と同じ赤に塗られている。


 春になって、冬に比べると少し日が長い。

 ファンヒーターは、もう使っていない。

 仙台さんは暑くないのか、ブレザーを着たままだった。


 私はカーテンを閉めて、夕焼け色の世界からこの部屋を隔離する。そして、ベッドに腰掛けた。


「そこに座って」


 ベッドの前を指さすと、仙台さんが言われた通りに床の上に座って私の足を掴んだ。


「靴下を脱がせて、足を舐める。でしょ?」

「よくわかってるじゃん」

「こういう命令、好きだよね」

「別に好きなわけじゃない。他に適当な命令がないだけだから」

「へえ」


 疑うような視線を向けられて、私は「早くして」と仙台さんの肩を蹴る。


「暴力反対」

「暴力じゃないし」


 何か言い返してくるかと思ったら、彼女は黙って私の足に手をかけた。ソックスを脱がせて、踵に手を添える。ふう、と仙台さんが吐いた息が足先に吹きかかり、生暖かくて柔らかなものが触れた。


 押しつけられた舌が指を濡らす。

 ゆっくりと足の甲に向かって這っていく舌は、少し気持ちが悪い。けれど、仙台さんが私の足を舐めている姿を見るのは気持ちが良かった。


 二組のことは知らない。

 でも、きっと彼女は隣のクラスでもカーストの上位にいるはずで、茨木さんと一緒に楽しくやっているに違いない。そんな彼女が今、私の足を舐めている。


 舌先が押しつけられる。

 皮膚の上、今まで以上に仙台さんの体温を感じた。

 お互いの熱がぶつかって、溶けて、私のものになっていく。


 舌が足首に向かう。

 ファンヒーターはつけていないはずなのに、部屋の中が少し暑い。ネクタイを緩めると、足首の近くを強く吸われた。

 舌とは違う感覚に、私はシーツを握る。


「仙台さん、それやだ」


 言葉と同時に唇が離れて、唐突に親指を囓られる。


「いたっ」


 歯が肉に食い込む。

 それでも、彼女はやめない。

 指を扉に挟んだ時ほどではないけれど、鋭い痛みに足を揺らす。


「仙台さん、やめて」


 ゆっくりと親指を挟んでいた歯が離れ、痛みが消えていく。かわりに、柔らかな舌で緩やかに舐め上げられる。ぺたりとくっつく舌は、やっぱり気持ちのいいものではない。でも、仙台さんの体温を嫌だとは思わなかった。


 足先から伝わってくる熱はお腹の辺りまで上がってきていて、吐き出す息まで温度が上がったような気がする。

 それは、あまり良くない感覚のような気がした。


「仙台さん、いつまでここに来るつもり?」


 彼女の動きを止めるように、前髪を引っ張る。


「さあ? 卒業するくらいまでじゃない。大学は違うだろうし。宮城が来るなって言うならもう来ないけど、来ない方がいい?」


 顔を上げた仙台さんが、酷く真面目な口調で言った。


 来て。


 と言えば、卒業するくらいまでは来てくれるらしい。

 けれど、来てと頼みたくはなくて、答えにならない言葉を口にする。


「大学行くの?」

「宮城は行かないの?」

「わかんない。仙台さんはどこ行くの?」

「まだ決めてない」


 私に志望校を言いたくないのか。

 それとも、本当に決めていないのか。

 よくわからないまま、会話が途切れる。


 夕焼けを遮っているカーテンを見ると、透けて入る光の量が少なくなっていた。

 暇つぶしとでもいうように、仙台さんの手が足首を撫でる。さわさわとくるぶしを触られて、足がびくりと跳ねる。抗議のかわりに太ももを軽く蹴ると、仙台さんが口を開いた。


「あのさ、宮城。私、炭酸苦手だから」


 予想もしなかったタイミングで、予想もしなかった告白をされて、私は思わず「えっ?」と声を出す。


「それ、今さらすぎない?」

「最初、こんなに長くここに来ることになるとは思わなかったし、言うタイミング逃した」

「……次もサイダー出す」

「うわ、性格悪い」

「うるさい。もうお喋りは終わり。足、舐めて」


 仙台さんが足の甲に唇を押しつけて、小さな音を立てる。


 舌先が皮膚に触れる。

 体温が混じって、私の中に入り込む。

 体の中に彼女の熱が溜まっていく。


 濡れた舌が這い、足首に向かう。

 それは、やっぱり少し気持ちが悪かった。

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