11 月に一度の祠掃除
深い緑が覆いかぶさる山道を湊と山神がくだっていた。
御山の中腹にある、
祠の清掃は、一度行ってから月に一度の恒例行事となっている。
毎回、山神一家の誰かしらが付き添い、今回は山神だった。
一人と一柱が歩むのは、崖沿いの道。
そこは幅も狭ければ、角度もそれなりについている。ただでさえ慎重な歩行を強いられる場所だというのに、大小さまざまな岩が転がっている。
もっとも巨大な物は、湊の背丈と変わらない。
湊が身体を傾け、時折横歩きで避けていく。小ぶりな岩の場合はまたぐ。
湊は到底まっすぐにはいけないが、そのやや前方を山神は軽快にいく。岩から岩に軽快に飛び移りながら。遺憾なくアクティブさを発揮して進んでいた。
元気なのは、結構なことだ。
けれども、その御身は小柄なまま。
その後ろ姿を見ながら、湊は浅くため息を吐いた。
昨日、楠木邸の上空で繰り広げられた
天狐は高らかに笑いながら空を飛んで帰っていた。
結局、稲荷寿司は食べずじまい。戯れに興じた時は短くとも、濃い時間であったせいか、稲荷のことは頭から吹き飛んだのであろう。
やや物思いに耽っていた湊が小石を踏んだ。
ずるっと登山靴が前方に滑る。
「うおっ」
とっさに手近の大岩に手をつくと、グラついた。
崖の端にあったその大岩がゆれ、小石が崖下へとカラカラと落ちていく。
とん、と。山神がその大岩の上に乗ると、ぴたりと動きを止めた。
湊は体勢を整え、早鐘を打つ心臓部を押さえた。
「――あ、ありがとう、山神さん」
「気をつけよ」
座った体勢で見下ろしてくる山神の声は、静かだ。
呆れてもいなければ、怒ってもいない。
この道が本来であれば、人が通れるような場所ではないからか、ただ注意を促しただけだった。
それからしばらくして、ようやく岩が散乱する道は終わりに近づいた。
とはいえ、歩きやすい道になるかというと、そうでもない。
人の手が入らない山は荒れている。
方々に木が茂り、草も伸び放題。獣道をいけば、自然の猛威を嫌でも痛感する。
比較的なだらかな山肌を滑るように湊は下りる。数歩先をいく山神の通った場所を確実にたどっていく。
そうすれば、危険な足場は避けられるからだ。
山神は、山そのものである。湊が通る際に問題がありそうな場所は避けて案内していた。
さほど代わり映えのない景色が続くと、次第に方向感覚が怪しくなってきた。
空を見上げても、梢から差し込む強い光で辛うじて太陽の位置がわかる程度。入山した時よりその高度は下がっている。
視線を下げると、広葉樹の合間を抜けた山神が立ち止まっていた。
その足が踏むのは、平坦な道。
幅も一定で、人為的に作られた道なのは明らかだった。
「このあたりって、林道が通ってたんだ」
「うむ。今では誰も通らぬがな」
「山神さんちには、不思議なほど人がこないよね」
「来たくてもこれぬであろうな」
「なんで?」
山神は鼻先で、林道の先を示す。
両脇に低い木々が絡まり合う一本道が、ゆるやかに下方へと延びている。
「この道をたどった先にある、かずら橋が切れかけておるせいで、ここまでは登ってこれぬ」
「かずら橋って、つるで作られた橋だっけ」
「左様」
「そんなのあったんだ。切れかけなら、完全に落ちてはいないってことだよね。見たことないから、ちょっと見てみたい」
「うむ。では参るか」
緑の中、際立つ白い狼が先導していった。
やや険しい峠を越えれば、
切り立つ絶壁に架かるかずら橋は、確かに落ちてはない。
ただ対岸の片側のつるが伸び切り、橋の半分あたりから、めくれるように
とてもではないが人は渡れないだろう。
よく切れずに保っていると感心する状態だった。
ちなみに、かずら橋は追手に追われた際、すぐさま切り落とせるよう、つるを用いて造られている。という説もあるが、真偽のほどは定かではない。
湊が橋の入り口に近づき、橋をつぶさに観察する。
真下は浅い渓流で、大岩が目立つ。
「これは……怖いな……」
橋の足場が平行ではないのはもちろんのこと、等間隔にある木片自体も細く、隙間も異様に広い。
慎重に手すりをつかみながら渡らないと、あっけなく足を踏み外してしまうだろう。
「水面まで結構ある。川も浅いし、落ちたら大怪我しそうだ」
「まあ、そうさな」
当然であろう。そんな言葉が続きそうな気配だ。
いやに川のせせらぎが耳についた。
山神はそれこそさまざまな事態――事故、事件を静観してきたに違いない。
「聞きたいか」
「いや、あんまり」
積極的に聞きたい話でもない。
左様か、と告げながらも、山神はどこかうれしそうに語りはじめた。
「あれはそう、越後屋三代目がここを通った時であったか――」
「越後屋さんとは、そんな前からの付き合いなんだ」
思いがけない情報に、つい割って入った。
横で同じように川を見下ろしていた山神が、ふすっと鼻を鳴らす。
「三代目どころか、初代から知っておるわ」
「そうだったんだ。すごい長いね。山神さんはまるで越後屋さん一族を見守ってるみたいだ」
「そう云うても過言ではあるまい。途中の何代かは抜けておるがな」
「ああ、寝てたんだ」
「左様」
容易に察しがついた。山神が小首を傾げる。
「――して、なんであったか……」
「ごめん、話の腰を折って。三代目さんの時、なにかあったと言いかけてたよね」
「そうであったな。あれは三代目が
「逃げてきた?」
「あれはあやつが……十代はじめ頃であったか。なにくれとふてくされておった時期があってな。二代目と越後屋を継げ、継がんと揉めてよくここにきておったわ」
「……多感なお年頃だしね」
「うむ。誰しもそういう時期はあろう」
すっとこちらに視線を寄越してきた。
「その小僧がこの橋を走って渡る最中、ものの見事に足を踏み外しおったわ」
「無謀だ。向こう見ずにもほどがある」
「しかもまだまだ序盤、たった三歩程度で、ぞ。情けないにもほどがあるわ」
「厳しいね。それは仕方ないんじゃ……」
「なにを云う。初代と二代目はしょっちゅう華麗に走り抜けておったわ」
「超人か」
山神は虚空を睨むように見た。
「して……なんであったか……」
今日はよく話が脱線する。
湊が小声で「三代目さんのその後」と促す。
山神が厳かに頷く。
「そう、あの肥え太った三代目の足が板を割り砕いたんだったわ。そこにすっぽり身体が嵌まり込み、暴れた末、あわや川へと真っ逆さまに落ちようとしたその時、我があやつの首根っこにしかと食らいつき――」
「ぉ、おう」
やや緊張して聞いていた湊が後ろ首をさする。
落ちかけの段階で致命傷を与えたというのか。慈悲もない。
山神が眼を眇める。
「むろん服を、ぞ」
「それはよかった」
安堵した湊は手を下ろした。
山神が足元を見やる。そこには、固い固い地面がある。
「ここまで投げ飛ばしてやったぞ。むろん我のおかげで三代目は怪我には至っておらぬ」
「それは……よかったね、うん」
おそらくかすり傷程度はあったと思われる。
にしても、なかなかの衝撃だったろう。
「その時、山神さんは姿を見せたの?」
「いや、忘れておったわ。我もちと慌ててしもうてな」
三代目はさぞかし度肝を抜かれたであろう。九死に一生を得る体験を連続で食らったのではあるまいか。
そのうえ、二度目は誰もいないはずなのに、背後からすくい上げられ、宙を舞う羽目になったのだから。
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