宮城には知られたくない
第154話
特別なことがあった日も、日を重ねることで過去に埋もれていく。意図的に心の目立たない場所にあの日の記憶をしまっていることもあって、私は宮城と変わらない毎日を過ごせている。
スタンプを押すように同じ日を繰り返すことに不満がないわけではないが、そうすることで私たちの関係は元の関係に近づいている。
でも、まったく同じ日が連なっているわけではない。
「先生、大学って楽しいですか?」
宿題をしていた花巻さんが顔を上げて、私を見た。
「まあまあかな。花巻さんは学校楽しい?」
上手く先生ができているかわからないが、家庭教師というバイトにも先生と呼ばれることにも慣れてきた。花巻さんとどう接すればいいのかもわかってきたから、最初の頃のように緊張することもない。変わらずにいる努力をしている中、家庭教師としての私は変化している。
「楽しいです。このまま中学にいたいくらい」
受験生にあるまじき発言をして、花巻さんが「はあ」と大げさにため息をつく。
「ずっと中学生のままがいいなあ。今のクラス楽しいし」
「高校も楽しいかもよ」
「先生は楽しかったですか?」
希望していた高校には行けなかった。
それなら要領よく立ち回って、良い学校生活を送ろうとしてそれなりに楽しくやっていたけれど、それなりはそれなりでしかなかった。でも、高校生活の半分近くを宮城と過ごしたことでそれは変わった。
「最終的には楽しかったかな」
「最終的って、途中は楽しくなかったんですか?」
「途中も楽しかったよ。だから、花巻さんも楽しいことがあるかもね」
にこりと笑って返す。
「あるかもしれないっていうのはわかってるんですけど、やっぱり今がいいなあ」
花巻さんが、はあ、ともう一度ため息をついてから言葉を続けた。
「先生は、どんなことが楽しかったんですか?」
花巻さんははしゃいだりすることもないし、言葉が止まらなくなるほどのお喋りではないが話し好きで、質問し合っていると話が終わらない。黙りがちな宮城とは大違いだ。
「んー、そうだなあ」
楽しかったことは答えにくいことで、私は言葉に詰まる。
宮城とのことを話すわけにはいかないし、話したところで聞いた人が楽しそうだねと言ってくれるような内容にならない。
「それって、恋人ができたからとかですか?」
好奇心が山盛りになった声が聞こえて、宮城の顔が頭に浮かぶ。私は当然のように現れた宮城を追い払って、笑顔を作った。
「わかった。花巻さんが中学楽しいのって、恋人がいるからだ」
「そういう人いません」
花巻さんが即答する。
「そっか。じゃあ、そういう人できたら先生に教えてよ」
雑談は休憩にもなるし、空気も和らぐ。勉強の途中に少し話をするとそれが気分転換になって、あとは集中してくれる。いつもならもうしばらく話を続けるところだけれど、この話が続くのは良くない。
「そろそろ続きしようか」
私は話を切り上げて、宿題の続きをするように促す。
花巻さんが「はい」と短く返事をして、ノートに視線を落とした。
白い紙の上をペンが走る。
それからはいつものように時間まで勉強を見て、私は花巻さんの家を出た。
駅まで歩いて、電車に乗る。
私は花巻さんとした話を思い出す。
恋人という言葉は、高校生だった私と宮城には当てはまらない。そして、今も当てはまらない。これから先、当てはまることがあるかどうかもわからない。
宮城を好きだという気持ちを日曜日の出来事を正当化するために使いたくないと思っていた。それは今も変わらないけれど、そうなるといつ気持ちを伝えていいかわからない。今日言っても、明日言っても、好きという言葉は過去の私を正しく見せるための装飾品のように思われてしまいそうだ。
気持ちが正しく伝わる未来が見えない。
だから、恋人という言葉は遙か彼方にあって、私には無関係なものに思える。今は宮城から恋人と呼ばれる存在になりたいという気持ちよりも、これまで積み重ねてきた関係を手放したくないという気持ちの方が強い。
時間は、私を臆病にさせている。そして、伝えることで失うかもしれないものの多さを気づかせた。
電車が停まって、また走り出す。
同じことを何度も繰り返して目的地に近づいていく。
私と宮城が目指している場所はどこなんだろう。
同じ方向を目指しているのかどうかすらわからない。
私は同じことを繰り返す電車から降りる。
街灯に照らされながら家へと向かい、階段を上ってドアを開ける。玄関には宮城の靴がある。共用スペースへ行くと、テーブルの上にメモ用紙が一枚ぴらりと置いてあった。
『プリン食べていいから』
冷蔵庫を見てみると、プリンが二つ鎮座している。私は中からプリンではなく、野菜と豚肉を出して炒める。簡単な夕飯を食べて胃を満たしてから、宮城の部屋の前へ行く。
ドアを三回叩くと、宮城が顔を出した。
「おかえり。プリン食べた?」
「ただいま。これから食べるから呼びに来た」
そう言うと、宮城が部屋から出てきて大人しく椅子に座った。プリンとスプーンを二つずつ出して、私も席に着く。
「いただきます」
声が揃う。
蓋を剥がして、スプーンでプリンをすくって口に運ぶ。
硬めのプリンは思っていたよりも甘い。
宮城を見ると、ゆっくりとプリンを崩して食べていた。
美味しいのか、機嫌が良さそうに見える。
こうして一緒にいると、宮城に嫌われていないことはわかる。でも、嫌われていないから好きだということにはならない。大体、宮城は私の言葉を信じない。好きだという言葉は、日曜日の出来事を正当化するためのものにすらならない可能性がある。
私の言葉を宮城に信じさせるのはとても難しいことに思えるし、付き合ってなんて言ったら反射的に断ってきそうにも思える。今も「機嫌が良さそうだね」と言ったら、「そんなことない」と私の言葉を否定してくるに違いない。
宮城は警戒心の強い野良猫のようで、変化を好まない。
好きだという感情は関係性を大きく変えるもので、今の宮城に言ったらすべてが終わってしまいそうだ。
きっと私たちはルームメイトではなくなり、宮城は私の前からいなくなる。
だったら。
そんなことになるくらいだったら。
なにも言わない方がいい。
スタンプを押すような暮らしを続けていれば、ルームメイトとして宮城に触れることができる。関係が変わらないかわりに、失うものもない。
現状に不満を感じることがあっても、過去に埋もれた記憶を引っ張り出して眺めることはできるし、今はそれだけで我慢できる。恋人という言葉は、すべてを失うリスクを冒してまで手に入れるようなものではないはずだ。
私は黄色い塊を口に運び、飲み込んでから尋ねる。
「宮城、このプリンどこで買ってきたの?」
「そこのコンビニ」
「今度、杏仁豆腐食べたい」
「自分で買ってきなよ」
「宮城のけち」
好きだと言わなければ、こんなくだらない会話もできる。
それだけで楽しいと思う。
私たちは意味のない会話を続けてプリンを食べる。
容器が空になってからもしばらく話をして、会話が途切れたところで立ち上がる。
宮城の側へ行く。
座ったままの宮城の髪を梳いて耳に触れると、くすぐったそうにわずかに体を動かして私の服を掴んだ。
指を這わせると硬い物が触れる。それは小さな花の形をしていて、触れていると私は宮城にとって特別なんだと思える。そう感じているのが私だけでもかまわない。
頬に唇を寄せる。
そっと触れて離れる。
現状を維持すれば、こうしてキスもできる。
親指で唇を撫でる。
宮城が体を引きかけて、私を見上げた。
視線が合う。
自分の手をぎゅっと握りしめる。鼓動が速くなりかけていて、このままだと宮城に触れる前に心臓が破裂してしまう気がする。
私から目を閉じて、唇を重ねる。
本当に一瞬。
軽く触れただけですぐ離れる。
目を開くと、宮城が変わらずに私の前にいた。
「明日は仙台さんがプリンじゃないもの買ってきてよ」
掴んでいた私の服を離して宮城が言う。
「わかった」
少し我慢するだけでいい。
今は宮城がここにいてくれることの方が大事なのだから。
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