4 今回は物見遊山となるか




 まんまとピーカン日和になった翌日、湊と眷属三匹は仲良く早朝から出かけていた。

 彼らが目指すのは、日向ひゅうが工務店。北部の目抜き通りからやや外れた場所にある。

 以前、山神とともに出かけた時、親方が日曜大工に励んでいる家の前を通りかかったことがあり、調べたら工務店はそこに併設されているようだった。


 商店街を間近にした街道を湊一行が進んでいく。平日の朝にもかかわらず、人が多い。

 梅雨のひとときの晴れ間を謳歌するためであろう。

 まっすぐ歩くのがやや困難なその道のりに入っても、湊は速度を落とさず人を避けて進んでゆく。


 一方、その前と左右を駆ける眷属たちの足取りはひどく重い。

 家を出立し、バスに乗っている間まではまともだった。

 やや口数が少なかったぐらいだが、降車してから格段に様子がおかしくなった。眉間と鼻筋にシワを寄せ、鈍足になっている。垂れ下がった太い尾はいつも通りだが、駆ける所作に俊敏さはない。


「大丈夫そう……?」


 そんな彼らに湊が小声で問うと、前方のセリが振り返る。異様に表情が硬い。


「――はい、まだなんとか……」

「――ああ……」

「――う、ん」


 左右のトリカとウツギもうつむきがちで、声もほとんど聞き取れなかった。


 なぜ、こうも眷属たちは生気が抜けているのか。

 それは、湊のバッグに入ったメモ帳がまっさらだからだ。

 いつもの彼らを覆うバリアめいた翡翠光――爽やかな香りがせず、神聖な眷属たちを護るモノがなかった。

 もちろん湊が怠ったわけではなく、出かける間際、セリからメモ帳には何も書かずに出かけようと申し入れがあったからだ。


 彼らは、人間に慣れたいという。

 湊はもとより穢れに耐性があり、自らを護るための護符バリアは必要ない。にもかかわらず、外出時は必ずメモ帳の半分を祓う文字で埋めていた。

 はっきりいえば、無駄に祓いの力を浪費していた。

 その力は無限に湧くものではないのだと骨身に染みて学んだばかりだ。ならば、極力節約すべきであろう。


 そんな理由で現在、眷属三匹は抜き身で人波に挑んだに等しい。魂から微量に悪臭を垂れ流す者がひしめく、その只中へ。

 一人一人の臭いはわずかでも大勢ともなれば激臭となる。

 いうなれば、清流で生まれ育った魚をドブ川へ放流したようなものだ。鼻だけではなく、眼や喉、脳にも大打撃を受けていた。


 鼻はとっくに麻痺し、頭は割れそうで耳もよく聞こえていない。方向感覚さえ怪しくなってきていた。

 ついに湊の右手をゆくウツギが、よろけた。


「退却ー!」


 湊はたまらず叫び、三匹まとめて抱え上げ、横道へ駆け込んだ。

 通行人には怪しい言動に映ったであろうが、構っていられない。

 できるだけ眷属たちをゆらさないよう、無人の場を目指して走った。

 顔を伏せたセリは、四肢と尻尾も伸びきっている。


「ム、ムネンです……っ。ミ、ミニャト、メンボク、あ、あり、ません」

「いいよ! 無理したんだから!」


 トリカも同じ状態でへばっている。


「カ、カクゴはして、いたつもりだったが……こ、ココまでとは……な。すまない、ミナト、ふ、ふがい、なくて……」

「気にしないで!」

「オロロロロ……――」

「わー、ウツギ!」


 グルグルおめめの末っ子は、嘔吐してしまった。

 狭い路地に人はいない。臭いの発生源がなくなったとはいえ、即座に体調が回復するはずもない。

 焦る湊が首をめぐらす。そこは知らない場所だった。

 両脇はのっぺりとした土塀が続く住宅地だ。この界隈は北部でもっとも栄えた区域になり、建物が密集している。

 縦横無尽に延びる細い路地はどれも、民家につながっており、狭苦しい。


「……どこかに空気のいい、休める所はないか……」

「ミャア!」


 背後から高い猫の鳴き声がして振り向いた。

 悠々と歩み寄ってくるのは、黒い毛並みの猫。足先が白いこの靴下猫は、時折会う顔馴染みだった。


「ちょうどよかった……! このあたりに自然が多い場所ある?」


 問いかけても猫は答えない。黙して傍らを通り過ぎ、一度振り向いて、長い尾をピンと立てた。

 案内してくれるらしい。


 さほどいくまでもなく、緑豊かな場所にたどり着いた。

 厚いツタに包まれて緑のかまくらと化しているのは、元住居であろう。

 庭木との境目もなくなっていて不気味さしかないが、住宅地の切れ間にあたる一帯は風通しがよく、外観にさえ目をつぶれば快適な所だった。

 崩れた塀のそばで見上げてくる靴下猫は、どこか得意げだ。


「キミのお気に入りの所かな。教えてくれてありがとう」


 猫は、湊の膝に横っ腹を擦りつけたあと、向かいの垣根の隙間へ入っていった。

 見送った湊の腕の中で、眷属たちが深々と呼吸をして身じろぎした。


「気分、よくなった?」

「――だいぶ、よくなりました」

「全快……ではないが、結構マシに、なった」

「うん……。うぐっ」


 強がっているものの、引きつれた表情からまだダメだと知れる。体勢もよろしくあるまい。かろうじて塀の体裁を保つ囲いを越え、敷地内にこっそり踏み込む前にひと言。


「おじゃましまーす」

「律儀……ですね……」


 小声でささやいた湊に、セリは浅く笑った。

 それから緑の絨毯の上に三匹を降ろした途端、ぐったりと伏せてしまった。

 湊は、ボディバッグの中からペットボトルを取り出し、ウツギへ差し出す。かすかに首を横へ振って拒否された。


「ダメか……」


 山神と彼らも好む炭酸水だが、飲める元気もないらしい。


「じゃあ、これならどうかな」


 湊はメモ帳を手にし、筆ペンを握った。中に注入された墨液は、神水で墨を磨った物だ。

 キャップを開けた瞬間、ウツギがにじり寄ってきて鼻を引くつかせる。


「具合がよくなりますように」


 願いと祓いの力も込めて、〝山神〟と記した。

 その字から、湊と三匹を包んであまりある光量が放たれ、爽やかな香りも拡散された。

 瞬時に悪心、吐き気なぞ吹っ飛ぶ効果がある。


「ふわぁっ」


 ウツギがメモ帳に顔面を突っ込んだ。セリとトリカも相次ぎ、群がる三つの頭部しか見えなくなった。グイグイ鼻先を押しつけられ、湊の手が下がる。


「なんか怖い。俺が書いたモノ、ヤバいブツみたいになってる……」


 おののく書き手をよそに、三匹は恍惚としている。


「いい香りがしゅる〜」


 弾む口調のウツギは一気に復調したようだ。


「ホントでひゅね。改めて思ひました」

「フガフガ」


 鼻を文字に押しつけているセリとトリカの虚勢もはがれ落ちてしまっていた。やはり箱入りたちは、いきなりの人混みは耐えがたかったのだろう。

 それにしても、湊は気になる事柄があった。


「いい香りって、俺の書いた字からするってこと……?」

「そうです。とても爽やかな香りがするんですよ」


 セリが鼻を鳴らしつつ答えた。


「知らなかった……。山神さんから聞いたことないよ」

「山神のほうが強く匂うからね〜」


 ウツギがクフクフ笑いながら話す。


「あー……確かに……? 常に森林の香りがしてるね」

「ウツギの言い方だと、臭いみたいだな」


 トリカが笑いながら告げた。

 まったく離れようとしない眷属たちを見て、湊が提案する。


「もう、このまま家に帰ろうか?」

 一挙に三つの顔が上がった。その背後にメラメラと闘気の炎を宿している。

 断じて、帰らぬ! 態度でそう示していた。


「湊、大変ご迷惑をおかけしました。我らはもう大丈夫です。――絶対に帰りません、帰れません。いきましょう」

「ああ、問題ない」

「いける、いける! まだ帰らないよ!」

「……そう?」


 とはいえ、三匹の眼は潤んでいる。無理しているのは一目瞭然だった。

 しかし、帰らぬと言い張られてしまえば、引き返すわけにもいかない。そのうえできるだけ早く、己が用事も片付けてしまいたかった。

 ひとまず三匹に水も与え、メモ帳へ視線を落とした湊が瞬いた。


「書いたばっかりの字が消えてる……」


 まっさらになっていた。


「湊の力、全部吸っちゃった」


 テヘッとウツギが悪童めいて笑う。セリとトリカも素知らぬ顔をしているあたり、三匹の共謀によるものらしい。

 湊は苦笑し、メモ帳を仕舞った。


「まぁ、いいけど」

「おかげで気分がスッキリしたよ! ありがと〜」

「どういたしまして。――ところで、人ってそんなに匂うの……?」


 眷属たちはそろって頷き、異口同音に言い切った。


「ほとんどの者は、臭い。鼻が曲がりそうな腐臭がする」

「そ、そうなんだ……。もしかして、俺も?」


 首を左右へ振った三匹は、またも声をあわせた。


「湊は、しない。無臭」

「――無臭……」


 臭いと言われるよりはるかにマシだが、人ではないようではないか。

 複雑そうな顔をした湊が膝を起こし、テンたちも地を踏みしめた。

 再び、人の群れに突撃である。

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