62 幽玄の庭 裏


 縁側に腰を落ち着け、正面にいる湊が軽く頭を下げた。


「いつもありがとうございます」


 甘酒饅頭入りのビニール袋が、播磨の手から湊へと渡る。

 さすれば、神の意識が完全にそちらへと移ってしまった。

 全身が弛緩しそうになるも、根性で押し止める。


 湊からやや同情を含んだ目を寄越された。

 素知らぬ顔をして、グラスを手に取る。その冷たい感触にひどく安堵した。横からの不自然な風のあおりを受けながら、グラスを傾ける。

 湊が斜め下の座布団を見やった。そこにあったヘコみの位置が変わっている。手前に移動してきている。


 近い。気づかぬうちに間近にいたようだ。


「山神さん、よかったね」


 風の勢いが加速する。播磨の上半身が押されかけた。


「……うれしそうだな……。この甘酒饅頭は、十二代目の方が作った物なんだ」


 さすがに播磨も気づいていた。

 越後屋の甘酒饅頭を持参した際、山神の喜び具合に差があることを。

 今日は越後屋の十二代目たる翁、手ずから渡された品物である。絶対にお気に召すはずだ。


 かつて、播磨の前で神と会話することはおろか、意識を向けることすらためらっていた湊は、今やどこにもいない。

 播磨が認識しているなら『まあ、いいか』と一切遠慮なく山神に話しかけるようになっていた。


「あとで頂きますか」


 湊が山神のいる一角に袋を置いた。

 座布団にぽつぽつと染みができる。紛れもなく、よだれだろう。我慢しているようだ。健気ではあると毎回失礼ながら思っている。

 名目上、湊への手土産のため、山神は湊から許可が出ない限り、決して食べない。

 お好きにどうぞといいたいところだが、湊次第である。


 播磨には、山神は視えない。

 ゆえにどのような姿形をしているか知りようはない。


 とはいえ、妹が『山の神様は、狼以外の方を視たことない』と断言していたため、狼だろうと思っている。

 おそらく尾が千切れそうなほど振られているのだろう。

 しかしそれにしても、やけに御身おんみが小さいようだ。いつも座布団が全体的に沈むほどの巨躯だというのに。


「じゃあ、こちらが今回の分です」


 湊から渡された和紙は、いつもより少ない枚数だった。

 仕方ないだろう。前回訪れてからまだ半月も経っていなかった。そうそう量産できるものではないのだから。

 悪霊祭り終焉まで持つか。いや持たせなければならない。

 手元の薄い束を見ながらそう思った時――。


「あとこれもなんですけど……」


 追加で差し出されたのは、格子の線が書かれた和紙だった。

 播磨が訝しそうにする。

 確かに祓う力は入っている。

 だが、弱い。

 翡翠色の光も強い部分と弱い部分がある。まるでその光を抑えきれず、所々漏れ出してしまっているように見受けられた。


「これは……?」

「……実は、先日新しい力をいただいてしまいまして……」


 播磨が目を見開いたため、湊の視線が泳ぐ。

 誰に。

 なぞあえて聞くまでもない。神にだろうことは容易に察しがついた。これだけ周囲に神の類いがいる人物だ。またどこぞで新たな神と知り合ったのだろう。


 播磨の知人にも、異様に神に気に入られる者がいる。楠木湊は、その身内と性質が似ていた。

 まず、我欲が薄い。執着もあまりなく、おおらか。生きながらにして常世とこよの住人のような雰囲気がある。

 目を離した隙に、どこかへといってしまいそうな儚さも持ち合わせている。今の桜風景の中にいると、余計にその印象が増す。

 ゆえに、身内から過保護にされてきたのだろうと勝手に思っていた。


 播磨が無言で話の続きを促す。


「……いただいたその力を遣って、護符に祓う力を閉じ込めました。これは対象に触れない限り、祓わないようになってるはずです。これなら、特殊なケースに入れなくてもよくなりますよね?」

「……ああ、助かる」

「山神さんは、ちゃんとできてるっていってくれてるんですけど、……いや、山神さんのいうことは疑ってないよ。疑ってないけど、一応。……それで、これはまだ実際に試してないんですよね。なので、お試し用ということで、使ってみてください」


 途中、山神にいった湊が苦笑した。

 すっと山神の視線が流れてくる。


 問題ない。


 圧でそう告げられ、播磨が軽く首肯した。


「播磨さん、お疲れ気味……あー、いや、そうだ、温泉にでも入って……いえ、なんでもないです」


 いい淀み、結局空笑いでごまかされた。

 気を遣われたのか、なんなのか。よくわからなかった。

 


 温泉を勧めかけてやめた湊は、笑ってごまかした。

 なぜなら思い出してしまったからだ。


『山神の湯』には、余計な付加効果があったのだと。


 播磨まで神域引き込まれ体質になってしまえば、詫びのしようもあるまい。


 播磨は今日も疲れている。対面に背筋を伸ばして座る陰陽師を眺めながら思う。

 史上最悪のお疲れ具合だ。死相でも出ていそうである。残念ながら人相学に造詣は深くないため、正確なところはわからない。

 とはいえどす黒い隈、透けそうな青白い肌は不吉というほかない。今にも儚くなってしまいそうだ。


 現在己のそばにいるモノたちは、健康というより生気に満ちあふれている。

 御池の周りを周回している霊亀、御池でハイジャンプをかます応龍、庭中を走り回って屋根にまで跳ぶ麒麟、温泉に浮いてくつろいでいる風神雷神。などなど、いきいきとしている。

 対比され、死にかけでも気丈に振る舞う播磨は、なおのこと痛々しかった。


 新しい護符を喜んでくれたのはいい。だがしかしそれで疲れが取れるはずもないだろう。

 この場にいるだけで疲労が取れるのは、すでに実証済みだ。

 現に今も、時間が経つごとに播磨から緊張も抜けていく様子が見て取れる。できる限り滞在時間を引き延ばすべきだろう。


 湊の実家は、温泉宿である。

 そこには湯治とうじに訪れる者も多い。

 疲れ果てていた客人たちが、滞在期間が長くなればなるほど、温泉につかればつかるほど、見違えるように元気を取り戻していく。

 それを幼少期からまざまざと目の当たりにしてきている。

 そのせいもあり、生気を失っている人は、何はともあれ温泉に突っ込まねばならぬと、強迫観念に似た思いを抱くのである。


 それにしても、至極残念だ。せっかく素晴らしき温泉があるというのに入れぬとは。


「こやつは入ったところで、さして体質は変わるまいて」


 しれっと山神が宣った。


「え、そうなんだ」

「おそらくな」

「はっきりしないなら、駄目じゃないか」


 告げながらも山神はこちらに視線もくれようとしない。じっと座卓を見上げた状態だ。

 お待ちかねのようだが、さすがに以前あったように播磨がいる前で、頂き物を即食いされたらたまったものではない。

 極力、取り引き中は我慢してもらうようにいい含めてあった。


 が、山神が発する森林の香りが増した。


 播磨の瞬きが遅くなったような気がする。


「……山神さん……」


 湊が呆れる。さっさと播磨の疲れを癒やし、帰ってもらいたがっているのは見え見えだった。


「ぬ、お茶もほどよい温度になったぞ。この緑茶、さぞかし饅頭に合うであろうな」


 ぺろぺろ。素知らぬ顔してお茶を飲み出した。

 致し方あるまい。

 すっと湊が播磨へと手のひらを上に向けて差し伸べる。すぅっと伸びてきた武骨な手が乗せられた。


 そこに言葉はいらない。双方、慣れたものだ。

 いざ、手の甲に書こうとした時、つい筆ペンを手に取っていた。

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