17 謎が謎を呼ぶ?
木札を受け取ったイタチは、海にほど近い高い塔を目指していた。
そこに近づけば近づくほど、黒い霧が立ち込めていく。
しかし眼を眇めたイタチは、ためらうことなくその中へと突き進む。脇道から、排水溝を通り抜け、そして空き地へ。
細長い体躯が地を這うように素早く移動していく。
その口元から拡散する翡翠の光に触れた瘴気は、瞬時に祓われていった。
人間と比べ、はるかに五感が優れる動物たち。
そのうえ、第六感も備えている。
人類が失いつつあるその鋭敏な感覚で、動物たちは悪しき存在の気配を敏感に察知する。
本来であれば、本能に忠実な彼らは、穢れた場から真っ先に逃げ出すものだ。
断じて自ら好んで寄り付きはしない。
けれども、このあたり一帯はもともと自分たちにとって住みよい場所だった。できることなら居続けたかった。
なれど、いつの間にか悪霊が集まり、喰い合い、力を増し、居着いてしまった。
動物だけでは、悪しきモノに太刀打ちできない。
立ち向かうなどもっての他。決して敵うことなく、取り憑かれ、衰弱死するのが関の山だ。
ゆえに、すごすごと尻尾を巻いて逃げるしかなかった。
けれども、彼らは対抗できる力があるのだと知ってしまった。
そう、楠木湊がつくるモノだ。
それさえあれば、自分たちの棲家を取り戻せると知ってしまった。
野生動物には独自のネットワークが存在する。
みんながみんな仲良しなはずもないが、自分たちの生存を脅かす危機に
動物たちは種族の垣根を越えて連携し、にっくき悪霊どもに奪われた居場所を取り戻すべく、湊からもらった木札を運ぶのだった。
その後もイタチからハトへ。猫、スズメ、鼠を経由し、再度カラスへ。
次から次に悪霊の巣食う場所に運ばれた木札は、今やもう、その輝きはない。
羽ばたくカラスの鉤爪につかまれたその木札は、クスノキの淡い破邪の力のみになっていた。
時刻は夕方。凪いだ海面に太陽が沈みかけ、茜色の空にはカラスの集団が飛び交う。
カーカー、ガァーガァー。ひっきりなしにあがる歓声の大合唱は、海辺の地で家路を急ぐ人間たちに、うすら寒さを伴う不安を与えていた。
やがて、一羽、一羽と海を背後にその場を離れはじめた。カラスの一団が遠くの高山のほうへと向かっていく。
その群れの端を飛んでいたカラスと、ヘラシギが接触しそうになった。
大急ぎで羽ばたくカラスの足から、木札が落ちる。
からりと乾いた音を立て、道路に転がった。
それを、節の目立つ手が拾い上げた。
道脇に佇むその人物が、じっと手のひらの木札を見つめる。
長い前髪が目元に陰を落とし、容姿は判然としない。
二十代と思しき細身の男。濃灰のスーツをまとい、やや広めに開いた胸元からのぞく、金のネックレス。
ただでさえギラつくそれが夕日を受け、煌めいた。
男は木札をつまみ、鼻に寄せる。触れる直前、深く匂いを嗅いだ。
手を下ろした男の口角は、吊り上がっていた。
愉悦を含む嗤い方は、まるで獲物を見つけた獣のよう。
かすむほど遠い高山方面へと向かったカラスの集団は、もう豆粒ほどになっている。
男はそちらへと足を踏み出した。
その腰元のチェーンに下がる木製のキーホルダーがゆれる。
それには『くすのきの宿・金星ヴィーナス』の字と、クスノキの葉が彫られていた。
◇
ブロロロー……。バスを降りた湊が歩き出すと、傍らをバスが通り過ぎる。排気口から黒い煙を上げた車体が先を走っていく。
あたりには、視界を遮る建築物はほぼない。新緑の香を乗せた風が、黒煙をさらっていった。
雲一つない青空を見るともなしに見ながら、湊はのんびりと家路をたどる。片手に、レジ袋を携えて。
中には、ほかほかの甘酒饅頭が入っている。
お馴染みの越後屋で買ってきた物だ。
久方ぶりに会った十二代目はとても元気そうで、一個おまけまでしてくれた。きっと山神が喜んでくれるだろう。
そう思い、袋をゆらしつつ、コンビニの前に差しかかった。
「……今日は寄らなくてもいいか」
まだ酒は家にたんまりあったから買わなくてもいい。
ちらりとコンビニを流し見、前方を見た時、シュッと軽やかに二匹の猫が歩道脇から飛び出してきた。
顔面にキズのある野良猫たちが行く手を阻む。
会ったら必ず彼らの長――麒麟絡みの御礼として食べ物を与えようとしてくるため、すっかり馴染みになってしまった。
毎回、彼らに残飯を『たんと食え!』と差し出され「お気持ちだけで結構!」という言葉の通じない悲しき攻防を繰り返すことになる。
今日もまた残飯を持ってきたのか、と足を止めた湊はわずかに身構えた。
二匹の野良猫が隙のない身のこなしで歩み寄ってくる。その口元には何もなく、ほっとした。
が、こちらをガンつけ、二匹で囲い込んでくる様はいただけない。さながら素行のよろしくない若造のごとし。
ところが、いざ足元までくると、鳴いてすり寄ってきた。
驚きだ。
彼らはいつも決して人間のそばには近づかず、湊と対峙する時も必ず一定の距離を取る。警戒心の塊だと言ってもいい。
以前、子どもが走り寄って来た時、毛を逆立て甲高い声で威嚇し、駆け去っていったこともあった。
とはいえ、彼らの鳴き声はぎこちない。
「に゛ゃ、にゃ〜……」
スネに胴体をこすりつける動作も、ずいぶんたどたどしい。あきらかに人間に媚び慣れていない。
「み゛ゃあ〜……?」
戸惑いしかないその声色は、ひどく哀れみを誘う。
これでいい? とばかりに見上げてくる二匹に、いたたまれなさを覚えた。
「――無理しなくていいよ」
そう言うしかなかった。
麒麟に、野良猫たちに一言物申してもらうべきか。
そんなことを考えながら鋪道を歩む湊が、大きめの街路樹のそばを通る。
そこに止まった数多のスズメが一斉に鳴いた。
「うお」
鼓膜に痛み受ける大声量だった。
思わず立ち止まって木を見上げると、枝がしなるほどスズメの集団が止まっていた。
「異様に多い……」
スズメは、頻繁に楠木邸を訪れるため、さして珍しくもない。
けれども、木に茂る葉かと見紛う量を一挙に見ることは、鳳凰絡み以外で初めてだった。
つぶさに見れば、その木のみならず、前方へと等間隔で並ぶ街路樹にも同じ数くらいのスズメがいた。なぜかはわからないが、みんな鳴いている。喜んでいるように思えた。
なぜか大歓声を浴びながら道を歩くことになった。
楠木邸へと至る畦道に入る所には、祠がある。
石造りのその中には、柔和な笑みをたたえる地蔵が安置されている。
常に鮮やかな赤い前掛けをして、傍らには、必ずみずみずしい生花も備えられている。毎日のように花を入れ替え、地蔵の手入れもする者がいるのは、明らかだ。
いったい誰なんだろう。湊はここを通る際、いつも思う。
いまだ、ここで他者と出くわしたことなかった。
今日初めて、人と出会った。
老女がグラスに生けた黄色い花束の形を整えていた。
腰の曲がった小さな体躯。祠に杖が立てかけてある。脚が不自由なのかもしれない。
ほどなくして老女は、満足いったように軽く頷き、地蔵に向かって両手を合わせる。
やがて顔を上げ、遠くを見やった。
その視線の先には、そびえ立つ御山がある。
透き通る青空を背景に、緑の山の稜線が浮かび上がっている。山は何も変わらぬ姿で堂々とそこに
老女は再度、山へと向かい、合掌する。
その時間は、先ほどよりもはるかに長い。
姿勢を正し、祈りを捧げる。
ただそれだけの行為が、やけに尊いものに感じられた。
祈りを終えた老女が、杖を手に取る。その時になってようやく、数歩離れた位置で突っ立つ湊に気づいた。
深い年輪の刻まれた相貌がやわらかく笑う。
「お地蔵様に、それをお供えなさるの?」
老女の視線は、湊の手――レジ袋に注がれている。
「あ、いえ、これは……べ、別の方に――」
甘酒饅頭を片手でかばうように持ち、御山へと顔を向けた。
湊は、とっさにのうのうと噓をつけない。
とりわけ相手が年配の者であれば、適当にお茶を濁してあしらうこともできない。亡き祖父に噓や誤魔化しが一切通用しなかったせいもある。
つい本音を言ってしまった湊は、内心慌てた。変に思われるかと考えたのだ。
だが、違った。
老女はわずかに目を見張り、相好を崩した。
「
その口ぶりはまるで、山神を知っているようではないか。
山神さんをご存知なんですか。
そう尋ねようと口を開きかけた時――。
「お義母さん、また一人でここに来たのね」
突然、背後から中年女の声がした。
湊が振り返ると、徐行してくるミニバンの運転手だった。
開いた窓から見えるその表情は、いかにもしょうがないという風に呆れている。
「お義母さん、帰りましょう。ほら、早く車に乗って」
止まった車のスライドドアが開く。
老女は「はいはい」と飄々と告げながら車に乗り込んだ。湊と目が合った運転手は会釈を交わす。
車が走り出した。
しばし走行し、畦道――楠木邸の逆方向へと曲がっていった。その先には、まばらな家屋が小さく見える。そこまでの距離は、湊にとっては大したものではないが、片脚が不自由らしき老女には、長い道のりであろう。
「山神さんを知ってるみたいだったな……」
貴重であろう山神の目撃者なら話を聞いてみたかったが、タイミングが悪かった。
家へと歩き出そうとするも、地蔵が視界に入った。
ここは以前、意図せず引き寄せられ、麒麟が奇声を発して事なきを得た場所になる。
おそらく神域への入り口が存在するのだろうが、あれ以来、引き寄せられたことはなかった。
じっと目を凝らしてみても、どこにもゆがみも見当たらない。
湊も老女に倣い、両手を合わせた。
「甘酒饅頭を供えられなくてすみません」
今気づいたが、地蔵の笠が赤い頭巾に変わっていた。
衣替えをしたらしい。装いを改めた地蔵の顔がさらにやわらかくなったように感じるのは、ただの人の感傷が見せる幻想だろう。
それから、のんびりと畦道をゆけば、田んぼの端を歩いていた大きな鳥が近寄ってきた。
「確かあの鳥は、アオサギ……だったはず」
珍しい。このあたりには生息していない種だ。
遠路はるばるお越しになったに違いない。
長い首をした、うっすら青みを帯びる灰色の羽毛を持つアオサギ。細い脚を器用に動かし、のそりのそりと寄ってくる。畦道の際までたどりつくと、じっと見上げてきた。
「鳥さんに会いにきたんだよね」
小首を傾げる様は、言葉が通じているのか、いないのか。いまいち判断がつかないが、歩き出すなり、あとをついてきた。
「鳥さん、起きてるといいね」
「ゲェ゛ーッ!」
優雅な外見にあるまじき濁り声。夜中に耳にしようものなら、身の毛がよだつこと請け合いだ。
見た目がよいなら、鳴き声も聞き惚れくらい美しかろう。そう勝手に幻想を抱いて期待してしまうのは、かくも悲しき人間の
反射で肩をすくめてしまった湊も例外ではない。空笑いするしかなかった。
いつも通り、玄関扉を素通りして庭へと向かう。
そうして、縁側が視界に入った湊の足が止まる。
中央に断じて無視できない大狼が丸くなって寝ていた。その身に合わせて特注した巨大座布団は、みっしり隙間なく埋まっている。
「元に戻ってる……」
身動ぎすることも、眼を開けることもないが、ゆるく上下する体から健やかにお休みだと知れる。
元に戻る前触れは、とりわけなかった。
何がきっかけだったのだろう。
もしかすると、さっきの人が御山に向けて祈っていたおかげなのか。
そんなことを思いながら、湊は足音を立てないよう縁側へと向かっていく。
それを塀に立ったアオサギが静かに見つめていた。
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