28 幽玄の庭 裏
縁側に腰を落ち着け、正面にいる湊が軽く頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
甘酒饅頭入りのビニール袋が、播磨の手から湊へと渡る。
さすれば、神の意識が完全にそちらへと移ってしまった。
全身が弛緩しそうになるも、根性で押し止める。
湊からやや同情を含んだ目を寄越された。
素知らぬ顔をして、グラスを手に取る。その冷たい感触にひどく安堵した。横からの不自然な風のあおりを受けながら、グラスを傾ける。
湊が斜め下の座布団を見やった。そこにあったヘコみの位置が変わっている。手前に移動してきている。
近い。気づかぬうちに間近にいたようだ。
「山神さん、よかったね」
風の勢いが加速する。播磨の上半身が押されかけた。
「……うれしそうだな……。この甘酒饅頭は、十二代目の方が作った物なんだ」
さすがに播磨も気づいていた。
越後屋の甘酒饅頭を持参した際、山神の喜び具合に差があることを。
今日は越後屋の十二代目たる翁、手ずから渡された品物である。絶対にお気に召すはずだ。
かつて、播磨の前で神と会話することはおろか、意識を向けることすらためらっていた湊は、今やどこにもいない。
播磨が認識しているなら『まあ、いいか』と一切遠慮なく山神に話しかけるようになっていた。
「あとで頂きますか」
湊が山神のいる一角に袋を置いた。
座布団にぽつぽつと染みができる。紛れもなく、よだれだろう。我慢しているようだ。健気ではあると毎回失礼ながら思っている。
名目上、湊への手土産のため、山神は湊から許可が出ない限り、決して食べない。
お好きにどうぞといいたいところだが、湊次第である。
播磨には、山神は視えない。
ゆえにどのような姿形をしているか知りようはない。
とはいえ、妹が『山の神様は、狼以外の方を視たことない』と断言していたため、狼だろうと思っている。
おそらく尾が千切れそうなほど振られているのだろう。
しかしそれにしても、やけに
「じゃあ、こちらが今回の分です」
湊から渡された和紙は、いつもより少ない枚数だった。
仕方ないだろう。前回訪れてからまだ半月も経っていなかった。そうそう量産できるものではないのだから。
悪霊祭り終焉まで持つか。いや持たせなければならない。
手元の薄い束を見ながらそう思った時――。
「あとこれもなんですけど……」
追加で差し出されたのは、格子の線が書かれた和紙だった。
播磨が訝しそうにする。
確かに祓う力は入っている。
だが、弱い。
翡翠色の光も強い部分と弱い部分がある。まるでその光を抑えきれず、所々漏れ出してしまっているように見受けられた。
「これは……?」
「……実は、先日新しい力をいただいてしまいまして……」
播磨が目を見開いたため、湊の視線が泳ぐ。
誰に。
なぞあえて聞くまでもない。神にだろうことは容易に察しがついた。これだけ周囲に神の類いがいる人物だ。またどこぞで新たな神と知り合ったのだろう。
播磨の知人にも、異様に神に気に入られる者がいる。楠木湊は、その身内と性質が似ていた。
まず、我欲が薄い。執着もあまりなく、おおらか。生きながらにして
目を離した隙に、どこかへといってしまいそうな儚さも持ち合わせている。今の桜風景の中にいると、余計にその印象が増す。
ゆえに、身内から過保護にされてきたのだろうと勝手に思っていた。
播磨が無言で話の続きを促す。
「……いただいたその力を遣って、護符に祓う力を閉じ込めました。これは対象に触れない限り、祓わないようになってるはずです。これなら、特殊なケースに入れなくてもよくなりますよね?」
「……ああ、助かる」
「山神さんは、ちゃんとできてるっていってくれてるんですけど、……いや、山神さんのいうことは疑ってないよ。疑ってないけど、一応。……それで、これはまだ実際に試してないんですよね。なので、お試し用ということで、使ってみてください」
途中、山神にいった湊が苦笑した。
すっと山神の視線が流れてくる。
問題ない。
圧でそう告げられ、播磨が軽く首肯した。
「播磨さん、お疲れ気味……あー、いや、そうだ、温泉にでも入って……いえ、なんでもないです」
いい淀み、結局空笑いでごまかされた。
気を遣われたのか、なんなのか。よくわからなかった。
温泉を勧めかけてやめた湊は、笑ってごまかした。
なぜなら思い出してしまったからだ。
『山神の湯』には、余計な付加効果があったのだと。
播磨まで神域引き込まれ体質になってしまえば、詫びのしようもあるまい。
播磨は今日も疲れている。対面に背筋を伸ばして座る陰陽師を眺めながら思う。
史上最悪のお疲れ具合だ。死相でも出ていそうである。残念ながら人相学に造詣は深くないため、正確なところはわからない。
とはいえどす黒い隈、透けそうな青白い肌は不吉というほかない。今にも儚くなってしまいそうだ。
現在己のそばにいるモノたちは、健康というより生気に満ちあふれている。
御池の周りを周回している霊亀、御池でハイジャンプをかます応龍、庭中を走り回って屋根にまで跳ぶ麒麟、温泉に浮いてくつろいでいる風神雷神。などなど、いきいきとしている。
対比され、死にかけでも気丈に振る舞う播磨は、なおのこと痛々しかった。
新しい護符を喜んでくれたのはいい。だがしかしそれで疲れが取れるはずもないだろう。
この場にいるだけで疲労が取れるのは、すでに実証済みだ。
現に今も、時間が経つごとに播磨から緊張も抜けていく様子が見て取れる。できる限り滞在時間を引き延ばすべきだろう。
湊の実家は、温泉宿である。
そこには
疲れ果てていた客人たちが、滞在期間が長くなればなるほど、温泉につかればつかるほど、見違えるように元気を取り戻していく。
それを幼少期からまざまざと目の当たりにしてきている。
そのせいもあり、生気を失っている人は、何はともあれ温泉に突っ込まねばならぬと、強迫観念に似た思いを抱くのである。
それにしても、至極残念だ。せっかく素晴らしき温泉があるというのに入れぬとは。
「こやつは入ったところで、さして体質は変わるまいて」
しれっと山神が宣った。
「え、そうなんだ」
「おそらくな」
「はっきりしないなら、駄目じゃないか」
告げながらも山神はこちらに視線もくれようとしない。じっと座卓を見上げた状態だ。
お待ちかねのようだが、さすがに以前あったように播磨がいる前で、頂き物を即食いされたらたまったものではない。
極力、取り引き中は我慢してもらうようにいい含めてあった。
が、山神が発する森林の香りが増した。
播磨の瞬きが遅くなったような気がする。
「……山神さん……」
湊が呆れる。さっさと播磨の疲れを癒やし、帰ってもらいたがっているのは見え見えだった。
「ぬ、お茶もほどよい温度になったぞ。この緑茶、さぞかし饅頭に合うであろうな」
ぺろぺろ。素知らぬ顔してお茶を飲み出した。
致し方あるまい。
すっと湊が播磨へと手のひらを上に向けて差し伸べる。すぅっと伸びてきた武骨な手が乗せられた。
そこに言葉はいらない。双方、慣れたものだ。
いざ、手の甲に書こうとした時、つい筆ペンを手に取っていた。
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