第140話

 カップラーメンか、レトルトのハンバーグ。

 自分で作るという選択肢もある。


 いくつかある方法の中から今日の夕飯を決めて、私はレトルトのハンバーグを取り出して温める。食べるのは私一人で、わざわざ作るのも面倒くさい。朝、仙台さんはバイトがあるから遅くなると言って家を出たけれど、言われなくても一人で夕飯を食べる日は頭に入っている。


 私はハンバーグをお皿に出して、ご飯を用意する。サラダかなにか買ってくれば良かったと思ったけれど、一人で食べる夕飯は一品増えたところで楽しい時間にはならない。誰かと食べる夕飯はどんなものでも美味しく感じるけれど、一人で食べる夕飯はどんなものでもそれなりの味しかしない。空腹を満たすためだけのものだ。


 私は箸を動かして、ハンバーグとご飯を胃に詰め込む。仙台さんといても会話が弾むようなことはないが、一人だと弾まないどころか一言も喋る必要がないからお皿がすぐに空になる。食器を洗ってしまったら共用スペースにいる必要がなくなって、私は部屋へ戻った。


 本棚から黒猫を取ってベッドに放り投げる。

 そして、黒猫を追いかけるようにベッドにダイブする。


 今日は楽しい日ではなかったけれど、上手くいかないということもなかった。でも、気分はあまり良くない。お風呂に入るのも面倒だし、着替えるのも面倒だ。やらなければいけない課題を見るのも面倒で、黒猫を引き寄せる。


「にゃあ」


 ぬいぐるみの代わりに鳴いて頭を撫でる。

 クリスマスプレゼントとしてやってきた黒猫は、側に置いておくと落ち着いて、頭を撫でると気が紛れるくらいの存在になっている。じっと見ていると、鳴き声を聞かせてくれたら明るい気分になりそうだと思う。


 胸の上に黒猫を置いて目を閉じる。

 眠たくなかったはずなのに、視界を遮断してしまうと頭に霧がかかったようになって意識が遠のいていく。


 ちょっとだけ。

 三十分くらい。


 アラームをセットするのも面倒で、私は瞼に部屋の明かりを感じながら睡魔に身を任せた。すう、と自分の寝息が聞こえて、ころり、と黒猫が落ちる。暗いくせに光を感じる闇の中、意識は浅くも深くもないところをさまよっている。夢を見ているような見ていないような中途半端な状態で眠っていると、小さな音が遠くから聞こえてきた。


 コンコン、コン。


 それが控え目にドアを叩く音だとわかって、体を起こす。


「なに?」


 喉に絡まる声を押し出して、ドアの外に向かって尋ねる。


「ケーキ買ってきたんだけど、一緒に食べない?」


 仙台さんの明るい声が聞こえてくる。


「ケーキ?」

「そう、ケーキ。とりあえずドア開けてよ」


 催促されて部屋からでる。

 ドアをパタンと閉めると、仙台さんが私の腕を掴んだ。


「ショートケーキと苺タルト、あとレアとベイクドチーズケーキ買ってきた。好きなの食べていいよ」

「多すぎない?」

「二つくらい食べられるでしょ。紅茶入れるし、座りなよ」


 食べると言っていないのに仙台さんが私の腕を引っ張るから、テーブルの前まで連行されることになる。

 仙台さんが椅子を引いて、にこりと笑う。

 テーブルの上に視線をやると白い箱がのっていて、コンビニではなくちゃんとしたお店でケーキを買ってきたのだとわかる。


 ケーキは嫌いじゃないし、お腹には余裕がある。

 二個食べられるかはあやしいけれど、一個は確実に入る。


 私は大人しく椅子に座って、仙台さんを見た。


「……なにかいいことあった?」

「いいことなくてもケーキ買うでしょ。美味しいもの食べたら楽しい気分になるしさ。宮城、ケーキ嫌い?」

「好きだけど」

「ならいいじゃん。お湯はもう沸かしてあるから、少し待ってて」


 そう言うと仙台さんが紅茶の葉を入れたティーポットとマグカップを持ってきて、二人で買いに行った電気ケトルでティーポットにお湯を注いだ。そして、スマホを使ってきっちり時間を計ってから、マグカップに紅茶を注ぐ。


「好きなの選んでいいよ」


 白い箱を開けながら仙台さんが言う。

 中を覗くと、さっき彼女から聞いたケーキが隙間なく並んでいる。食べきれるかどうかはともかく、四つ全部食べてもいいくらい好きなものだ。二つ選ぶならこれとこれというものはあるけれど、私が先に選ぶのは悪い気がする。


「買ってきた人が先に選びなよ」


 仙台さんに選択権を渡すと、彼女はお皿を持ってきてショートケーキとレアチーズケーキをのせて私の前に置いた。それはどちらも私が食べたいと思ったもので、おそらく仙台さんは私の視線からその二つを選んだ。


「仙台さんはどれが好きなの?」

「苺タルトとベイクドチーズケーキ」


 彼女は残った二つのケーキを挙げて、お皿にのせた。


「本当はどれ?」

「自分の好きなもの買ってきたから、四つとも好きなケーキ」


 私が面倒なことを言いそうだと思ったのか、仙台さんがベイクドチーズケーキについているフィルムを剥がす。そして、「いただきます」と言ってから、フォークで二等辺三角形の頂角を崩してケーキを頬張った。


 それはお皿にのせたケーキを黙って食べろということで、私も「いただきます」と言ってショートケーキのフィルムを剥がす。苺は最後に食べたいから先にお皿の上に置いて、二等辺三角形の頂角を切り取って一口食べる。甘すぎない生クリームが舌の上で溶け、ふわふわのスポンジと混ざり合って胃に落ちていく。


「美味しい?」


 三口目のベイクドチーズケーキを食べた仙台さんが私を見た。


「うん。……ありがと」


 お礼を言って、生クリームたっぷりのケーキを崩す。フォークに刺した大きめの塊を口の中に入れる。夕飯を食べた後とは思えないくらいするすると生クリームが食道を通っていく。


 向かい側では、仙台さんがベイクドチーズケーキを黙々と口に運んでいる。バイトの話はしない。予想もしなかった質問をされただとか、最近の中学生が考えていることだとか。そういう興味のない話をしてこない。


 バイトの話は、されてもされなくても気に入らない。

 ケーキは美味しいけれど、胃の奥のさらに奥に消化できないものが溜まり続けている。


「仙台さん、こっち来てよ」


 向かい側にいる仙台さんに声をかけて、斜め前を指さす。仙台さんが不思議そうな顔をしながらも立ち上がり、私は「椅子ごと」と付け加えた。ガタガタという音とともに仙台さんが私の斜め前に座る。


「口、開けて」


 そう告げてから、指先で生クリームをすくう。滑らかなクリームが指を覆い、ひんやりとした感覚が伝わってくる。

 仙台さんの眉間には、薄く皺が見える。

 今からすることがあまり良いことではないことはわかっている。それでももう一度、開けて、と言うと、彼女は躊躇わずに口を開けた。


 腕を伸ばして口元に指を持っていく。

 開けられた口に指先を入れると、唇が閉じて第一関節に歯が当たった。生温かい舌が指に押し当てられて、生クリームが溶けていく。


 仙台さんは、言えば大抵のことをしてくれる。

 今も命令ではないのに、口を開けて私の指を舐めている。

 私の言葉に従う彼女を見ていると、ほっとする。命令をしていた頃とは違うけれど、変わっていないこともあるのだと思える。


 私は指を少し押し込む。

 抵抗するように指に歯を立てられる。

 それでも奧へと押し込むと、指に舌が絡みついた。生クリームよりも温かくて硬い舌が指を這う感触は、気持ちが良くて気持ちが悪い。私は指を強引に引き抜いて、カバーのないティッシュ箱からティッシュを取って指を拭った。


「なんで舐めたの?」

「宮城が舐めろって言ったんじゃん」


 私の言葉に従うことが当然のように仙台さんが言う。


「口開けてって言っただけだけど」

「それって舐めろってことでしょ」


 間違ってはいないけれど、当たり前のように言ってもいないことをされると、どんな言葉にも従ってくれそうな気がしてくる。


 ――今、バイトを辞めてってまた言ったら。


 考えたことが思わず口に出そうになって、ショートケーキをフォークで崩す。小さな一口ができあがってそれを口に運ぶ。甘すぎなくて、軽くて、ふわふわしていたのに胃の中のケーキが重い。生クリームもスポンジも鉛か鉄に変わってしまったように思える。


「仙台さん。さっきいいことなくてもケーキ買うって言ってたけど、本当は買ってきた理由があるんでしょ?」


 私は重くなった胃を誤魔化すように問いかける。


「美味しいもの食べたかったから」

「ほんとに?」

「……宮城の機嫌を取りたかっただけ」


 仙台さんがため息交じりに答えて、言葉を続けた。


「今もあんまり機嫌良くないみたいだけど、どうしたら機嫌が良くなるわけ?」

「悪くない」

「悪いじゃん。笑えとは言わないけど、もう少し楽しそうにしてなよ」


 仙台さんは私が不機嫌でも笑わなくても、一緒にいてくれるし、こうして気も遣ってくれる。だから、たまには少しくらい楽しそうにしたっていいけれど、どうやったら彼女の前で楽しそうにできるかわからない。


 仙台さんは優しい。

 でも、私は仙台さんに優しくできないし、試すようなことばかりしている。


「舐めて。そしたら機嫌良くなるかも」


 生クリームのついていない指を仙台さんに向かって伸ばすと、手を掴まれて引っ張られる。私の言葉通りに舌先が人差し指にくっついて、舐められる。彼女の手よりも熱いものが指を這って、舐め取るようなものなんてないのに生クリームを舐めるように動く。付け根に向かって指が濡れていき、手の甲に唇が押しつけられる。


 唇はすぐに離れて、また押しつけられる。舌先がくっついて、手首まで舐め上げられる。仙台さんの体温のある場所に神経が集まって、皮膚の感覚が鋭くなる。肌の上を舌が動くたび、ぞわぞわとして勝手に肩がぴくりと動く。


 心臓が縮んで半分になったみたいに苦しい。


 仙台さんの舌が手首から血管を辿って腕へと進む。

 また唇が押しつけられて腕を引くと、何の抵抗もなく手が私の元へ戻ってきた。

 彼女の体温が消えてしまうと、物足りなくなる。

 ケーキを食べるより、仙台さんに触れたいと思う。


「目、閉じて」


 仙台さんに告げると、なにも言わずに開いていた目が閉じた。

 立ち上がって頬に触れる。

 手を滑らせて、指先で唇をなぞる。真ん中まで撫でたところで、指を舐められる。唇から指を離すと、仙台さんが私の服を掴んだ。そのまま引き寄せられるように、私は彼女の唇に唇で触れた。


 軽く触れただけだから、生クリームの味はしない。

 ただ柔らかさだけを感じて唇を離す。

 仙台さんが目を開けて、視線が交わる。

 私はなにか言いたげな顔をしている彼女が喋りだす前に口を開いた。


「仙台さん、ご飯食べに行くって約束守ってないよね」


 ゴールデンウィークに彼女がピアスに誓った約束を持ち出す。


「連休終わってから、バタバタしてたから」


 私は言い訳をする彼女を見ながら椅子に座る。


「仙台さんから誘ってきたんじゃん」

「その約束、今度の日曜日でいい?」

「いいよ」


 短く答えてティッシュで指を拭うと、仙台さんが何事もなかったように紅茶を飲んだ。

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