14 疲れすぎた播磨の末路




 きつい、疲れた。休みたい、眠りたい。

 切実に訴えてくる心と身体を無視し、播磨は楠木邸の表門をくぐった。

 彼は連日の悪霊祓いで霊力を消耗し、疲れもピークに達しており思考が鈍りきっていた。

 そのうえ慢心もあった。前回の訪問時、洗礼――全身にかかる荷重がなかったから、今回もないだろうと。


 確かにその読みは当たっていた。敷地内に踏み込んでも、山がのしかかってきたかのごとき重みは感じず、地面に靴跡が残ることもなかった。

 が、山神自体から発せられる芳香の威力を甘く見ていたと言わざるをえない。

 かの神の香気には、眠気を誘発する成分がふんだんに含まれている。


 その空気に全身を包まれた瞬間、脳から心から、そして全身から力が抜けてしまった。片手もゆるみ、持っていた紙袋――前回持参すると約束した〝土佐家の黒糖まんじゅう〟が落ちそうになる。


 指先からこぼれ落ちていくその感覚を、もう播磨は感じていない。目を閉ざして前のめりに倒れていく。


「播磨さん!」


 どこか遠くで湊の声がしたような……。

 そう頭の片隅で思ったあと、完全に意識を手放した。




 ゆるやかに覚醒へと向かう途中、ああ、よく寝たなと播磨は思った。

 なにせ肉体的な疲労が完全に消えている。悪霊祓いで体力を使うのは、対象を殴る蹴るをするからに他ならないが、移動続きでも疲れは溜まるものだ。

 それがいまや、まったく感じられない。加えて霞がかっていた思考も、クリアになっているのを実感していた。

 瞼を透かす明るさからまだ日中であることは紛れもない。短時間の睡眠であったようだが、深く寝入ったおかげだろう。


 播磨は深呼吸しつつ、身の内に意識を向けた。

 残念ながら、もっとも大事な霊力の方は完全に回復していなかった。

 こればかりは致し方ないことだ。もとより短時間の睡眠程度では、元には戻らない体質である。

 生来、霊力が少ないうえ、回復も遅い。

 正直、激務の陰陽師は向いていない。

 身にしみてわかっていることだ。けれども、あえてこの道を選んでいた。


 まどろむ播磨は、唐突に己が状況を思い出した。

 楠木邸の表門を通り抜けてからの記憶がない。にもかかわらず、いまの己は横たわり、ご丁寧にブランケットまでかけられているらしい。

 さて、どこで。

 頬をかすめる、あたたかくやわらかな風。それに含まれる山神の神気と森林の香り。

 縁側で寝ていたのだと、目を開けるまでもなく理解した。

 また、やってしまったようだ。

 はじめてではないため、さして動揺はない。時折、取引の只中に意識を失い、座卓に突っ伏して寝ているからだ。

 とはいえ、いつまでもこの状態でいていいわけもなかろう。自らは仕事できているのあって、睡眠を取りに来たのではないのだから。


 起き上がろうとした時、不自然な風を感じた。思いとどまり、うっすら瞼のみを上げる。

 まず視界に映ったのは、手水鉢であった。聞き慣れぬ水音がしていたのはこれだったのかと、筧を流し見た。

 まだ新しいであろうに、まるで昔からここにありましたと言わんばかりに庭に馴染んでいる。それを見てもさほど驚きはしなかった。


 ああ、また改装を行ったのだなと思うだけだ。

 なにせ突如、大木は生えるわ、池が川に変わるわ、あまつさえ塀の壁から滝が出るわ。そんな神域に取り込まれた庭・・・・・・・・・にいまさらニューアイテムが増えたところで、いちいち驚いていられない。

 そして、一基の石灯籠も見た。そこから神気を感じることから、火袋の中に神がいるのは紛れもない。以前はかすかであった神気が強くなっており、おそらくこちらの様子をうかがっているのだろう。


 新たな面子が加わったようだが、それでも静けさを保っている。

 時たま、山の神が荒ぶることはあれど、おおむね平穏だ。いつも通り、ここは現世と異なる時間が流れていると錯覚する場所であった。

 ともあれ、それらはいい。むしろそれどころではなかった。

 その視線は、ある一点に止まったまま動かなくなった。


 手水鉢の向こうに、こちらに背を向けた湊が立っている。


 横へと伸ばされた腕の先で風が渦巻いていた。

 幾多の葉を舞い躍らせているそのつむじ風は、手のひらから発生しているようにしか見えない。


「とりあえず、こんなものかな」


 湊が手を払うと、風の形が変化する。巻きが解かれ、舞っていた葉が列を組み、庭の片隅へと流れていった。風で落ち葉を掻き集めたのだろう。

 よく見れば、もう片手も動いていた。

 その人差し指が指すのは、クスノキ。水気を帯びた風の繭に包まれているから、その風も湊が操っているようだ。


 一連の摩訶不思議な現象は、神の力を行使しているからだと播磨も理解している。

 湊が二神の力を宿しているのは気づいていた。よほど集中しなければわからないほどに微量なことも。

 いま遣っている力は、時折ここにいる風神のものであろう。神気の質が同じであった。


 ふいに不自然な風が吹き、湊の髪が掻き乱された。


「こら、いたずらしない。うわ、背中冷たっ。あ、でもちょっと暑かったから、ちょうどいいかも」


 笑う湊の背中に丸いへこみができたり、消えたりしている。まるで透明な球状の物体が幾度もぶつかっているようだ。

 今度は湊の髪が膨らむ。


「どうして、そう執拗に髪を狙うかな」


 斜め上空へと指先を向けて風を放つと逆風が吹き、ぶつかり合う。

 さらには湊の繰り出す風が増したり、横へ反れたりすることから、対抗しているのは風の精だと思われた。

 人間が神の力を軽々と扱い、あまつさえ精霊とも仲良く戯れている。

 そんなメルヘンな光景は、常人であれば信じがたかろうが、播磨はすんなり受け入れた。


 播磨一族はもとより、古代から連綿と血をつないできた憑坐よりまし――その身に神を降ろし、神の言葉を民衆に伝える巫女の家系であった。

 先祖が降ろした男神に見初められ、さんざんすったもんだあったあげく、子をもうけた。

 男神はいまだ健在で、播磨家の現当主たる母や次期当主の姉にしばしば降りてくる。

 その際、御業を行使するため人が神の力を遣うのは見慣れていたが、母や姉の場合は意識がなく、男神に身体を支配された状態となる。


 それに比べて湊は己が意識を保ったまま、難なく神の力を扱っている。そこは驚きでしかなかった。

 思えば、表門をくぐったあとの記憶がない。ならば己は倒れたはずだ。しかしどこにも痛みはない。

 おそらく湊が風を用いて、助けてくれたのだろう。

 礼を言わねばなるまい。

 そう思う播磨であったが、ふたたび目を閉じた。

 湊はいまの状態を己に見られることを望んでいないはずだ。

 彼は、人でいたがっている。

 播磨はそれを察していた。


 そんな播磨が覚醒する前からずっと、その近くで優雅にくつろぐ存在がいた。

 むろん山神である。

 じっと播磨を観察していたその視線が庭へと流れた。


「もうすぐこやつが起きるぞ」

「え、もう⁉ ヤバい、片付けないと!」


 庭に散らばった落ち葉が一挙にクスノキの横に集結し、小山を築いた。湊と風の精二体による、三方向からの風のおかげであった。

 風の精たちが回転しながら御山の方へと飛んでいき、湊は素知らぬ顔で落ち葉をポリ袋に入れている。

 そろそろいいだろうと、空気を読んだ播磨が起き上がった。

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