15 播磨のおとんも変わり種
つつがなく取引を済ませた播磨は、待たせていた車に乗り込む。後部座席に深くもたれかかって息をついた。
「それでは、次の現場へお連れしますね」
ハンドルを握る運転手は、普段通りの愛想のよい態度だ。表門を越えた時の失態には気づかれていないようで安堵した。
「ああ、頼む」
車が動き出し、窓を開けるその手の甲には、墨痕鮮やかな格子紋がある。
『今回は両手に書きますね。サービスです』
と問答無用の湊によって念入りに書かれていた。
それを見て、播磨は両目を細めた。
――また、力が上がったな。
蜂の巣に酷似した膜に覆われた格子紋の祓いの力は、完璧に閉じ込められている。
けれども、その翡翠の光は隠せておらず、視える者なら遠くからでも認識できるであろう。
――無駄に力が漏れ出ていないならば、それでいい。
祓いの力を封じる革手袋をはめずに済む。暑い時期に好んで革手袋を着用する趣味はなかった。
ふと播磨は視界が薄く曇っていることに気づく。眼鏡が汚れているようだ。
――磨かねばなるまい。
真っ先にそう頭に浮かんだ。
楠木邸へ向かう道行きでは欠片も目に入っていなかった細部にまで気を回せるようになったのであれば、ようやく通常の状態に戻れたということだ。
いい傾向だと思いながら、身体は流れるように動いた。上着のポケットに手を入れた時、反対側のポケットでスマホが振動する。
画面に表示された名を見て、軽く眉根を寄せた。
『大変だ、息子よ』
電話に出ると突然、父が切羽詰まった声で告げた。
しかし息子は眉一つ動かさずスマホを耳に当てている。
『今日も芙蓉さんが美しすぎる』
実に悩ましげな声である。なお芙蓉とは母の名だ。
――やはり、大したことではなかったか。
いつものことゆえ、息子は相槌すら打たない。
父は折に触れて惚気けてくる。夫婦仲がよいのは大変よろしいことだ。が、そこそこ鬱陶しい。
「それだけですか、父上。切りますよ、いま忙しいんです」
そっけなくあしらおうとも、父はめげない。
『そう邪険にしなくてもいいだろう、少しの間だけ私の話を聞いてほしい。いまは移動中だろう? 言わずともわかっているよ、風の音が聞こえるからね』
「まあ、そうですが……」
毎回父の電話は手が空いてる時にかかってくる。どこからか見ているのではないのかと思うくらいタイミングがよい。
ゆえに、黙って拝聴しなければならない羽目になる。
『それで芙蓉さんのことなんだけどね。何年経とうと我が女神の美しさは色あせない。寝起きでも美しいとはどういうことだろう。私は毎朝そのご尊顔、いや、美の権化たるお姿を目にして、心臓が止まりそうになるよ』
〝美しい〟なる言葉がゲシュタルト崩壊しそうである。
思っていても息子は口を挟まない。無駄に長くなると経験上知っているうえ、この言い草は姉の伴侶とそっくりで慣れてもいた。
血のつながりのない義兄の方が父と似ているのは不思議なことだ。
肩でスマホを挟んだ播磨は、眼鏡を拭きはじめた。父の惚気話は聞き流すに限る。
それからさんざん似たようなことを述べたのち、突如、話題が変わった。
『あ、そうだ、これも伝えておかねばならないね。聞いておくれ、才賀。昨日、またも素晴らしい逸品を手に入れたのだよ……!』
「はあ、またですか」
これも珍しくもない話題であった。むしろ頻繁にあるといえよう。
父は神や霊獣にまつわるモノの蒐集家である。どこぞで見つけて、父曰く〝出逢った〟際は必ず購入してくる。
おそらく目の玉が飛び出る高額を支払ったのであったろうが、父は商才に恵まれているから、金には不自由していない。
『急にさる町へいかねばならんと思い立っていってみたのだけど、気になったお店に入って見たところ出逢ってしまったんだ。その逸品にね。――ただとても素敵なお品ではあったけれども、前回の木彫りがあまりに素晴らしく、少々物足りなさを覚えてしまったよ』
「はあ、そうですか……?」
確かに前回購入したブツの時は、父は冷静さを欠いていた。それだけのモノであったのだろう。
思う播磨は実物を見ておらず、それが湊の木彫りだったことを知らない。父もその都度、蒐集物の報告をしてくるわりに詳細を語らないからだ。
ゆえに播磨は、父と湊が知り合っている旨をいまだ知らなかった。
『ああ、そうそう。その帰りに土地神様の神域に迷い込んでしまってね。いやぁ、そこも実に素敵なお住まいだったよ』
「また迷い込んだんですか。よくぞご無事で……。いつ帰ってこられたんですか」
『翌日だ。今回の土地神様も気のいい方で、そうそうに戻してもらえたよ』
息子の心配をよそに、父は快活に笑った。
父は神との親和性がすこぶる高く、見知らぬ場所へ出かけようものなら高確率で迷い込んで行方不明になる。しかし毎度、自力で生還してくる猛者でもあった。
幼い頃からさまざまな神と接してきたおかげで、神との距離の取り方、付き合い方が抜群に上手く、交渉して帰してもらっているという。
そんな父だからこそ、神の身勝手さもよくよく理解している。
常に忙しい播磨が、わざわざ仕事を抜け出してまで楠木邸に護符を購入しに赴くのは、父の助言によるものだ。
もし人の都合でその役を勝手に別人に変更しようものなら、入れてもらうことすらできない恐れもある。ともすれば別の神域へと放り込まれることもある。
ゆえに楠木邸――山神の神域に入ることを一度でも許された才賀が、必ずいくようにと言われていた。
ひとしきりしゃべり倒した父は、
『ところで才賀、今度の日曜日、芙蓉さんのリクエストでひさびさに和食をつくるんだよ』
と告げてきた。父は料理が趣味である。その腕も料理人顔負けで、母も父の手料理をいっとう好むため、ねだられたのだろう。
『もちろん芙蓉さんがこの世でもっとも愛するだし巻き卵もね。どうだい、才賀も食べたくないかね』
家に戻ってこいという直接的な言葉を吐かない父は、毎回己が手料理で釣ろうとする。
「そうですね――」
仕事で全国を飛び回る播磨は、あまり実家には帰らない。
とはいえ帰るのはやぶさかではなかった。長距離移動が億劫なだけで、決して実家の居心地が悪いわけでもない。
電話でも家に戻っても『彼女はできたか、嫁はまだか』などのいらぬ世話な言葉を両親や親族から浴びせられたことは一度もないから、精神的にも楽だ。
「では、日曜には戻り――」
了承の言葉を返そうとした時、ついでのように付け足された。
『その日、あの方も
播磨の口元が引きつった。
あの方とは、播磨家の先祖の神である。
今回降りてくる理由はなんだと訊くまでもなく、思い当たった。
「――姪の相手が決まったんですね?」
『ああ、よりすぐりの男子らしいよ。いつものことだけども』
姉の長女の結婚相手を告げにくるという。
己が血を引く娘たちをただひたすらに愛する男神は、彼女たちにとってこの世でもっとも相性のよい相手を幼少期に決めてしまう。
中には反発する者もいるが、結局その人物を選ぶことが多い。
なお男である才賀は決められなかった。『男ならば、己が伴侶くらい自分で探せ』ということらしい。
播磨はまったく気にしていない。どころかいくら相性がよかろうと、勝手に結婚相手を決められるのは御免である。
「では、必ず帰らねばなりませんね」
帰らぬわけにいくまい。
たとえ存在自体をさして認識されていないとしても。
正直気は進まないが、致し方あるまい。
『美味しいご飯を食べていくといいよ』
理解している父なりの労いなのだろう。
特大のため息をついた播磨が車窓側を見やると、流れていく景色がゆっくりになった。
「父上、そろそろ現場につきますので、切りますよ」
『おや、結構時間が経っていたのか。すまないね。つい話が長くなってしまったよ』
「いつものことですね。では――」
『待て、才賀。最後にもう一つ言っておきたいことがある』
声が低くなった。偶然か、窓の外の騒音も上がった。
播磨は窓を閉めながら、スマホを耳に押し付ける。
『決して霊力を遣いきるような真似はしないように。――命に関わるよ』
そう聞こえたあと、電話は切れてしまった。
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