27 幽玄の庭 表
一台の車が楠木邸の表門前に止まった。
後部座席に腰かける播磨が、ミラー越しに運転手へと問う。
「たまには一緒にいくか」
「本気で勘弁してください」
ミラーに映る部下――いかにも体育会系出身の男性が涙目になった。
以前、手土産が多かった際、部下も二度ほど楠木邸に入ったことがある。表門が開いた瞬間、あまりの神気の濃さに卒倒しそうになっていた。
今回の手土産は、毎度お馴染みの越後屋の甘酒饅頭で、正直、彼の手助けは必要ない。
「最近穢れがひどいからな、たまには清浄な空気を感じたほうがいいだろう? 恐ろしいのは最初だけだと思うのだが」
「確実に! 自分の寿命が縮みます!」
力いっぱい拒否されてしまった。
部下は姿を隠した神であろうと看破できる目を持つがゆえに、人一倍、神に対して畏敬の念が強い。
神と同じ席につくのも恐れ多いと、楠木邸の縁側に座りもしなかった男である。
「ここで大人しく待っております。いってらっしゃいませ!」
「……すぐに戻る」
「いいえ、いいえ。ごゆっくりどうぞ」
部下はあからさまにホッとしていた。
播磨が車外に降り立つ。そこは門前であろうとすでに空気が違う。一瞬にして、身が清められる心地になった。
ここ最近、悪霊が湧く場所にばかりいるせいか、なおのこと、空気の清らかさにありがたみを感じた。
塀の外を囲うクスノキたちは、今日も家を護るかのように堂々と佇んでいる。その梢の隙間から陽光が差し、門前にまだら模様を描いていた。
砂利道をすぎ、門前に立つ。ここでいったん深呼吸を繰り返す。心の準備を整える時間だ。
楠木邸にはもう何度も訪れていて、いい加減、超弩級の神圧に慣れはした。
とはいえ、心臓に多大な負担がかかるのは避けようもない。
視線を上げた播磨が拳を握った。並々ならぬ力がこもったその手には、ビニール袋が提がっている。
抜かりはない。気合を入れ、インターホンを押した。
あらかじめ湊にはメールで連絡してあり、すぐに応答があった。
『こんにちは、播磨さん。庭のほうにどうぞ』
「……ああ、お邪魔する」
近頃では、湊が出迎えることはない。
一度深く礼をし、自ら格子戸を開けた。
瞬間、一挙に神威があふれ出す。その威力たるや、まともに目を開けておくのも困難を極め、身体も後方へと弾き飛ばされそうだ。
やや前傾姿勢になった播磨が敷地内へと足を踏み出した。
その勇姿を車中から部下が固唾を呑んで見つめていた。
静かに格子戸が閉まる。神域――神の家の出入り口が閉ざされ、冷や汗ものの濃い神威の流出は止まった。
あとには、ただ心地のよい清浄な気だけが漂い、風に流された木々がそよぐだけ。それはまるで、おかしそうに笑っているかのようだ。
部下は強張っていた身体の力を抜いた。
ゆっくりと窓を全開にすると、車内を薄まった神気が通り抜けていく。そうしてようやく深く息をついた。
この程度で十分効果がある。濃すぎる神気はむしろ身体によろしくない。
そのうえ神の御身は、視覚にも優しくないのだから。
部下は楠木邸へと向かい、手を合わせ、深々と
「播磨さん、ご武運を」
上司の身の安全祈願と神への感謝を捧げた。
◇
ずう゛ぅ゛ん……と上から全身にのしかかってくる神気は、本日も実に重々しい。呼吸も危うい。
敷地内に三歩入った所で、播磨が若干よろけた。
意地で踏み止まり、体勢を整え、顔を上げる。まだこれは洗礼にすぎない。ここで音を上げるなど男がすたるというものであろう。
一歩、一歩。進めば進むほど、神の御座す場に近づけば近づくほど、圧はその威力を増していく。靴底が地面に鮮明な靴跡を残していった。
わかってはいた。
山神は越後屋の甘酒饅頭が特に気に入りということ、その時の神威は倍増するということも。
基本的に、護符の背面に書かれている店名は二、三箇所だ。その中には、必ず越後屋の名がある。不動のメンバーである。
ここ楠木邸のわりと近くに店舗を構え、売り切れることがまずない甘酒饅頭は、確実に購入できるからだ。
楠木湊の思いやりだと思われる。
播磨が全国を飛び回り、多忙を極めているのを承知しているからだろう。
これさえ買っておけば、大丈夫。間違いなし。いわば鉄板商品だ。
何も取り引き時に、手土産必須というわけではない。
だがこれは、播磨のゆずれないこだわりだった。
仕事であろうとなかろうと、他人の家に手ぶらで訪問するなどあり得ない、手土産持参を当たり前として育ったせいである。
加えて、効果抜群の護符を破格の値で売ってもらっている御礼もかねている。その取り引き自体をスムーズに行うために欠かせない物でもあった。
なお現在護符の代金は、後日口座振込みになっている。
ほんの数メートルしかない家の脇を、播磨は時間をかけて抜けた。
途端、視界がひらける。
桜だ。桜の木が外周を取り巻く庭園に、桜の花びらが舞い躍っていた。
神の圧は濃いままだ。
しかしそれを忘れてしまうほど庭は美しかった。
おそらく世間の季節に合わせたのだろう。桜前線は日本列島を北上中で、この地はもうそろそろ抜けようとしているけれども。
もともと訪れるたびに視線を、意識を持っていかれる庭ではあるが、さらにその吸引力を増している。
しばし播磨は佇み、魅入った。
ふと視線を落とすと、地面に花弁が一枚も落ちていない。それもそのはずで、地に舞い落ちると、音もなく消えていっていた。
まやかしなのだ。桜の木自体がそうなのだろう。元は違う木だったのを覚えている。
しかし近場の桜の木を見ても、本物の木と遜色なく、とても偽物だとは思えない。これが神のなせる技なのだと、ここは現世とは隔絶された場所なのだと改めて戦慄した。
ここにくると目の保養とは、まさにこのことだとつくづく思う。景色のみならず、香り、やわらかく肌を撫でる風によって、五感が癒やされる。そんな気もする。
さらには、時間の流れも違うように感じていた。
実際の時間の経ち方に違いはないが、俗世を忘れさせてくれる。
いつの間にか、年々深さを増す播磨の眉間のシワも浅くなっていた。
「播磨さん、飲み物は冷たいほうがいいですか?」
家の中から顔を出して告げたのは、この家の管理人たる楠木湊だ。
「ああ、ありがとう」
「いいえ」
屈託なく笑っている。訪問回数が両手の数を超えたあたりから、湊は随分気安くなった。
元から人見知りしない性質なのだろう。実家が温泉業を営み、なおかつ従事していたせいか、接客に慣れを感じさせた。対応にそつがない。
湊は童顔だ。初対面時は二十歳前後の学生かと思ったが、三つ歳下だと知った時は驚いたものだ。
そんな歳を重ねても少年のような印象の彼が、そんじょそこらでは手に入らない護符の作成者でもある。
元からその能力は秀でていたが、己の力を自覚して磨き上げた今では、護符の除霊効果の上昇と向上速度には目を見張るしかなかった。
湊が斜め下に視線を向けた。
そこには、巨大な座布団がある。そのちょうど真ん中に小さな窪みができている。
「山神さんは、あたたかいほうがいいよね」
濃い紫色――高貴なるモノ専用色の座布団に何も変化はない。
が、湊はうなずいて室内へと戻っていった。
播磨には聞こえない声が、湊には聞こえたのであろう。
播磨が縁側へと歩を進める。
その視線の先には、縁側の中央に置かれた座布団のみ。
目を逸らしたくてもできない、逸らすことなぞ断じて許さない、圧倒的神の気配がそこにある。
縁側の中央は、この敷地――神域の中心に位置する。
そこに君臨する神の視線がこちらを向いた。この神域の主格たる存在に意識を向けられた。
反射で身がすくんでしまう。
情けないことだが、一度神威を叩きつけられた時の恐怖を忘れられないからだった。結構
なれど、足は止めない。矜持の高さゆえに。
山の神は総じて、尊大で厳しいものだ。
けれども、敬意を持って接しさえすれば、決して悪いようにはしない。神を利用する――以前のような真似さえしなければ、さして相手にもされないといったほうが正解だ。
縁側まであと数歩。己に向けられていた視線が、手元へと移った。
ますます神気の密度は増すものの、身体にかかる重さは軽くなっていく。手土産の正体を感づかれたようだ。
神の喜びの波動が伝わってきた。
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