18 その音が鳴りし時
今日も神の庭には、心地よい滝の音が響く。
どうどうと神水が流れ落ちる滝壺には、応龍がとぐろを巻いている。景観が変わってから、そこがお気に入りの場所となっており、今も心地よさそうに寝ていた。
その傍ら、水しぶきでけぶる大岩の上に寝そべる霊亀もまどろんでいる。太鼓橋に伏せた麒麟も、しごく眠そうで、大あくびを繰り返す。
石灯籠は二基とも火袋は閉ざされ、鳳凰と神霊も眠っている。
皆一様に思い思いの時間を過ごしていた。
そんな庭の真ん中で、クスノキが風に若葉をなびかせる。その幼木が見守る先、神の庭の
無事に元に戻った巨躯で幅を利かせていた。
その傍ら、湊と眷属たちが座卓を囲う。
そろって訪れた眷属たちを交えた昼食後、のんびり会話に興じていた。
湊が座卓にケーキの箱を置いた。
「今日のおやつに、チーズケーキを買ってきたんだけど――」
正面に並ぶ三匹の鼻はひっきりなしに動いている。
ややそわついている食いしん坊たちは、すでにチーズの芳香に気づいているのだろう。
「でもチーズとはちょっと違う匂いがする」
前のめりになったウツギの鼻先が菓子箱にひっつきそうだ。その肩をトリカがつかんで引き戻す。
「近づきすぎだ。それに匂いではなく香りと言え」
「そうですよ。言い方一つで美味しそうな物が美味しくなさそうに感じますからね」
トリカの横で姿勢を正しているセリもたしなめた。
軽く笑った湊が蓋を開けると、一気に濃厚なチーズの香りが広がった。
ゴクリ。三匹の喉が大きく上下する。
「同じ物が三つなかったから、全部違うのにしてみたんだよね」
湊が言いながら箱から取り出したのは、四種類のチーズケーキ。スフレチーズケーキ、バスクチーズケーキ、ニューヨークチーズケーキ、レアチーズケーキ。
すべて同様の形――三角でありながらも、彩り豊かだ。
真白の皿に一つずつ載せていく。
「たまには別々のでも、いいかなと思ったんだけど」
眷属たちが生まれてすぐの頃、別種の物を与えたら喧嘩になったことがある。以来、必ず同じ物を用意してきた。
が、眷属たちの成長は目覚ましく、今ではその出来事がにわかには信じられないほど、大人びてもいる。
おそらく大丈夫だろう。
とはいえ一抹の不安を抱えた湊が眷属たちを見やると、それぞれ別のケーキを見つめていた。
そうして、ウツギとトリカが同時にセリを見やる。
「我は、ふわふわのチーズケーキがよいです」
セリの口調に迷いはなかった。
選ばれたのは、スポンジのごとき弾力性に富んだスフレケーキ。表面に寄ったシワもまた、やわらかさを伝えてくれる一品である。
ウツギがトリカの腕を小突いて急かす。
「我は、焼き色の、はっきりついた、物がいい」
トリカはいやに時間をかけて、一言一句ゆっくり告げた。
その視線の先には、こんがりと表面が黒くなるまで焼かれたバスクチーズケーキ。焦げ具合とどっしりとした佇まいが、他と一線を画すお品だ。
「我は、白いのがいい!」
待ってました! と勇んだウツギが指差すのは、レアチーズケーキ。四種の中で唯一焼いていない代物だ。
初雪よりもなお白いその見た目からも、さわやかさを感じられるケーキだ。
三匹は迷うそぶりもなく、最年長から選んでいくという序列を示してみせた。
何より、末っ子の甘え上手なウツギがそれを当然のことだと思っているのが印象的だった。
各自の前に、ご所望のチーズケーキを置く。
ついでに、セリとトリカにはフォークも渡す。ウツギは手づかみ派のため不要である。
人間紛いのセリとトリカが特別であって、むしろウツギが普通であろう。
湊が残った最後の皿を引き寄せた。
「じゃあ、俺は残ったニューヨークチーズケーキを食べるよ」
その普通の声色で告げられた言葉が聞こえた途端、三つ並ぶとろけていた顔が急速に引き締まった。
「今さらですが、湊より先に我らが選んでよかったのですか? もしかして湊は、我が真っ先に選んでしまったふわふわのほうがお好みですか?」
「湊の好きなのはそれなのか? 本当はこちらの焦げ付きのほうが食いたいんじゃないか?」
「我の白いやつがいいなら、交換しようか?」
三匹に気遣われてしまった。
なんということだ。すっかり大人になって……!
予期せぬ成長具合に、湊お兄さんは目頭が熱くなった。
なれど気遣いは無用である。なにせこの男、たいていの物は文句一つこぼさず平らげるので。
「俺はどれでもいいから、気にしなくていいよ。特にこれが好きっていうのもないしね」
「湊は本当に欲が薄いですね」
セリの言葉に、他二匹も同意した。
湊は苦笑するしかない。
今まで接してきた人たちにもさんざんも言われてきている。
湊にしてみれば、これでなければダメだと強いこだわりを持つほうが理解しがたい。
味覚が鈍いわけではないが、いずれであろうとそこまでさして変わるまいと本心で思っている。
もっと言えば、腹に落ちたら全部同じだろうくらいの気持ちだ。
「どれもそれぞれ美味しいでしょ。たとえ同じ物を続けて食べたとしても、その時の体調や気分によって違って感じられるのも面白いものだよ」
「そういうものか……?」
体調の良し悪しは理解が及ばないトリカは不可思議そうだ。
「それより、早く食べよ」
「うん!」
湊に促され、ちらちらとレアチーズケーキを見ていたウツギが真っ先に答えた。
いただきます、と元気に唱和した三匹が同時に口へと運ぶ。ぶわっと周囲に幻影の花をまき散らした。
幸せいっぱいの彼らの背後で、山神はあくびを連発している。その瞼も今にも閉じてしまいそうだ。
山神は食後から、ただただ眠そうにしていた。
加えてチーズは好まないゆえ、幻影の百花繚乱に埋もれそうな眷属たちに関心を払うこともない。
そんな山神だったのだが、ふいに開けていた口を閉じた。
ギュワッと両眼をかっぴらき、ぶわさっと大きく尾を振った。
それから遅れること三呼吸分。眷属たちも花を引っ込め、咀嚼中の顎を止めた。
しんと静まり返った場で、湊のみが至って普通に食べ続けている。
山神一家の反応から来客だと気づいていながらも、フォークで刺したチーズケーキを口に入れた。
なにも慌てることはない。
なぜなら山神たちの反応は速すぎるからだ。
経験上、来客が表門に到達するまで、最低でもあと五分はかかる。ケーキ一個を完食するのに十分すぎるほどの余裕はある。
なお、早食いである湊のケーキはもう半分以下となっている。
セリとトリカが葛藤している。彼らのケーキは、ほぼ原型を保ったままだ。
二匹は、山神と同様に丁寧に噛みしめ、味わって食べるせいで、完食までにそれなりの時間を要する。
最後の一口を食べ終えた湊が告げる。
「ゆっくり食べなよ。来客は播磨さんだよね?」
「はい、でも……」
「……邪魔になるだろう……」
セリとトリカが眼を見交わす。
「構わぬ。いつも通り好きに食しておれ。あやつがここにたどりつくまで、いかほどの時を要するかわからぬゆえ、な」
山神の不穏な台詞に、湊が瞬く。
「まさか播磨さん、具合でも悪いの」
「いや、ピンピンしておる。あの頑丈な男はそうそうくたばりはせぬ」
セリとトリカは、うれしそうにフォークでケーキを掬い取った。
ウツギはといえば、上げかけていた腰を落ち着ける。
その両頬は腫れたように膨らんでおり、いまだ一気に口に放り込むクセは直っていない。
牛の
播磨到着お知らせのチャイムが鳴り、湊がキッチンにあるテレビドアホンで対応する。
「こんにちは、播磨さん。庭のほうにどうぞ」
『ああ』
小型画面に映る黒いスーツの男は、澄ました顔で紙袋を携えて立っている。
播磨がその位置でしばらく佇み、死地に向かうかのごとき心の準備を整える習慣があるのを、湊は知る由もない。
小さな画面では、並々ならぬ決意を秘めた目つきまでは知れぬ。
播磨の来訪は、いつぞや血族らしき女性一団に囲まれているのを目撃して以来になる。
あの時、くたびれていた様子から一転、健康そうだ。
おそらく多忙を極めた時期は過ぎたのであろう。
湊がドアホンを切るのを縁側から眷属たちが見ている。
その傍ら、山神が組んだ前足に乗せた顎をわずかに上げた。
そうして、表門の格子扉が引き開けられる。
――ブオォォーン!
どこかで、ほら貝が吹かれ――合戦開始の合図が鳴った。
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