19 ご近所さんとの確執の原因
かくして庭は、狐だらけになった。
クスノキの下、渡り廊下、縁側、池の外周。ことごとく狐で埋まり、「お初にお目にかかります」と声を合わせてあいさつされ、大気がゆれた。
さしもの湊も顔面を引きつらせながらあいさつを返した。
「まさかここまで眷属が多いとは思ってなかったよ」
「いっぱいいる、と以前申したのです」
座卓を挟んだツムギがころころ笑う。
「あの時、数をはっきり言わなかったのは、じかに目にしたら驚いてもらえるだろうと思ったからなのです」
「ほんと驚いたよ」
会話を交わすふたりの周囲にも狐がひしめている。いちおう多少の隙間は確保されているものの、圧はとんでもない。
そのうえ一様に、女性である。艶めく体に、長いまつげをしばたたかせ、見上げてくる女衆にタジタジとなってしまう。
しかも彼女たちは遠慮がなかった。
「あの、湊様。こちらの温泉はとても素晴らしいと、御姉様からお聞きしておりますの!」
「ですのでわたくしたちも、ぜひぜひ堪能したいのですわ」
「お湯をいただいてもよろしくて?」
「あ、はい、どうぞ」
許可するやいなや、露天風呂を前のめりで囲っていた狐たちが飛び込んだ。さらに――。
「あのう、湊様。こちらのいなり寿司と蕎麦いなりも、顎が落ちそうなくらい美味だと御姉様にお聞きしたのですけどっ」
座卓の大皿に尖った鼻を寄せつつ、一匹が言った。
ごくり。同様の体勢をとる狐たちが喉を鳴らす。
「えーと、これは天狐さんへのお土産用でもあったんだけど……」
多めにつくっていたのだが、とてもではないが全員には行き渡らない。
「御姉様、わたくしたちがいただいたらいけませんの?」
うるうると潤ませた数多の眼を向けられるも、ツムギは冷静に答えた。
「蕎麦いなりを五つ残しておけばよいのです」
「さすがですわ、御姉様!」
「御姉様、お優しい!」
称賛しつつ、食らいついた。ブルッといくつもの尻尾が震える。全員が勢いよく振り返った。
「湊様っ、まっことおいしゅうございますわ!」
「ほんっとうに! 舌がとろけちゃいそうですのッ」
「どうもありがとう」
あまり絶賛されるとさすがに照れくさく、後頭部をかいた。
「お腹いっぱい食べとうございまする!」
「完全に同意ですわ!」
まったくもって遠慮のない連中には、から笑いするしかない。
「――ん?」
ふいに逸らしたその目が奇妙な物体を捉えた。
波のように露天風呂へ移動する狐の流れに逆らう一匹がいる。白い狐たちの合間に茶色が見え隠れしている。右へ左へ押し流されつつも、こちらへ向かってきているようだ。
「ぷはっ」
ぴょっこり、白い狐たちの上に茶色い頭部が飛び出した。
「あ、子狐だ」
他の成獣であろう狐に比べて半分以下しかなく、あどけない顔をしている。苦しそうなのを見かねて腕を伸ばすと、手のひらに乗ってきた。
身軽に腕を伝って肩から飛び降り、膝に乗る。
しかと視線が合うと、双眸を細めて笑った。
「はじめましてなんだじょ、ミナト!」
全体的に赤錆色で腹側は白く、耳と四肢は黒い。
太い尻尾の先は白という、典型的なアカギツネカラーの子狐であった。
その配色もさることながら他の狐と少し違って見えた。
「うん、はじめまして。もしかしてキミ、男の子?」
「よくわかりましたね、湊殿。その通りなのです。我が家唯一のおのこなのです」
ツムギが説明すると、子狐は胸を反らす。
「そうだじょ!」
くるりと身を反転させ、背中で寄りかかってきた。非常に人懐こい。
湊はつい、その頭部を包むようになでた。厚みはあれど、幼体特有のふわふわとした毛質で、さわり心地は抜群であった。
「そっか。キミずいぶん甘えん坊さんみたいだね」
「キミではなく、メノウと呼ぶんだじょ。ワレはまだ子どもだから甘えても許されるのだ。ミナト、もっとヨシヨシするんだじょ」
「はいはい、メノウのお望みのままに〜」
子狐に触れられる機会なぞ、まずない。とくと堪能せねばならぬ。
わしゃわしゃと首周りをかくようになでるとキャラキャラ笑い、尻尾も縦横無尽に動き回った。
「おお、びっくりした。狐もこんなに尻尾を振るんだね」
「ええ、まぁ、そういう個体もいますが、その子はとりわけ尻尾に感情が出やすいのです」
ツムギが半眼で子狐を見た。
「メノウ、あまり湊殿に甘えてはいけないのです。己がお邪魔している立場なのを忘れてはならないのです」
「だって御姉様!」
メノウは尻尾を振り回して、不満をあらわにする。
「ミナトはちゃんとワレを見て、構ってくれるんだじょ! 御姉様たちはおろか、あの主を見ても惚れない、こんな人間は貴重なんだじょ!」
「――いまなんて?」
聞き捨てならぬ台詞に、湊は動かし続けていた手を止めた。
メノウは手のひらに頭をこすりつけてくるだけで、話にならない。ツムギを見やると、眼が据わっていた。
「ええ、ほんとなのです。そこは同意するのです」
いかにもうんざりといった態度だ。そのうえ先ほどの眷属たちによる過剰ともいえる防壁を思えば、考えつくのは一つしかなかった。
「天狐さんは異常にモテるってこと?」
「はい、いやになるほどに」
露天風呂で生気を取り戻したツムギであったが、元の煤けた状態に戻ってしまった。苦労してきたことがうかがえた。
ツムギはうつむきがちに言葉を続ける。
「我が神がほんの少しでも出かけようものなら、その姿を見たモノは必ずといっていいほど、恋に落ちてしまうのです」
「それはそれは……。ちなみにモノというのは人のことなの?」
「いえ、人間だけではないのです。神や妖怪、時には野生動物もなのです」
先ほど天狐が湊を『正常』だといってうれしそうにしていたのは、己が惚れなかったからに違いない。
湊的には、神様は次元が違う存在であり、恋情を向ける対象ではない。その前にそんなこと頭にもなかった。
しかし思えば、播磨の先祖は神様と契っているらしいし、世の中いろいろな人間がいて当たり前かとも思った。
その時、開いたままになっていた新たな神域の入り口から轟音とともに山神と天狐の声が聞こえてきた。
「このあばずれが!」
「その不名誉な呼び方、やめい!」
「そも、ぬしが無駄に色気を放つゆえ、惑わされるモノが後をたたぬのであろうが!」
「放ってはおらん。勝手に漏れておるだけじゃ」
土がえぐれる爆音と打撃音がした。
「それになにより、もとはといえばぬしがあらゆる男に気を持たせる態度をとるゆえぞ」
「――最近はかような遊びはとんとしておらんわ」
ややバツが悪そうな言い方であった。
湊は知ってしまった。天狐自身にも大いに問題があったことを。
山神の苛立たしげな声はまだ続く。
「我を巻き込むのはいい加減やめるがよい。ぬしのせいでいかほど迷惑を被ってきたか、思い出すのも腹立たしいわ」
「いやじゃ。ソナタの神域に入り込めば、誰もわらわに手出しできんからのぉ〜」
「この小娘めがッ、我が家を避難所扱いするでないわ!」
唸りを上げる風音を上回る山神の大喝が聞こえたあと、穴が引き絞られて小さくなるにつれ、声も聞こえなくなった。
おそらく山神はあえて天狐との会話を聞かせたのだろう。
静まり返った庭には、クスノキの葉擦れの音だけがしている。しばしの沈黙を破ったのは、ツムギであった。
「――誠に申し訳なく思っているのです」
いたたまれない様子の彼女を、責めるなぞできようはずもない。
「うん、まぁ、あれだよね。モテすぎるというのも大変なんだろうね」
何事もなかったように話題を戻すと、ツムギはホッとしたようで、話に乗ってきた。
「ええ、手段を選ばず我が神を手に入れようとするのです」
「――想像しただけで恐ろしい……」
相手が野生動物や人間ならいざ知らず、神や妖怪となったら厄介なことこの上なかろう。
「もちろんわたくしが、かようなことは天地がひっくり返っても許すはずもないのです」
暗雲を背負うツムギの眼光が光り、湊は上半身を引いた。
ツムギは天狐礼賛が強い。それは〝我が神〟という奇妙な呼び方をすることに関係あるのだが、いまは置いておく。
寒々しさを感じていた湊は、膝上の子狐のぬくもりがありがたかった。
が、その愛らしい子も不敵な笑みを浮かべた。
「御姉様は最強なんだじょ!」
こましゃくれた態度が気に入らず、そのぽっこりお腹をうりうりとなでた。子狐がまたきゃっきゃと転がるなか、湊はしみじみ思う。
「天狐さんは魔性の方だったんだね」
「まったく否定できないのです」
湊は敷地外を見渡した。空は快晴、怪しい影はどこにも見当たらない。
「いま外に誰もいないよね?」
「はい、いまのところ。それにたとえすとーかーがいたとしても、ここをのぞくことはできないのです。山神殿が完璧にしゃっとあうとしてくださっているのですから」
ツムギは穏やかな雰囲気になった。
「そっか」
やはり彼女はそのことを理解して、ここを訪れていたのだ。
ツムギが庭を見渡した。
露天風呂ではしゃぐ眷属たち、大皿に残った五つの蕎麦いなりを嗅ぎまくっている集団、円を描いて大池を泳ぎ、流れるプールにして遊ぶ一団。それらを順繰りに眺め、眼を細めて尻尾をゆらめかせた。
湊は改めて思う。これだけの数の眷属を束ね、天狐の雑事も一手に引き受けているであろう彼女が、ここで心安らかに過ごせるならいいのではないかと。
湊も一様に眺め、小さくなった穴で視線を止める。
途端、そこが広がり、のっそりと大狼が出てきた。
「まったく……無駄に疲れてしもうたではないか」
毛がボサボサで、泥だらけである。そのあとに続けて出てきた天狐も同様に。
「ソナタが無駄に元気になったせいで、時間を食うたではないか」
「ぬかせ、小娘めが」
「もう小娘ではない。わらわは立派な淑女じゃ」
口答えしつつも、どこかすっきりとした様子だ。山神の力量に不満を隠さなかった前回とは、まったく異なっている。
力が増した山神は、天狐と互角に戦えるようになったのだ。
口角を上げる湊の膝で、丸くなった子狐はのんきな寝息を立てた。
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