10 暇を持て余した神々のお戯れ
おそらくツムギの体に天狐が入ったのだろう。
山神がウツギの体に入ったのを見ていた湊はすぐに察した。
一度直接、天狐に会ってもいたため、そこまで驚きはない。
だが、その時よりはるかに神気が強い。
その圧に押され、後退した湊のかかとが座布団の端に触れた。
その座布団上の山神は、横柄に伏せた体勢のまま、立ち上がることすらしない。ただ眇めた眼で、成り行きを静観するのみ。
ツムギの紋様が完全に朱色になった。
ふるると一本の尾が小刻みに震え、一挙に本数が増える。
その数は、九本。
背後にそれらを見せつけるように広げ、軽く笑い声を立てると、大気がさざなみのごとく振動した。
雰囲気が一変した小狐がじっと湊を上目で見つめる。
「――外はうるさかろうと、わらわの
朗々と響くその声音は、脳を痺れさせる威力を誇る。
しかも、やけに甘い。若い女であろうやや低めの声で、人を誑かすのに適している。
失礼ながら湊はそう思う。
九本の尾を持つ狐といえば、人を惑わす
小狐――天狐の視線が室内のキッチンへと流れた。
キッチンカウンターには、稲荷寿司と蕎麦稲荷が載った大皿が置かれている。
「もちろんあの稲荷寿司を持ってじゃぞ。わらわも蕎麦稲荷とやらが気になるのじゃ」
「ツムギとそっくり……」
やはりか、と思わないでもない。
神の類いだからか、いや、動物形態だからか。
皆一様に、食関係にこだわりが強く、容易に釣れる。そもそもツムギは天狐を
「どこまでも食い意地がはっておる」
山神が
静かに山神が起き上がるところだった。その御身の長い毛が、ざわざわとゆれている。
超絶不機嫌である。かつてない様相に湊は言葉を失う。
山神が足を踏み出した。
一歩、また一歩。時をかけて歩むたび、毛のゆらめきが増し、その身を覆う金色の明度まで上がっていく。
しまいには光に火花が交じり、音が弾けた。
縁側の際にたどり着く頃には、全身から稲妻と化した光をうねらせ、ほとばしらせていた。その先端が縁側の天井にまで達している。
あまりの恐ろしさに、湊は気がつけば背中をガラス窓にびったりと張り付けていた。
縁側の床を踏みしめた山神が、眼下の小狐を睥睨する。
「ほんに
天狐は鼻で嗤い飛ばす。
「ソナタにだけは言われたくないものじゃ。甘味ごときに容易く釣られて噴火を抑えるようなソナタにはな」
山神を取り巻く稲妻光が蛇めいてうねった。
「ほざけ。我は貴様と違って食い物目当てによその
「わらわの眷属を許したじゃろ。ならば、それはわらわも入ってよいということじゃ」
「ぬかせ。己の都合のよいように解釈するでないわ」
「これはこれは
のらりくらりと交わした天狐は、その尾を煩わしげに振った。
「そもそも、じゃ。ここへ立ち入るために、ソナタの許しなんぞいらんじゃろ。その者がよしといえば、誰でも入ってよい庭じゃ。のぅ?」
天狐が山神越しに湊を見やる。
湊は反射で愛想笑いを浮かべるも、思いっきり引きつっている。
「まったくソナタに見下されるなぞ、気分の悪い」
小狐が宙に浮き上がり、山神の目線より上に浮く。
山神の体から一本の光が放たれた。
鞭のごときそれは唸りをあげてしなり、天狐へと向かう。
が、双方の中間地点で霧散してしまう。
天狐は動いても、身構えてもいない。
視線のみで瞬時に消してしまった。余裕綽々であくびでもしそうだ。
「弱い、弱い。情けないのぉ。今のソナタの力は、ハエはおろか蚊にも劣る」
天狐の体は、山神より小柄だ。
なれど、決して弱そうには見えない。その身の周囲が蜃気楼のようにゆれている。発する神威が空間にまで干渉していた。
内包する神力が桁違いだからだ。
「おのれ……」
低く唸った山神が、相次いで光の鞭を繰り出す。
しかし横に、縦に、斜めに打ち払われ、すべてが消されていった。
九本の尾が、さもつまらなそうにそよいでいる。
「今のソナタの相手なんぞ、わらわ自身よりはるかに弱い
「おのれ、
山神が縁側から跳ぶ。
一蹴りで、標的――天狐に肉薄する。その鋭き爪が狙うのは顔面。だが天狐は迫りくる前足を紙一重で避けた。
なぜか、肉弾戦へと突入してしまった。
中空――屋根より高い位置で白い狼と黒い狐が近づき、離れ、爪と牙で死闘を繰り広げる。
打撃音と獣の咆哮が大気を裂く。牙をむき、吠え合う二柱は、戦神かと見紛う形相である。
けれども、その姿は、かわいらしい小狼と小狐だ。
いかにバトルが激しかろうと、醸す空気は刺々しかろうと、じゃれて揉めているようにしか見えない。
向かい合う二匹が前足を激しく動かし、引っかき合っている。きゃわんきゃわんと小狼が吠え、ムキーッと小狐が唸る。
仲良く喧嘩しな、という有名フレーズが湊の脳裏をよぎった。
二柱は上へ、下へと目まぐるしく立ち位置を入れ替える。その神速は、縁側にいる湊の肉眼では捉えられない。白糸と黒糸の曲線が宙に描かれ続ける。
光景は激しく恐ろしくも、その罵声が緊迫感を削ぐ。
わあわあ、ぎゃあぎゃあ、もちゃもちゃ絡まり合っている。
「このチビ狐めが!」
「今のソナタにそれを言う資格があるか、小狼の分際で! なんたる情けない姿じゃ! 鏡でも見てこい!」
「やかましいわ!」
いつの間にか湊の全身から強張りは取れていた。
それも束の間、二匹の声とともに、強風までも吹き下ろしてきた。
一斉に庭木がざわめく。
あおられたクスノキも地面スレスレまで倒れた。若葉までも千切れ飛びそうだ。
湊が風を放ち、屋根と庭の間に防壁をつくる。
即座、風がやみ、びよんとクスノキが起き上がり小法師の勢いで元に戻った。
そんなやや平和な地上と裏腹に、中空での舌戦だけは、依然として殺伐としている。
相も変わらず小狼と小狐が引っかき合っているけれども。
「遅い、遅い。なんたる鈍足ぶりじゃ。久方ぶりの
「ほざけ!」
九本の尾があざ笑うようにゆれ、神威を乗せた風で山神の攻撃を軽くいなす。
「それにしても、ずいぶんな力の衰えようではないか」
眼下の山神を見下す天狐の、眼の瞳孔が引き絞られた。
「五百年前より、さらに劣っているようじゃ」
小狐の体を覆う陽炎が一挙に範囲を広げる。
神威の濃度が増し、まるで軽めの地震めいて、敷地全体が軽くゆれた。
一瞬動きを止めた小狼がその余波に弾かれ、防護の風の膜に落ちた。
山神が負けた。
時間にして数分程度で、あっさり勝敗がついてしまった。決して敵わない。湊でさえわかる歴然たる神力の差だった。
宙に浮かび、見下ろしてくるちっこい狐は、その眼力だけなら、覇王さながらである。
「さて。今回で三万三千三百三十二回戦目であったかの。そうして、二万二千二百二十二回目のわらわの勝利じゃ」
天狐は中空で後方宙返りをして、高らかに笑っている。とてもとても楽しそうだ。
「かようなくだらぬことを、いちいち数えてなぞおらぬわ」
湊が風を止めると、山神がストンと庭に降り立った。
しかと立ち、よろけることもない。
さっきまでの行為は、二柱にとって遊びだ。戯れだ。
現にこちらへと歩み寄ってくる山神も苦悶の表情などではなく、単に悔しげなだけだ。
むろん、湊も理解している。
だが、地味にショックを受けていた。
山神は無敵だ。
無意識にそう思い込んでいたからだった。
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