3 楠木邸は本日もまったり



 あくる朝。神の庭には、いつも通り穏やかな時間が流れていた。とうとうと流れる滝の音に、筧から手水鉢に落ちる水音が重なる。

 それらの音を縁側から聞くのは、山神、鳳凰、麒麟。そして、湊だ。


 縁側に腰掛ける湊は、広げた画帳の上でペンを動かしていた。

 時折上がるその視線の先に、麒麟がいる。地面を踏みしめ、顎を上げて尻尾の先の毛まで広げ、やけに気取ったポーズを取っている。

 木彫りの下絵用のモデルを務めていた。


 その艶姿を眺めるのは、湊画伯のみである。

 山神は座布団で丸くなって尻尾に鼻を埋め、湊の肩に乗る鳳凰は、片時も画帳から視線を逸らさない。


『鳳凰殿、たまにはわたくしめの方を見てもよろしいのでは?』

『見慣れている。いまさら見る必要はない』


 麒麟が鳳凰にすげなくあしらわれているが、その会話が聞こえない湊のペンが止まることはない。

 鳳凰は軽く息をつき、乗り出していた身を下げた。


『うむ、見事な下絵よ。簡素ながらも、しかと特徴を捉えている。まさか絵まで描けるとは……。やはり器用な人間は、たいがいのことはこなせるものよな』

『――確かに、そういう者もいますね。しかしごくごく稀ですよ。一芸すら秀でていない者の方がはるかに多いでしょう』


 人間嫌いながらも人間観察を好む麒麟はそっけなく答えた。

 そうこうしているうちに湊がペンを置き、絵と麒麟を見比べはじめた。

 ますます麒麟の顎が上向くと、湊は頷いた。


「よし、できた。麒麟さん、モデルありがとうございました」

『よろしいのです。ではでは、わたくしめも拝見しましょう――』


 トンとひと蹴りで湊の頭上を越え、背後に回る。一メートル以上離れた位置から首を伸ばした。相変わらず、人の身である湊から距離を取ろうとする。

 それを承知している湊も、画帳を傾けて見やすいように配慮した。


『ほほう、素晴らしい……。いつぞや忌々しいことに見られてしまった際、勝手に描かれた物より万倍もお上手です』

『ああ、余にも覚えがある。たまに勝手に写す不届きなやつがいるからな……』

『至る所の建築物に鳳凰殿のモチーフが使われているのは、貴殿が人間らに姿を見せすぎなだけだとわたくしめは思います』

『そうでもないだろう』


 とぼけてそっぽを向く鳳凰を麒麟が半眼で見やる。

 そんな二匹の様子を見ていた湊は不安にかられた。


「麒麟さん、似ていなかった? 気に入らない?」


 麒麟が首を左右へ激しく振る。


『いいえ、いいえ、まさか! よく似ております。気に入らないなんて滅相もございません! 大満足です!』

「満足しておるぞ」


 頭を上げた山神が代弁した。


「そっか、よかった。じゃあ、木を彫ろうかな」


 座卓に向き直る湊を見た麒麟の眼が輝く。


『ようやく、ようやく! わたくしめの木彫りができるのですね……! 完成したあかつきには加護を与えるのは、やぶさかではありませんよ』


 ふんぞり返る麒麟を山神が一瞥する。


『湊が求めておった金額は、すでに達成しておるぞ』

『そうなのですか。しかしこれからも木彫りを売り続けるのでしょう?』

『そのつもりのようぞ。いづも屋の店員に卸し続けてほしいと乞われたと湊が云うておったわ』

『ならば、バンバン売ればよろしいのです。求められる内が花とも申しますし、銭はいくらでもあった方がいい。なにせ人間は、生きているだけで銭がかかる生き物ですからね』


 したり顔の麒麟を見下ろし、鳳凰がポツリとつぶやく。


『酒呑みの余らもなかなかの金食い虫であるが……』


 こちらは身を弁えているようだ。


 さておき湊は、とっくに橋梁工事代を稼ぎ終わっていた。

 和雑貨店――いづも屋に卸した、最初の舟二艘だけでである。

 先日、その旨を店員からの電話で知らされた湊は、顎が外れかけた。


 とはいえ当然であったかもしれない。

 何しろただの木彫りの舟ではなかった。世界に二つとない御神木クスノキを用い、そのうえ帆には霊亀と応龍の抜け殻を張った。さらには麒麟と応龍がふんだんに加護を与えた代物であったのだから。

 おかげで店員が金額を決められないと言い出し、ならばと買い手に委ねる契約を結んだ。


 その結果、二千万円もの大金が手に入ってしまった。


 購入者は、二人の常連客であったという。

 個人情報はもらせないからか、詳しくは教えてもらえなかった。

 だが卸したその日、楠木邸に帰り着く間際に知らされたから、一つは播磨才賀の父――宗則むねのりが購入したと思われた。


 湊は麒麟の下絵を切り抜き、型紙にして角材に当てた。


「そういえば、実家の方のキーホルダーはどれくらい減ったんだろう」


 突然の発言に、伏せた山神が鼻息を長々と吹き出した。


「盗られて当たり前という考えは、いかがなものかと思うぞ」

「――まぁ、うん。そうだね。兄さんに相談してみようかな……」


 父はおっとり。母は大雑把。両親はまったくもって期待できないが、わりと厳しい性格の兄と話し合えば、よき知恵が浮かぶかもしれない。

 湊が型紙のアウトラインを角材に写していると、座卓に置いていたスマホが震えた。


「お、メールだ」


 画面に表示されているのは、兄の名であった。


「噂をすれば影がさすってやつかな」


 画面を操作し、文面を読んだ湊の目が見開かれた。

 それを見た山神が、訝しげに鼻梁を寄せる。


「いかがした」

「――ここ最近、キーホルダーと表札があんまり盗られなくなってきたんだって」

「ほう、よかったではないか。して、なにゆえ」

「わらしさんが盗った人たちになにかしてるんじゃないかと、兄さんは思ってるみたい」

「よく知れたものよ。兄はおろか、他の血縁者も妖怪とはろくに意思の疎通も取れぬであろうに」

「わらしさんに聞いたんじゃなくて、お客さんたちが部屋で話している噂を耳にしたみたい」


 客たち曰く、盗った者たちが相次いで不幸な目に遭っているという。事故・事件に巻き込まれたり、自ら起こしたり。いずれも命に別状はないとのことだが、長期入院する羽目になった者も少なくないらしい。

 その情報がかなり出回っており、恐ろしくて窃盗はできない。さらにはこの部屋に入った時から正体不明の視線を感じて、怖いとも言っていたようだ。


 湊は深く息をつき、スマホを座卓に戻した。


「噂だろうからどこまで本当のことかはわからないよね。まぁ盗難が減ったのはよかったけど、わらしさんに手間をかけさせたかもしれないのか。申し訳ないな。――もういっそ、宿でキーホルダーだけでも販売した方がいいのかな」

「その方がよいかもしれぬぞ。紛れもなく需要はあるゆえ」


 湊が手にする角材――御神木クスノキを見やった山神が顎を前足に乗せる。


「むろん希少なクスノキは使わず、な。ただの板切れにでも微量の祓いの力を込めて、ちと彫ってやるだけでよい」

「材料はわかるけど、力は手抜きしろってこと?」

「それだけで十分ぞ。お主の力はかねてより格段に上がっておる。さらりと一筆書きの要領で彫りさえすれば、先日の呪符とやらよりはるかに強力な符となろう」


 つい最近、播磨に持ってきてもらった多くの呪符のことだ。見ていないようでしっかり見ていたらしい。


「山神さんがそう言ってくれるなら、そうしようかな」


 兄は以前から窃盗犯たちに対して『なぜ素直に売ってくれと言わないのか』と憤っていた。確かにどうして告げてこないのかは謎のままだが、販売しようと提案したら、家族は誰も反対してこないだろう。


 正直、手抜きでもよいならありがたくはある。

 ここのところ木彫りにハマっており、数をこなせばこなすほど技量が上がっていく実感もあり、楽しくてやりがいも感じていた。

 ほぼ趣味と化しているが、できる限りこちらに専念したかった。


 ふたたび湊は木彫りの作業に入った。

 その光景をやや離れた場所から見ていた麒麟が顔を上げると、川から霊亀と応龍が這い上がってくるところであった。

 竜宮門からご帰還である。やや千鳥足なのは、向こう竜宮城でさんざん呑んできたせいだろう。

 ヒゲをしならせた麒麟が、応龍のもとへ跳ねる足取りで近づいていく。


『応龍殿! わたくしめの木彫りが先になりましたよ!』

『なにッ⁉ 其の方、抜け駆けしよったな!』

『霊獣聞きの悪いことを言わないでください! 貴殿が遊び呆けているからですよ!』


 待ち構えている応龍の頭部に麒麟が突撃した。

 のったりまったり。縁側へと鈍足で進む霊亀の後方で、二対の角の激突による真珠色の粒子が舞い散る。

 角を突き合わせた麒麟が後方へ押しやられ、グッと四肢を踏ん張るも、さらに退った。


『応龍殿ッ、青龍殿の力を使うのは卑怯ですよ!』

『やかましい! 持てる力は使えばよいのだ!』

『それでも霊獣ですか⁉』

『其の方も使えばよいだろう、白虎の力をな!』

『お断りします、絶対にいやですッ』


 そんな会話は、小刀で荒彫りを行っている湊の耳には一切入らない。

 一心に木を削り続ける湊から視線を逸らした山神が、眼を閉ざして横たわった。


『いろいろと聞こえぬ方が幸せよな』

『ああ、なかなかのやかましさだからな』


 湊の肩に乗る鳳凰も同意し、よっこらせと縁側に上がった霊亀も『言えとる』と頷いた。


 庭の中央のクスノキが、縁側で絶え間なく散る木くずに合わせるように、樹冠をゆらしている。その頭頂部から一枚の青葉が落ちた。地面に落下する直前、風に流されて石灯籠の傘にふんわりと乗った。

 その中で眠る神霊を起こしてしまわないように――。

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