14 山神のむかし話 後編





 つい顔がにやけそうになるも、山神は耳だけを己が名を呼ばわった者がいる方へ向けた。乱れる呼吸と足音が近づいてくる。


「山神様、先日できたばかりのその店の甘味をご所望ですな!? いましばらくお待ちくだされ! 拙者が! 拙者が買って参りますゆえ!」


 視線を向けることもなく山神がほくそ笑んでいると、新たな声と足音きたる。


「そこの若造、待ちなはれ! わしが! このわしが山神様に供えるから、アンタは余計なことしなさんな!」


 たいがいこうなる。

 山神がいかにも甘味を食べたくてたまらない態度を取ると、視える者たちが我先にと駆けつけ、買ってくれるのだ。


「待って、待って! 今日こそ私が供えるから!!」


 毎度ほぼ同じ面子なのだが、少々困ったことにその人数が多く、争奪戦になる。互いに牽制し合い、甘味が眼前に供えられるのに時間がかかることが多かった。


 今日もいらぬもめごとが長引きそうだ。

 山神がため息をついた時、甘味処の戸口から盆を手にした青年が出てきた。


「山神様~、おまたせしました~」


 いたずらっ子のように笑うのは、やけに上等な身なりの青年であった。

 むろん店員ではない。呉服屋の跡取り息子である。他を出し抜いて購入してきてくれたようだ。

 コトンとお盆ごと長椅子に置かれ、山神は即座に鼻を寄せる。


『ぬぅ、あまったらしい香りぞ』

「だが、そこがいい! んじゃないんですかい? 山神様はこし餡が好きですからねい」

『――そうであったか?』

「そうでしょう。いつもこし餡ばっかり食うじゃないですかい。それより、できたてですぜい。早いところおたべなせい」


 長椅子に座した青年は、にこにこと笑っている。

 己が分を買うことはないのは、いつものことである。山神が甘味に夢中になっている様を眺めているのだ。

 この上なく、幸せそうに。

 それは青年だけではなく、いつの間にか周囲に輪をつくっている人々も同様であった。


「山神様があんなにとろけた顔をなさって……!」

「めちゃくちゃ尻尾が振れているじゃねぇか……!」


 両指を組んで天を仰ぐ者や身もだえする者もいる。


「山神様がお幸せそうで、私も幸せ……!」


 赤珊瑚のかんざしをつけた娘など、涙まで流している。

 ただ食っているだけの山神の半径二メートルほどが、異様な空間と化しているものの、目くらましの膜を張っているため、常人には認識できないから問題はない。

 ともかく、ただ尻尾を振るなり、眼を輝かせるなりすれば、歓喜に沸くなど安い者らよとも思わないでもないが、この者たちだからこそともいえる。


 幾度も転生を繰り返し、数多の試練を乗り越えてきた彼らの魂は磨き上げられている。


 ゆえに、魂はほとんど臭わない。


 この段階までくると人間的な欲も削ぎ落されており、他力本願なところもない。

 彼らは神に希わない。神に期待しない。

 競い合ってでも山神に物を供える行為は、ただ神に喜んでほしいだけなのである。

 だからこそ、山神は彼らとともに過ごす時間も楽しんでいた。

 とはいえ、もらいっぱなしは信条に反する。




 囲っていた者たちが後ろ髪を引かれるように去っていき、一人残った呉服屋の跡取り息子に山神は話しかけた。


『今日の甘味もたいそう美味であったぞ』

「なによりでさぁ」

『礼をせねばならぬな』

「いや、いりやせんよ。おれっちが好きにやってることなんですからねい」


 当然のように拒否されたが、それは許さぬ。

 山神はやるといったらやるのである。


『いや、我が礼をすると云うたらするのである。必ず、な。ほれ、受け取るがよい』


 居丈高に言い放ち、長椅子に丸い石を置いた。


「あ、石か。ならば――」


 ただの石だと思って安堵したのだろうが、その石に含まれる濃密な神気に気づいたようで、硬直した。


『これは、願いを三つだけ叶えてくれる石である。これに向かって好きに願うとよい。生き物の寿命を延ばすこと以外であれば、たいてい叶うぞ』


 最後の注意事項を強調した山神は、その場を離れる。

 やや離れた所で呉服屋の跡取り息子が大声を出した。


「山神様、死ぬまで大事にしまさぁ!」

『いや、さっさと使うがよい』


 呆れたようにつぶやいた声が風にまかれる。

 一陣の風が吹いたそれと同時、追いかけてくる足音があった。

 歩幅が狭く、軽い。

 童かと思っていると、前へ回り込まれた。

 年端も行かない少女であった。胸の前で両手を握り合わせ、必死の形相で懇願してきた。


「山神様、お願いします! わたしのおっかさんを助けてください!」


 噂は回るものだ。

 少し前、街中で武蔵という人物に同じように願われ、救ってやったことがある。

 ただその時は武蔵の息子の怪我であった。

 今回、切々と訴えてくる内容を聞けば、その母は寿命――天命が尽きようとしている。

 念のため、少女をよくよくみれば、他者の死の気配もまとっていた。


「どうかどうかお願いします、山神様。おっかさんを救ってくださいっ」

『できぬ』


 冷厳に言い放つと、娘は食い下がってきた。


「ど、どうしてっ、武蔵様のせがれは救ってあげたんでしょ!?」

『寿命は延ばせぬゆえ』


 少女に細かく説明する気はないが、神にも手を出していい領域と禁忌とされる領域がある。

 その一つが、生き物の寿命を引き延ばすことだ。

 なぜなら、あとあとしわ寄せがいくことになると決まっているからだ。

 人間は、人生は一度きりだと思っている。

 今生は一度ゆえ、決して間違いではないのだが、その人生は長い魂の旅路の通過点でしかない。


 神の視点は、人間とは異なる。


 神は人間の一度の人生ではなく、魂のゆく末をみている。はっきりいうと、本人のためなのだが、人間――生者はそれを理解できない。

 案の定、少女は下唇を噛みしめた。握った拳を震わせ、悔しさを隠さない。

 人間からすれば非道のように思えるだろう。贔屓のように感じるかもしれない。

 しかしこれは譲れないところであった。




 とぼとぼと肩を落として歩み去っていく少女と入れ替わるように、見慣れた者が走ってきた。

 噂が回る発端となった武蔵である。

 月代頭の五十路男は、土埃を蹴立てて迫ってくる。


「山神様、申し訳ございません! 遅うなりもうした!」

『――まことに活きのよいやつよ……』


 呆れて言うと、つんのめるように眼前で止まった武蔵がささっと着物を整え、笑う。


「もちろんでございます。さあさあ山神様、新しくできた甘味屋へ参りましょうぞ!」


 武蔵は息子の怪我を治してやった恩を忘れない。

 町を訪れた際、必ず駆けつけ、甘味屋へいざなってくるのだ。

 むろん、山神が拒否するはずもない。


『よかろう。案内するがよい』


 高飛車に顎を上げたあと、尻尾をふりふり武蔵とともに足を踏み出した。





 あの時、武蔵に連れられて行った甘味屋で食べたこし餡の菓子も、たいそう美味であった。

 現代のお菓子に比べたら、極めて質素であったが、それはそれで舌に合った。やはり地産地消だったゆえだろうか。


「――ちょうどあのあたりであったか」


 なんの偶然か、湊といづも屋へ向かう道すがら、そこを通りかかった。

 商店街であったこの場所は変わらずとも、二百年ほど前と同じ店があるのは非常に稀だ。

 そこもいまは甘味屋ではなく、食事処に変わったようだ。

 格子扉のその戸口へ誘うように、小豆色ののぼり旗がはためいている。


 奇しくもそこで、武蔵の子孫――武蔵出版社の社長が食事中であった。

 十和田記者と。

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