第370話

「……え?」


 倒れた。

 仙台さんが。

 ちょっと押しただけなのに。


「ねえ、ちょっと。仙台さん、大丈夫なの? もしかして具合悪い?」

 

 私は床にぺたりと横になっている仙台さんの肩を揺する。

 目が閉じていて開かない。


 どうしよう。

 揺すると良くないかもしれない。

 

 手を止めて、仙台さんを見る。

 でも、これからどうすればいいのかわからないから、また「仙台さん」と彼女を呼ぶ。


 名前を呼んでもどうにもならないと思う。けれど、良くないことが起こったりしない代わりに悪くもならないことは声をかけることくらいしかない。無難な行為で状況が好転するとは思えないが、なにもしないよりはマシだ。


「仙台さん」


 もう一度呼ぶと、彼女の目がゆっくりと開く。


「ごめん」


 小さく言って、仙台さんが体を起こす。


「大丈夫なの?」

「ちょっと驚かせようと思ったら、やり過ぎた」


 馬鹿みたいな言葉が聞こえてきてむかつくけれど、ほっとする。


「驚かせるの、良くないと思う」

「だね。今のは良くなかった」


 ふにゃりと芯のない声で言い、仙台さんがベッドに寄り掛かる。


 目がまた閉じられる。

 顔は赤いままで、普段の仙台さんとはほど遠い。


 どうしてこんな風になってしまったのかと、テーブルに目をやる。


 ――どう考えてもあの瓶の中身が悪い。


 シードルはリンゴジュースの親戚みたいな味がしたけれど、紛れもないお酒だ。アルコールというものを飲んだ人間特有の症状が仙台さんに現れていてもおかしくない。


「良くないと思ってるなら、これ以上は飲まないでよ」

「なんで?」


 仙台さんが不思議そうな顔をする。


「なんでって、仙台さんが変だからじゃん。酔ってるでしょ?」

「酔ってない。頭が痛いだけ」

「……は?」

「横になってもいい?」

「……それ、どう考えても大丈夫じゃないよね? 酔ってるっていうか、具合悪くなってるじゃん」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「大丈夫だって」


 仙台さんが自信たっぷりに断言して、床に体を横たえる。

 目は開いているけれど、眉間に皺が寄っている。その姿は大丈夫なんて嘘としか思えないもので、私は小さく息を吐いた。


「横になってていいけど、なんで頭が痛いのに飲んだの?」

「さっきまでは痛くなかった。気がついたら痛かったんだもん」

「だもんって……」


 仙台さんは少しも大丈夫じゃない。

 この人はお酒を飲ませてはいけない人だ。


「仙台さん、タブレット借りるよ」


 自分の部屋に置いてあるスマホを取りに戻るより、この部屋にあるものを活用したほうがいい。


 私は仙台さんの返事を待たずに彼女のタブレットを手に取って、こういうときの対処方法を調べる。


 インターネットというものはものすごく便利なもので、私が知らないお酒のことをなんでも教えてくれる。すべてが本当ではないところは厄介だけれど、タブレットに映し出された情報を総合すると、仙台さんは病院へ連れて行くほどではないらしい。


 理由はいろいろあるようだが、お酒を飲んですぐに頭が痛くなる人もいるようだ。


 仙台さんのような人間に今すぐできそうなことも見つかったから、私は共用スペースへ行ってグラスに水を注いで部屋に戻る。


 床に転がっている仙台さんの隣に座って、「起きてこの水飲んで」と声をかける。

 効果があるのかはよくわからないが、飲まないよりはマシだ。


「宮城がキスしてくれたら、水飲む」

「……は?」

「キスしてくれないなら飲まない」


 馬鹿みたいな言葉とともにふにゃふにゃの仙台さんが体を起こして、ベッドに寄り掛かる。


「仙台さん、自分の立場わかってないでしょ」


 お父さんが酔っ払って帰ってきた記憶はない。

 お母さんがお酒を飲む人だったかどうかはよく覚えていない。


 とにかく私は酔っ払いというものをほとんど見たことがないのだけれど、この真面目に考えるに値しないようなことを言う仙台さんは間違いなく酔っ払いだと思う。


「立場くらいわかってる」


 お酒に飲まれた仙台さんが自信満々に言って、シードルが入ったグラスを手に取る。そして、ごくりと飲んだ。


「ちょっとなんでお酒飲むの」


 私はどうかしている仙台さんを止める。


「宮城がキスしてくれないから」

「馬鹿じゃないの」

「馬鹿だもん」


 そう言ってまた仙台さんがシードルを飲む。


 駄目だ。

 この人はどうしようもない馬鹿で、理不尽な酔っ払いだ。


 だから、だから、だから。


 どうしたって私が譲歩することになる。


「キスするからグラス置いて」


 きっぱり言って水が入ったグラスをテーブルに置くと、仙台さんも大人しくグラスをテーブルに置いて目を閉じた。


 頬が赤く染まった仙台さんは綺麗だけれど、どうしようもない馬鹿だ。


 私は、はあ、とわざとらしく息を吐いてから、なにも言わず目を閉じている仙台さんに口づける。


 温もりを感じる時間は一秒もいらない。

 すぐに唇を離すと、服を引っ張られて唇が押しつけられる。


 勝手にキスをされて、私は彼女の肩を押す。


 仙台さんは「宮城がキスしてくれたら」と言った。

 だから、仙台さんからではなく私からキスをして、水が入ったグラスを渡す。


「飲んで」


 私の声に反応して仙台さんがグラスを見る。

 でも、それは一瞬でねだるように私を見てくるからもう一度だけキスをすると、仙台さんがやっと水を飲んだ。


「ありがと」


 ふにゃりとした声とともに、空になったグラスがテーブルに置かれる。


「仙台さん。今日、私、誕生日なんだけど」

「知ってる。おめでとう」


 こめかみを押さえた仙台さんが明るい声で言う。


「ありがと。……なんか、私の誕生日なのに、私が仙台さんのためにいろいろしてる」

「ごめん」

「謝らなくていい」

「ごめん」

「お祭りのときもだけど、最近の仙台さんって謝ってばっかだよね」

「ごめん。……格好悪いところしか見せられなくて」


 謝らなくてもいいのに、仙台さんが謝って申し訳なさそうな顔をする。それは悪戯をして怒られた犬のようで、見ているとどことなく可哀想になる。


 こういう彼女は珍しい。

 でも、“最近”だけを見れば珍しい話ではなく、よくある話だ。


 要するに、この夏休みの仙台さんは仙台さんらしくない。


「……そういうの、人間っぽくていいと思うけど」


 情けない仙台さんは嫌いじゃない。

 おそらくこういう仙台さんはほかの人が見られない仙台さんで、私だけの仙台さんだ。


 そう思うと、しょんぼりした犬のような彼女をずっと見ていたくなる。


「宮城の誕生日だし、もっといいところ見せたかった」


 そう言うと、仙台さんが私に寄り掛かってくる。


 なんでもそつなくこなす仙台さんは、誰でも知っている。


 私も高校時代にずっと見てきたし、大学生になってもそういう仙台さんを見ている。それは当たり前のことで、どんなことでも難なくこなす仙台さんが誰かの前にいるのは諦めることができる。


 けれど、こういう仙台さんが私以外の前にいるのは許せない。


「仙台さん、お酒禁止だから。絶対に外で飲まないで」

「お酒、美味しいのに?」

「美味しいとか美味しくないとか、そういう問題じゃない」


 酔っ払ってヘロヘロになって、ほかの誰かにこんな姿を見せるなんて絶対に駄目だ。そして、介抱しようとしたら、キスをしないと水を飲まないなんてことを私以外の人間に言うかもしれないなんてあり得ない。


 肩を押したら理性のネジがコロンと落ちてしまいそうな彼女がこの家以外に存在するなんてもってのほかだ。


「宮城の前でならいいの?」


 茹ですぎたパスタのようにくたりとした声が聞こえてきて、「よくない」と告げる。


「いいじゃん。二人で飲もうよ。量はちゃんと考えるからさ」

「もう黙って寝て。着替え用意してあげるから、ある場所教えて」

「頭痛いけど、喋れるし喋ろうよ」

「喋ってもろくなこと言わないから喋らなくていい。着替えどこ?」


 私に寄り掛かっている仙台さんの腕を押す。


「着替えって?」

「服脱がないと皺になる」


 今日の彼女は私がリクエストした通り綺麗な服を着ている。

 そんな服が皺になったり、汚れたりしたら困る。


「いい。このまま寝る」


 仙台さんが不満そうに言って床に寝転がろうとするから、彼女の腕を引っ張る。


「良くない」

「皺をとる方法なんていくらでもあるし」

「こういうときって体を締め付けるのもよくないみたいだから、脱いで。服だけじゃなくて下着も」

「……宮城ってすけべだよね」

「すけべじゃない」

「でも、全裸になれってことでしょ?」

「そこまで脱げって言ってないじゃん。常識的に考えて喋って」

「じゃあ、脱がせて」

「なにが“じゃあ”なの。意味わかんないんだけど」


 むかつく。


 普段の仙台さんもくだらないことを言うけれど、酔っ払った仙台さんはいつもの十倍くらいくだらないことを言う。このままでは話が先に進まないから、綺麗なワンピースを着た仙台さんのまま隣に座らせておきたくなる。


「仙台さん、真面目に聞いて。服も心配だけど、仙台さんも心配だから自分で着替えてベッドに寝て」


 ゆっくりと酔っ払いにもわかるように告げると、仙台さんが「Tシャツ、チェストに入ってる。勝手に開けていいから」と言ってワンピースを脱ぎ始める。


 私は言われた通りに彼女のチェストを漁って、Tシャツとスウェットパンツを取り出す。そして、今日の主役だったはずなのに、酔っ払いの着替えを手伝ってベッドに寝かせる。


「……疲れた」


 思わず零れ出た言葉にため息を付け加え、シードルが入っていたグラスを空にする。

 やっぱり仙台さんのように美味しいとは感じられない。


 私は、テーブルに並んだ瓶から炭酸が入っていないシードルを選んでグラスに注ぐ。一口飲んで、息を吐く。


「……これなら炭酸のほうが美味しい」


 辛口も飲んでみるが、こっちは明らかに好みではない味がする。

 甘口を口に含んでみるが、辛口よりもマシなだけで味は微妙だ。


 ――仙台さんと“美味しい”を共有できたら。


 なんてくだらない考えが浮かんでシードルを飲んでみたが、仙台さんと“美味しい”を共有できそうにないことがわかっただけだ。


 きっとビールを飲んでも。

 ほかのお酒を飲んでも。

 仙台さんと同じように感じることはできないと思う。


 お酒というのは面白くない。


 私は立ち上がって、仙台さんが寝ているベッドに腰掛ける。

 彼女の頬を撫で、ピアスに触れる。


「……葉月。私以外の人とお酒飲むの、絶対に駄目だから」


 耳たぶの裏側に指を這わせる。

 ピアスを摘まむと、留め具のキャッチが親指に刺さる。


 痛い。


 今日の仙台さんが忘れられなくなるくらいに痛い。


 耳から指を離す。

 誕生日がすべて仙台さんで塗り替えられていく。


 今日という日の記憶は、ケーキを食べている仙台さんやキーケースを私にくれた仙台さん、そして、酔っ払った仙台さんでいっぱいで、たぶん、私は二十歳の誕生日をずっと忘れることができない。


「ほんとむかつく」


 私は仙台さんの額をぺしりと叩いて、ペンギンのぬいぐるみを彼女のお腹の上へ置いた。



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