31 様子の変わった南部




 それから、いづも屋の木彫りが売り切れるのを危惧した宗則が駆け去り、御守りに湊が祓いの力を上書きした麒麟も飛び去っていった。


 一人残された湊は、きび団子屋――周防庵へ向かう。

 次第に通行人が減っていき、周防庵の店先――赤い野点傘まで近づいた時、一挙に鳥肌が立った。

 突然、空気が変わったからだ。湿り気を帯びた不快な生ぬるさは、悪霊がそばにいるに違いない。


 またかと思いつつも、視覚には頼らない。他の知覚――おもに第六感を研ぎ澄ませた。

 いまその身を覆う翡翠の膜はない。悪霊が迫ってくるのをまざまざと知覚した。


 ――背中で。


 即座、かえりみたら、後方に一人の若い女性がいた。

 歩み寄ってくるその背後に、人型の悪霊が忍び寄っていくところだった。


 それは、陰陽師一条退魔師安庄が口論の末、取り逃がしたモノだ。

 悪霊が女性の中にするりと溶け込むように入ると、女性は唐突に立ち止まり、白目をむいた。


 それが、悪霊が取り憑いた時の現象だと湊は知る由もない。

 けれども、警告音が脳に鳴り響いた。

 それに従い、流れるように動く。バッグから筆ペンとメモ帳を取り出し、大きくバツ印を書いた。

 翡翠の光が放たれ、両側の民家、向こう三軒両隣を覆う巨大なドームと化す。


 湊が面を上げた時、むろん悪霊は塵も残さず消滅していた。

 あっさりと祓われた女性がさかんに目をしばたたく。


「ん……? なんで私、立ち止まってるの……?」


 周囲を見渡したあと怪訝そうながらも足を踏み出し、湊を追い越していった。

 湊は、遠くなっていく後ろ姿をしばし眺めた。


「足取りもしっかりしてる。問題なさそうだ。――たぶん悪霊が何かしそうになってたんだろうな……」


 それにしても人が白目をむくのは、ずいぶん久しぶりに見た。

 温泉宿では時折、のぼせて倒れる者もいるため、そこまで驚きはしなかったけれども。


「道端で倒れなくてよかった……」


 胸をなで下ろした湊は、感覚を研ぎ澄ませて近辺を探った。水をイメージしていた。一滴の水が水面に落ちて、同心円状に水紋が広がるように。

 それに引っかるモノはとりわけなかった。


「他にはいない……たぶん」


 筆ペンのキャップをしめかけて、動きを止めた。


 ――いくらなんでも、悪霊が多すぎやしないだろうか。


 湊は首を一巡させた。いやに人が少なく、先日の賑わいとは大違いだ。

 周防庵の扉も閉ざされている。先日そこは開け放たれていた。取っ手に開店中の札がぶら下がっていることから、営業中なのは確実だが、そこから出入りする者は誰もいない。野点傘の下の長椅子に腰掛ける者もいない。


 ――なんだか、すごく寂しい感じがする。


 町全体が活気を失ったように思うのは、気のせいではなかろう。それが悪霊のせいなのかはわからない。


 しかし断んじて、看過できない問題だ。

 南部には、山神の思い入れのある店や人たちも多い。

 ならば、己にできることをするしかないだろう。


 しかしながら、メモの護符をその辺にばらまいておくわけにもいかない。その紙片の力がわからない者たちにすれば、ただのゴミにしか映るまい。


 湊は店の一帯を注意深く眺め、野点傘の下に入った。

 幸いなことに柄は黒に近い濃茶のため、文字を書かねばさほど目立たないだろう。


「申し訳ありません」


 つぶやいて柄に筆ペンを当てる。祓いの力を込め、一本の縦線を引いた。


「いずれ消えますので……」


 とはいえ、決して褒められた行為ではない。

 湊は異様に力がこもっていた肩を下げた。

 それから、誰にも見られなかったことを念入りに確かめ、店の戸口へと靴先を向けた。



 ○



 周防庵と印字された紙袋を引っさげ、湊は帰途についた。その途中、またも揉めている人たちに出くわした。

 十代であろう娘二人だ。憤っているのは片方だけで、もう一人は詰られているようだ。

 事もあろうに彼女たちは、赤い鳥居のそばを歩いている。その奥に見えるもう一つの鳥居が湊の視界に入った時、娘の声が二オクターブ上がった。


「――だから私がいったじゃない! あんなインチキ退魔師を信用するなって!」

「だ、だって、あのお坊さんみたいな人、お母さんに憑いた悪霊を絶対祓ってやるって約束してくれたしっ」

「結局、お母さん変わってないんでしょ?」

「――もう叫んだり暴れたりしないから、マシにはなってる」

「マシってことは、完璧に祓われてないってことじゃん!」


 閑散とした一帯に娘の罵声が木霊した。

 それらの会話を聞かざるをえない不幸な者は湊のみだ。

 盗み聞きは行儀が悪いが、聞き捨てならない内容でもある。

 つい歩調をゆるめ、耳も傾けてしまったのは、致し方ないことだろう。


 娘たちは鳥居の手前で止まり、憔悴した様子の娘がうつむきがちに声を発した。


「退魔師の人がいうには、お母さんに憑いてる悪霊は相当強力だから、あと数回祓わないとダメだって。だから――」

「おバカさんねぇ、あんた。それ、詐欺の手口よ」

「そ、そんな」


 湊は〝詐欺〟なる単語で、先日ツムギがいっていたことを思い出した。

 一般人に悪霊に憑かれているとうそぶき、悪霊祓いを持ちかけたり、効果のない符を高値で売りつけたりする、不届きな者たちがいるらしいことを。


 勝ちきそうな娘がうろたえる連れ合いに笑顔を向ける。


「大丈夫よ、心配しないで。私、噂を聞いたの、稲荷神社にいけば悪霊を祓ってもらえるって!」

「――ここの?」

「違うよ、ここじゃない」


 首を横へ振って鳥居の奥を一瞥したあと、声を抑えた。


「このあたりで稲荷神社っていったら、北部の稲荷神社でしょ」

「えっ、そうなの? でも、こっちの神社のほうが大きいよね?」

「大きさは関係ないよ。建物なんて所詮人間が建てた物じゃない。あっちの稲荷神社は小さいけどちゃんと神様がいて、ご利益もすっごいんだから!」

「なんで神様がいるってわかるの?」

「本殿近くで神々しいお狐様を見た人がいっぱいいるのよ。黒い毛並みらしいけど、間違いなく神様だってみんないってる」

「――本当に?」

「ホント、ホント。とにかく、あんたのお母さん連れて北部にいこ。向こうの宮司ぐうじさんが悪霊絡みにめっぽう強いらしくて――」


 話を続けながら傍らのツレを促し、鳥居から離れていく。


 その二人を首をめぐらせて眺めていた湊は思う。

 ツムギは予想以上に人々に知られ、しかも神だと誤解されているようだと。


 ツムギ曰く、信仰心を高めるため、時折あえて人前に姿を現すという。その企みはしかと実を結んでいるようだ。

 さておき二人の娘が、ツムギもとい天狐に助けを求めるなら、悪霊に憑かれているらしき母親も救われるだろう。


 ひとまず安堵した湊は、娘たちがいた場所に入れ替わるように立った。

 一の鳥居の向こうに立つのぼり旗に、稲荷神社と書かれてある。


「ここ、稲荷神社なのか……」


 南部にもあったようだ。

 確かにこちらの神社のほうが、一の鳥居もその先の二の鳥居も、天狐が御座す稲荷神社とは比べ物にならないくらい巨大で立派だった。

 奥の社殿は木々に遮れられてほとんど見えないが、荘厳さが容易に想像がつく物々しさが漂っている。


 目線を上げると、さらにその奥にあたる密集した樹冠を突き抜ける一本の大樹が見えた。

 箒を逆さにしたような樹形はイチョウだろう。


 ――あの大イチョウは、御神木なのかもしれない。


 思いつつ社殿側を注視してみた。

 神の気配は感じ取れない。

 己の感度があまり高くないせいもあろうが、神社に神が常駐しているほうが珍しいだろう。


 しばらくそこに佇むも、人影はどこからも現れず、風が落ち葉を転がす音だけが耳についた。

 ここも寂しい空気だと感じた。天狐の神社の盛況ぶりを実際に目にしているため、なおさら寂れ具合が際立つように思えた。


 ともあれ神社の人気については、湊のあずかり知らぬことだ。


「――いい加減、帰ろう」


 踵を返し、鳥居から離れていった。



 ○



 その日の深夜のこと。

 周防庵の店先――野点傘の下に佇む黒い人影があった。

 一筋の人工的な明かりも差さないそこは、翡翠色の光に満ちている。ところがその色が急速に消えようとしていた。


 黒衣の袖から伸びた手が、野点傘の柄に触れている。

 湊が引いた墨色の線が闇色の粘液によって塗りつぶされていく。


「ちっ」


 忌々しげな舌打ちが、暗い野点傘内に反響した。

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