9 黒き狐、再来す



 山神が、ぎゅっと両眼を眇め、大きく尾を振る。


「――なんぞ、いきなり。『山神! 速やかに光を抑えてください!』『いい加減にしろ! 調子に乗りすぎだ!』『力を無駄使いするなーっ!』だと? やかましい、我に指図するでないわ。お前たちはしかとけいらに励んでおれ」


 案の定、自宅警備中の眷属三匹から一斉に苦情が入ったようだ。

 さもありなんと湊は呆れる。


「ほら、セリたちにも怒られたじゃないか」

「……あやつらめ、手加減なしに大声を出しおってからに……頭の芯にまで響いたわ」


 ぷるっと煩わしそうに頭部を振った。


「まったくどっちが親なんだか」

「紛れもなく我よ」


 ふんと鼻で笑う山神は尊大に言い放ちながらも、光を抑えた。なんだかんだ文句を垂れつつも、聞き分けはよいところが山神の長所である。


 苦笑した湊が和紙を重ねてまとめていく。その手が動くたび、山神が鼻をうごめかせる。


「――にしても、甘辛い匂いがきついぞ」

「まだそんなににおうかな」


 いったん手を止めた湊が手のひらを鼻に近づける。

 稲荷寿司――油揚げの香りがほのかにした。


「確かに少し残ってる」


 護符を書く前、昼食用に稲荷寿司を握ったからだ。

 よく嗅がなければわからない程度でも、狼の鼻には強く香るのかもしれない。もともと嗅覚がいっとう優れた御仁でもあるからして。


「丁寧に洗ったつもりだけど、なかなか取れないんだよね」

「川で洗えば、即座に取れよう」

「あの神水、匂いまで落ちるんだ……知らなかった。でも庭の川で手を洗うって、なんと言っていいか……。すごくこう、野性的だな、と。家に住んでるはずなのに住んでない感じがする」


 窓越しにリビングを見やる。

 湊がここに来た当初の状態を保ったまま、据え置かれた調度品しかない。ファブリック類一つもなく、飾り気もあたたかみもない。


 そこにある立派なソファで怠惰な時間を過ごしたことも、ほぼない。完全に借りぐらしである。


「ま、今さらか。これを片付けてから川にいくよ」

「早うせねば、またどこぞの狐が釣れるであろうよ」


 山神がさも愉快げに低く嗤う。湊は和紙の束を座卓に当て、端をそろえた。


「前回、稲荷寿司をつくった時に来た黒い狐のことだよね。ツムギだっけ。あれ以来一度も来てないけど、元気にしてるかな」

「もちろん、至って元気なのです」


 背後からハキハキとした高い声がかかった。

 言葉に偽りなく元気そうだ、と振り返る前、その姿を見なくとも湊は思う。



 山側の塀に黒い狐が座っている。

 額に白いはすの花の紋様がある、小さな狐が行儀よく前足をそろえ、背筋を伸ばしていた。


 が、顔は露天風呂方向へと固定されている。

 視線をこちらに寄越そうともしない。その後ろ首に風呂敷包みが見えるあたり、またお使いの途中なのだろう。


 前回もお使い只中に、温泉に惹かれて訪れた隣神りんじん――天狐の眷属、ツムギ。今回もまたほかほか天然温泉に魅了されていた。

 その欲望に忠実な姿は、笑うしかない。


「久しぶりだね」


 湊は軽い調子で声をかけた。



 少しばかり前、御山の隣に位置するツムギのお宅――小ぶりな三角の山に山神と通りかかったのだが、その時、神域に引き寄せられた。

 ツムギの主――天狐てんこからのやや強引なお招きのせいだった。


 それを山神が問答無用で断ち切ったことがある。


 天狐にもわずかな時間相対したものの、それ以上特別に何かあったわけでもなく、その後も何もない。

 さして悪感情を持ってはいなかった。

 むろんツムギに対しても、だ。


 それに相手は、人語を操るもふもふの狐である。

 気安い近所付き合いをするのは、やぶさかでない。

 湊は動物類を撫で回したいという欲求は持っていない。ただ愛でたいだけだ。

 そばで挙動を眺めるだけで癒やされ、和むタイプである。



 ようやく温泉から視線をはがしたツムギが、湊とその向こうの山神に向き直る。


「お邪魔してもよろしいのです?」

「どうぞ。入ってきなよ」


 湊が快諾し、山神も軽く首肯する。

 とんとツムギが敷地内に降り立った。

 足音も立てず、まっすぐ静かに歩み寄ってくる。優雅に大きな尾をゆらし、しずしずといった擬音が似合うその足取りは、ずいぶん気取っている。


 席を立った湊が口角を上げた。


「俺がつくった稲荷寿司の香りに気づいたから来たの?」

「はてさて、なんのことでございましょうか」


 澄ました物言いで、その眼も、もう温泉には向けられていない。

 なれど黒い鼻先は絶えずうごめいていた。


「今日の稲荷は、白ごましか入っていないシンプルな物なんだけど、いい?」

「素敵ですっ」


 弾んだ声を出し、歩調が早まる。

 てってけ、てってけ小走りで迫ってきた。おめめも期待で輝いている。

 最初の取っかかりは素直になれない性質らしい。


「蕎麦入りのもあるけど、食べる?」

「な、なんでしょうか、そのお稲荷さんは……」


「酢飯の代わりに茹でたそばを詰めたものだよ。蕎麦稲荷って呼んでる」

「蕎麦稲荷……見たことも食したことがないのです。酢飯ももちろんよいのですが、そばもよいものなのです……! ぜひぜひいただきたいのです!」


 叫んだ直後、ツムギが急停止した。

 小柄な体が前につんのめる勢いだった。慌てて体勢を整えている。


 突然の妙な振る舞いに、室内へと戻りかけていた湊の動きまで止まる。山神も訝しげに瞬いた。


 ツムギが縁側付近できちんとお座りした。いやに神妙である。

 それから、コホンと咳払いを一つ。


「実はわたくし、本日は謝罪に来たのです」

「なんの?」


 尋ねた湊が縁側の際に立った。

 斜め下のツムギが、ちろっとうかがうように見上げてくる。

 ちらりと一瞬、湊越しの山神へと視線を流した。


「先日、我が神――天狐が強引にお誘いして、大変申し訳ありませんでした」


 ふんと鼻を鳴らした山神が座布団に顎を乗せた。

 湊が膝を折ってかがむ。


「ちょっと驚いたけど、気にしてないよ」

「……それなら、よいのです」

「どころか、尾がいっぱいあるお稲荷様にお目にかかれたのは、幸運だったかもと思ってるくらいだよ」

「尾の数は力の強さに比例するのです」

「そうなんだ」


 ツムギが一本の尾をゆらし、ついっと顎を上げる。


「我が神、天狐は強いのです。我らの住まう山の神社は、この一帯でもっとも参拝客が多いものですから」


 声も姿勢も、たいそう自慢気である。



 稲荷神社は全国に点在し、足繁く通う者も多いのは万人の知るところだろう。

 朱色の鳥居を見かけたら、たいてい稲荷神社を連想するほど一般に広く浸透しているとも言える。


 そうしてまた、さまざまな逸話もまことしやかに語り継がれている。

 そのせいか稲荷神の神力は強大で、かつ祟りやすいと信じる者も少なくない。


「大勢の者が参拝に訪れるのは、ありがたいのですが、やや騒がしいのが難点なのです。ですが、それは外側だけなのです――」


 話せば話すほど、ツムギの声は低くなっていった。


 異様な気配を感じた湊が腰を浮かせる。

 その背後、山神が盛大に顔をしかめ、ぐるっと喉を鳴らした。

 石灯籠の下に残っていた野鳥たちも羽音を立て、飛び立つ。

 眼を細めた鳳凰がとんとんと跳んで、火袋の中へと入っていく。そしてガラス窓をぴしゃんと閉めた。



 ツムギの額に刻まれた蓮の色が変わっていく。

 白から朱色へ、中心からにじみ、広がるように。

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