15 神の庭、レッツ衣替え


 ごとりと山神専用巨大湯呑みを座卓に置いた。

 ふわりと香気を乗せた湯気が立ち上り、ヒゲに当たる。青くも香ばしいその香り、最高に和菓子に合うであろう。

 尻尾の巻き起こす風が、本日の瞬間最大風速値を叩き出した。

 そうして、ようやく湊が席に戻る。


「どうぞ」

「うむ、頂こう」


 取り澄ました台詞はくぐもっていて、聞き取りづらかった。湊は込み上げる笑いを抑えるのに苦労した。

 半笑いで、うぐいす餅を竹串で割る。

 近頃、この餅に似た形状と色合いの鳥たちはご無沙汰だ。鳳凰先生の指導がなくとも、うまく鳴けるようになっててくれるといい。


「そういえば、さっき連絡があったんだけど、ここの内見ないけんを予定していた人、またキャンセルしてきたらしいよ」


 もぐ……もぐ……もぐ。両眼を閉じ、ゆっくりゆっくり噛みしめている山神の耳には届いていないようだ。


「――ほう……左様か」


 かなりの間を置いて返答があった。


「あ、聞こえてたんだ。直前でキャンセルになったのは、もうこれで三度目だよ」

「……人は得てして、移り気なものよな」

「まぁ、迷いもするよね。家は大きな買い物だから、たいていの人は一生に一回しか買わないだろうし。それに買ったはいいものの、いざ住んでみて気に入らないから返品します、は通用しないしね」

「……そうさな」

「1LDKっていう間取りも買い手が限られそうだ。いくら広めの造りでも、住めるのはせいぜい二人ぐらいかな。子持ちの方はまず選ばないと思う。車がないなら買い物も不便だし」


 つらつらとこの物件の欠点を上げていく。


「でもまあ、別荘にはちょうどいい感じかな。静かで素晴らしいお庭付き、しかも山神さん付き」

「もれなく付いてくるぞ」


 湊がおかしそうに笑った。お茶を一口飲み、室内へと目を向ける。室内はモデルルーム並みに整えられている。生活感の欠片もない。


「大勢で見にくるって話だったから、普段以上に隅々まで掃除してたんだけどな……」

「おかげでこの和菓子は我のもの」

「ちゃんと山神さんの分は別に買ってたよ」

「倍以上の量、まことにありがたし」


 山神は餅を覆う粉を吹き飛ばさないよう、顎を引いて真上から眺めている。


「このうぐいす色、そして桜饅頭の淡い桜色。なんとも味わい深い色合いぞ。この二色の組み合わせもまたよき。互いに主張しすぎない淡い色は、いかにも春よなぁ……」


 しみじみとしたつぶやきが庭にさざなみのように広がった。直後、裏門そばの一本の落葉樹が、細かく震え出す。


 そして一瞬にして、桜の木に変わった。


 真緑の落葉樹の中に、一本だけ満開に咲き誇る枝垂れ桜が現れた。

 湯呑みを傾けていた湊がそれをまともに見てしまう。

 ごくん。思いの外大量に飲み込んでしまい、軽く咳き込んだ。

 初めて庭の改装シーンを、じかに見てしまった。

 荒れ地から日本庭園へ、温泉誕生による位置替え。かつての出来事から耐性はあるゆえ、騒ぎはしない。


 無言でまじまじと桜を見つめる湊の前で、さらに奇跡は続く。


「うむ、やはり桜を見なければ春は始まるまいよ。五感で季節を感じてこそ、心にゆとりも、喜びも生まれるというものであろう。この饅頭の上に乗る塩漬けの花弁だけでは到底足りぬ」


 山神が視線を庭の端から端へと走らせた。

 たったそれだけ。

 ほんのささいな仕草のみで、クスノキ以外の木たちが次々に桜の木へとその身を変えていく。


 目にも鮮やかな新緑から淡い桜舞う庭へ。


 上空の霞がかった春空に似合いの、春の神の庭が完成した。ほんの数秒で庭の様相は一変してしまった。


 まるで変化を歓迎するように風が吹いた。

 桜木たちが枝をゆらし、花弁が庭中を舞い踊る。桜吹雪が視界を埋め尽くす。

 その光景は、優雅の一言に尽きた。

 控えめながらも桜の香りまでしている。

 中央にそびえるクスノキもざわざわと振れている。桜たちに語りかけるように、方々の枝葉を小刻みにゆらしていた。

 

 驚きでしかない。唖然となっていた湊が対面へと目を転じる。

 さすれば、さらなる衝撃が待ち受けていた。


「山神さん!?」


 小さくなった山神が座布団に埋もれていた。

 小型犬と同じぐらいであろう、小脇に抱えるのにちょうどよろしいサイズ。以前、庭の改装をした時よりも縮小していた。

 その身には大きすぎる座布団に深々と埋まり、若干体が傾いている。

 されど身が縮もうと、まったく気にするそぶりもなく、顎は動き続けていた。

 普通に咀嚼しておられる。


「……少しは焦ったら?」

「今さらであろう」


 のそのそと座布団から這い出し、座卓を見上げる。

 鼻先が台に届いていない。その上にある皿の物を取れるはずもない。


「ぬぅ、この小さき身、ちと不便であるな」


 かすかにうなる山神の足元に、湊が皿をお盆に載せて置く。


「……体、大丈夫?」

「今回は戻るまでにちと時がかかるやもしれぬ」

「時間がかかるだけならいいけど……」

「ぬ! これはよいではないか!」


 かぶりついた桜饅頭が口脇から半分以上はみ出ている。口が小さいあまりに、饅頭が妙に大きく見えた。

 山神の両眼は煌めいている。


「口いっぱいに広がる、こし餡と桜の風味……決して甘すぎない餡と桜の塩気、互いに引き立て合うこの関係性、侮れぬ。……ぬぅ、やりおるっ。おかげで疲れも吹き飛んだぞ」

「やっぱり疲れてたんじゃないか……いつもの体だったら、ほんの一口サイズですぐなくなるしね。お徳な感じがするってこと?」

「左様。これはよいぞ……なにゆえもっと早う気づかなんだか……」


 食べ物一つで己のサイズ感がお気に召したらしい。

 一方湊は、いかなる時も縁側を占領する白い小山がなくなってしまい、やや複雑な心境だ。


「あって当たり前のモノがないと物足りない気になる……」


 天を仰いで饅頭を味わうのに忙しい御方は、ご機嫌にミニ尻尾を振っていた。


「それにしても、前もそうだったけど、山神さんって眼だけで御業みわざを行うよね」

「我にとっては、それが一番やりやすいからな」

「……山神さんにとって、やりやすい……」


 湊は思い出す。

 女神も同じことをいっていたではないか。己は木箱がお気に入りだからだと。


 そして『あなたにとってやりやすい物を探しなさい』とも。


 湊は座卓の下に置いていた、慣れ親しんだ和紙をつかんだ。


「なんであれ、上達の速度は、そのモノそれぞれ異なるのは当然よな。個々に合うモノ、合わないモノがあるのもまた、至極当然である。頑なな思い込みは、発想の妨げにしかなるまいて」


 山神が歌うように告げた。


 ぱちゃん。御池から水しぶきが上がる。

 顔を上げた湊が御池を見やる。大岩上の霊亀が首を伸ばし、石灯籠を指し示した。


 ちょうど火袋のガラス窓が開くところだった。

 ふんわりと桜真珠の光がこぼれていく。

 同時、四方の空から色とりどりの野鳥が集まってくる。茶、白、黒、そして真っ先に迫ってくるうぐいす色たち。


 ――ホーホケキョ!


 無数の美しき鳴き声が重なった。見上げる湊が両眼を細める。


「この春らしい庭には、あの鳴き声が似合うね」

「うむ」


 ――ほげ〜!


「……約一羽を除いて……。自主練では駄目だったか。先生、お願いします」


 火袋から出てそのきわに立つ鳳凰が、しゃきっと胸を張った。

 やる気に満ち満ちておられる。

 石灯籠の下に集合したうぐいすたちを見下ろし、何事か語り始めたようだ。


 まだ春は始まったばかり。諦めるのはまだまだ早いというものだろう。


「……俺も頑張ろ」


 いつものように、否、新しい力を上乗せして和紙に筆を下ろした。

 

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