22 劇的アゲイン


 なんということでしょう。


 カーテンを開けると、庭の片隅に露天風呂ができていました。


 大小様々な石に囲まれ、湛えられた丸い水面からほかほかと白いもやが漂っている。

 まことに開放的な露天風呂である。


 半端に開けたカーテンを握ったまま、しばし湊は無言で立ち尽くした。


「……いやまあ、そりゃあ、驚きはするけど……温泉、だよな……マジか」


 けぶる湯気の向こう、岩に顎を乗せて温泉に浸かっている白い巨躯。遠目からでも目を閉じた山神が、はあ~極楽極楽、とご満悦であろうことが窺えた。


 窓を開け、縁側を下りる。

 早朝の静謐な空気を乱さないよう、静かに石畳の小径をサンダルが進む。


 周囲の芝生の位置が変わり、御池の大きさがやや狭くなっていた。しかし元が広大であり、中にも二匹しかいないため、狭苦しさは感じない。


 途中、御池を覗く。

 まばゆい真珠の輝きを放っている小亀と龍は、水底でおやすみ中のようだ。昨夜も遅くまで呑んでいたから、起きるのは昼近くだろう。


 応龍の住みかは緑豊かな片側とは一転、岩だらけだ。

 ひしめく大岩の隙間に入り込み、ぴったりと収まって寝るのが好きらしい。


 彼らは太鼓橋を境に住み分けている。

 いくら仲良しといえど、線引きはしっかりしていた。


 御池の傍ら、青葉が生い茂る神木クスノキを見上げる。

 すっかり立派な巨木に育ち、湊お手製のしめ縄が巻かれたその逞しい幹は、腕を回しても指先が触れないほど大きくなった。


 頭上の葉のみが、さわさわと控え目にゆれる。

 目線よりはるかに高い枝葉のあいだに、三つの白い体が見えた。

 修行明けの眷属たちが、おのおの好きな場所で寝ている。

 ゆえにその眠りを邪魔しないよう音を立てないのだろう。

 優しい幹に軽く触れて挨拶を返した。


 温泉に近づくほど、ほのかな硫黄臭が鼻をつき、懐かしさに自然と口角が上がった。


 目を閉じた大狼の頭部が乗る岩近くの縁に屈み込み、湯へと手を伸ばす。

 じんわりと骨の髄に沁み入る熱さが心地よい。

 両手を器にして掬えば、とろみのある湯に湯の花が浮かんでいる。


「……本物の温泉、だ……」


 思わず感嘆の呟きがこぼれた。

 プカプカと浮かぶ山神が、わずかに片眼を開く。そのご尊顔たるや、前回同様、至極得意気である。


「とんでもねえ……」


 湊の呆れた声色の中に畏敬と畏怖の念を感じ取った山神が、ふすーっと満足げに鼻息をもらし、喉を鳴らした。


「どうだ、お主も朝風呂にでも入らぬか」

「遠慮なくいただきます」


 山神は湊の一・五倍はある。

 その巨躯が入っていてもなお、十分余裕のある温泉は、湊一人増えたところで狭くもなんともない。

 家の周囲は高い塀で囲まれており、人目も気にせず気兼ねなく入れる。

 いそいそとタオルと着替えを準備してお邪魔した。




 のぼせるまで久々の温泉を満喫した湊は、縁側で伸びていた。

 冷たい床板にうつ伏せになり、べったりと頬をつけて張りついている。


「あ゛ー、幸せ~」

「そうか、そうか」


 山神はのぼせることもなく、早速風呂上がりの芋羊羹を楽しんでいる。

 ゴロゴロと床に懐いていた湊が、ようやく半身を起こした。


「温泉付き一軒家のここってすごい贅沢だよね。元持ち主は社長さんだったらしいから、そうでもない……か?」


 いまだ頭がやや茹だっており、声はぼやけている。


 対面の山神はよりきらびやかになった毛並みを風になびかせながら、山神専用特大湯呑みを前足で挟んで舐めていた。

 熱々よりぬるめ好みのため、やや冷えたほうじ茶は風呂上がりにちょうどいい。


「湯水を贅沢だと思うものなのだな」

「人にとってはね」

「我にしては、さして水と変わらぬものぞ」

「へえ」


 神様にとって温泉は贅沢品ではないと知り、湊も水に口をつける。

 山神が最後の芋羊羹にかぶりつく。できる限り時間をかけて味わいつつ、鋭く裏門を一瞥した。


 しばし間を置き、ガサガサと騒がしい葉擦れ音が鳴る。

 セリとトリカがクスノキの幹を駆け下り、ウツギがぼてっと地面に落ちた。


 突如起こった喧騒に、穏やかな空気を打ち破られた。


 驚いた湊がクスノキを見やる。


「えっ、なにがあったんだ」

「ふん、遅いわ」


 山神の低い叱声に、裏門へと駆けるセリとトリカの速度が上がる。跳ね起きたウツギも合流すべく駆け出した。


 一瞬でかすかに荒れていた気を鎮めた山神が尻尾を振り、立ち上がりかけた湊に告げる。


「また、客のようぞ」

「俺に?」


 頭上に疑問符を浮かべつつ、裏門へと向かう湊の行く手に御池から上がってきた寝ぼけまなこの霊亀と応龍が立ちふさがった。


 二日酔いとは無縁の二柱だが、ふらついていて少しばかり危なっかしい。湊が足を止めた。


「……亀さんと龍さんの知り合い?」


 こくんと二柱は頷く。試しに聞いてみれば、やはりそうらしい。


 ゆうらり、のたのたと先導する彼らについていく。

 裏門の門柱横に佇むテンたちが門外を窺いつつ、幾度も視線を寄越してくる。

 さも何かいいたげだ。疑問に思いながらも客の確認を優先させる。

 二回目ともなれば慣れたものだ。


 今度は一体どんな方が御出なさったのかと心躍らせ、門外を見た。

 門柱の陰に隠れて格子のあいだから片眼を覗かせている。

 一本だけ見えている前足が鱗に覆われた、クリーム色がかった真珠色のモノだ。


 特徴的な龍の頭部から長い髭が垂れている。


「あ、あの時の!」


 いつぞや山で助けた爆速の鹿擬き、麒麟だった。


 やや大きかった声に驚いたのか、ピャッと慌てて隅に隠れてしまった。かすかに見える、震える後ろ足のあいだに尻尾が完全に入っていた。


 なぜか、怯えている。


 下手に声をかければ、また逃げてしまいそうだ。


 困った湊が振り返り、霊亀、応龍へと視線を送る。

 やれやれ、といった風情の二柱が、格子扉を挟んで麒麟と対峙する。おそらく説得している。


 その内容が聞こえているであろう眷属たちだが、ただ黙して湊の足元にひっそりと立っていた。


 ほどなくすると扉前の霊亀が振り返り、セリが湊を見上げる。


「入っていいか、と」

「どうぞ」


 門を開けることなく、スゥとすり抜けて入ってきた。


 彼らはいつでも好き勝手に入れる。

 だがわざわざ許可を伺うのは、山神がいるせいなのだろう。

 風神、雷神に関してはなんとも言いがたい。

 少しでも接すれば、自由気ままな性質だと否応なく理解させられるので。


 さておき、麒麟は、入ってきたものの格子門を真後ろに控えた位置から動こうとしない。

 完全に腰が引けていた。


 怯えきっている。


 湊が恐ろしいのか、それとも人間自体が恐ろしいのか。

 こうまで怖がられてしまえば、なんら疚しいことも、心当たりさえなくても、申し訳ない気持ちになった。


 距離を取ったほうがいいか、と湊が大股で三歩ほど後退する。会話はあいだに眷属を挟むので、問題ないだろう。

 三匹もわかってくれたのかともに下がる。

「よろしく」と小声でささやくと、セリが頼もしく頷いてくれた。


 湊が距離を空ければ、麒麟の震えが止まる。

 そして、キリッと表情を引き締め、四本肢で地を踏みしめた。とはいえ尻尾は後ろ足のあいだに入ったままだ。

 奮い立つその姿は、いっそ健気ですらあった。


「いつぞやは助けていただき、まことにありがとうございました」


 セリを通した感謝の言葉に、へらっと笑って小さく片手を横に振る。刺激しないよう、動きは最小限で。

 声も出さないほうがいいかとの判断である。


「貴方のおかげで再び自我と自由を取り戻せました。ありがとうございました。感謝してもしきれません。このご恩は生涯忘れません。ですのに、礼すら述べず逃げ出すなど無作法極まりなき真似をしてしまい、まことにまことに申し訳ありませ――」


 それからくどくど長々と謝罪と感謝の弁が続く。

 ビビリのわりにおしゃべりなのかもしれない。


 人畜無害に見えるであろう、と本人だけが思っているうすら笑いを浮かべた湊は、かすかに相槌を打ちながら拝聴した。


 五分経過。

 途切れることなく紡がれるセリの声を子守唄に、霊亀と応龍は双方を支え合い、うとうと。その横に姿勢よく立つ麒麟は感動でだろうか、瞳が潤んでいる。


 身体の前で両手を組み、営業スマイル継続中である湊の口元は若干つりかけていた。


 セリのみが生真面目に淡々と通訳を遂行する。


「――あの時、貴方の力が悪しきモノを討ち滅ぼした時、わたくしめは天にも昇る心地でございました。まあ、実際昇ってしまいましたが。年甲斐もなくひどく浮かれてしまいまして、いやはやお恥ずかしい。ですが仕方ないかと思われるのです。それと言いますのも、あの時の衝撃たるや言葉にするには、あまりにも、あまりにも――」


 引き続き、まだまだ終わらない感謝感激雨あられの語句と怒濤の己語り。

 退屈してきたウツギがいつの間にか猫背になっていた湊の脚に凭れかかり、隣のトリカがウツギの背中をつついた。


 さらに、十五分経過。


「――それにしましても、こちらは素敵なお住まいでございますね。居心地よさそうで大層羨ましい。わたくしめ、今、世界を放浪中なもので、根なし草なのですよ。ほら、久方ぶりのシャバでございましょう。なにもかもが変わっておりまして、まるで浦嶋た――」


 終わらぬ。

 湊の顔から愛想笑いが消えていた。


 さらにさらに五分後、ようやく川の流れのごとく流暢に紡がれていた言の葉が――。


「――つきまして、わたくしめからささやかながらお礼として――」


 ようやく締めへと移行した。


 お、そろそろか、と皆気を引き締め、姿勢を正す。

 そして畏まったセリの幼げな声で、爆弾投下。


「貴方を世界の半分を手にできる為政者にして差し上げます」

「お気持ちだけで結構です」


 脊髄反射、真顔で打ち返した。断固拒否の構えである。


 ビクッと激しく震えられたが、こちらも心臓がびくついて瞬時に冷や汗が吹き出した。

 とてもではないが受け取れない恐るべき謝礼に震えまでくる。


 霊亀と応龍の偉大なる力を身を以て知っているからこそ、麒麟の力も疑うべくもない。

 己はとてもではないが、そんな大それた者になれる器ではないと、嫌でも知っている。身に余りすぎる。

 なりたくもなければ、やる気もない。


 誰にとっても不幸でしかない世界の未来が、己の返答次第で決定してしまう。重圧から喉もカラカラに渇く。


「お気持ちだけでほんと、十分なんで。今のままで幸せです。普通の一般人でいたい、ただの一庶民でいい。その他大勢、名もなき村人ぐらいでちょうどいい器の人間です。心の底からお願いします。やめてください」


 気がつけば、わずかに前のめりになりながら必死に言い募っていた。

 ビビリつつも、麒麟が首を傾げる。拒否されるのは想定外だったようだ。


「どうしてですか。人間は土地や資源を奪い合って他種族を食い殺すだけでは飽き足らず、同族同士で殺し合うのも大好きな、浅ましくて残忍な生き物でしょう。権力を握って振りかざせば、お好きなだけ同族の屍の山を築き上げられますよ」


 感情を交えないセリの幼い声が余計に胸にくる。


 否定はできない。

 人類が歩んできた過去も、現在も、それから未来も。いつの世も人間はそれを繰り返しているのだから。


 だが全員が全員そうではない、と強めに反論の声すらあげられず、近づけもせず。ますます焦った。


 そんな湊のみが危機的状況に陥っている場に上空から、二つの忍び笑いが落ちてくる。


「お礼の言葉だけでいいってさ。人には向き不向きがあるさね。その子はそういう欲が薄いんだよ」

「世界を半分モノにしても、幸せとは限らないでしょう」


 笑い交じりの援護があった。

 聞き慣れた声たちに、全身の力が抜け、振り仰ぐ。

 クスノキの上方、風神と雷神が中空に立っていた。


 ただ不思議なことに、その御身は幼児体ではなく、少年の姿だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る