23 一難去ってまた……


 麒麟は二柱の言葉に納得してくれたようだった。

 再度、延々と止めどなく辞去の挨拶を述べに述べて、帰っていった。


 無事、嵐は去ったのだ。


 縁側で鷹揚に並んで座す風神と雷神に向かい、湊が真摯な土下座を披露する。


「本当に助かりました。ありがとうございました」


 彼らのおかげで幸運ならぬ悲運を振り撒かれるところを回避できた。


 命拾いした気分だ。

 さらっと置き土産なぞされたら、たまったものではない。せっかく朝風呂に入ったというのに、大量に冷や汗をかいてしまった。


 通訳を頑張ってくれたセリと浴びるほど水を飲み、失った水分を取り戻し済みである。


 もちろん命の恩神おんじんたちには感謝の言葉のみならず、彼らの好物である日本酒を隙間なく並べた。


 けたけたと愉快げに笑う風神、雷神の杯へ順に並々と日本酒を注いでいく。

 風神が漆塗りの杯をくるりと回せば金箔が舞った。


「災難だったね。向こうはよかれと思っているのがまた」

「まあ、あの子はかつてそれを散々乞い願われてきたからね」

「ひどい怯えようだったんで人間になにかされたのかと思ったんですけど」

「どうだろう。生者ではあの子をどうこうできないからねえ」

「生理的に駄目なんじゃない? 元から人間を嫌ってたし、悪霊に取り込まれたのが決定打になったのかも」


 雷神が杯を傾ける。その変わらない慣れた仕草を見ながら湊が問う。


「ところで、その身体は……」


 つい先日遊びにきた時は三歳児程度だったが、それが今は、七歳前後と思しき見た目になっていた。

 身体は成長しようと、腰布一丁は変わりない。


 いくら庭は常春とはいえ、世間は日ごと冬へと驀進し、冷え込みが厳しくなってきている。

 防寒力底辺の腰布だけでは寒そうで、服を着せてあげたいと思ってしまうのは、致し方ないことだろう。


 寒さなど微塵も感じてなさそうだけれども。


 庭を眺めていた雷神から「温泉、入っていってもいい?」と訊かれ「もちろんです」と即答した。

 是非とも温まっていってほしい。


 杯をあけて一息ついた風神が、肩に担いでいた布袋を下ろした。

 見慣れないその小振りな布袋に手を入れ、ごそごそと音を鳴らして中を探っている。


「僕たちは、本来の姿に戻りつつあるんだよ。君のおかげでね」

「……俺、なにかしました?」

「アタシたちを“る”と認識して敬ってくれてるから、存在が強化されたんだよ。遣える力も増したんだ。ありがとね」


 今や誰も神の存在を信じない。

 感じ取れる人も昔に比べるとごくわずかだ。

 人からの感謝や畏敬の念を得られずとも存在自体は消えないが、御姿を保てなくなるという。


「これ、お礼。いつものお返しもかねて」


 風神が細い棒状の物をつかみ、布袋から一気に引き出す。


 どどんっと現れたのは、巨大メカジキだった。


 特徴的な細長く尖る上顎。澄んだ目玉。銀色に輝く紡錘形の体。釣りたてであろう潮の香りが縁側に広がった。


 湊と両サイドに座るテン三匹が、揃って両目をひん剥く。

 全長三メートルは優に超えており、どう頑張ってもささやかな布袋に入るサイズではない。


 目線より上に浮いた巨大魚の向こうの風神が、にこっと邪気なく笑う。


「血抜きは済ませてあるよ」

「……お気遣い、ありがとうございます」


 どう捌けと。

 おおむね家庭料理はこなせます程度の腕前しかない湊には、荷が重い。魚を下ろした経験はあまりなく、何より三徳包丁では到底太刀打ちできまい。


 ひきつった顔で及び腰の湊に「冗談だよ。見てて」と軽く告げた風神が、メカジキを庭先へと移動させていく。

 浮いた哀れなメカジキと目が合った。いささか気まずげな湊と皆が見守る中、縁側から出た所で止まる。


 風神がかすかに指を動かす。


 スパッと三枚に下ろされた。


 すかさずいくつもの三日月型の風の小刃が、魚肉を切り刻んでいく。

 ものの数秒で、切り身に早変わり。寸分の狂いなく揃ったサイズ。脂が乗り艶めく鋭利な切り口。


 実に美味しそうである。尋常ではない量だが。


 興奮したウツギが湊の腕をつかんで揺すり「湊もアレできる!?」と無垢で残酷な期待の眼差しを向けてくる。


 徒人ただびとに神業をやれとは無茶を仰る。


 なけなしの矜持に突き動かされ「い、いずれ……でき、ればな、と思います」と声を絞り出して曖昧な宣誓をすれば、トリカが「なぜ、丁寧語」とボソッと突っ込んだ。


 できる未来が描けない。いまだ最大風速、扇風機弱程度のそよ風しか出せないので。


 空笑いをしつつ、宙を漂う切り身を大皿で受け取るべく、寝こける山神の傍らを横切り、室内へと戻った。




 たらふく刺身を平らげたテンたちが、膨れた腹を抱えて名残惜しげに自宅の山へと帰っていった。


 これ幸いと湊は、風神に風の力の扱いを見てもらう。風神と天と地の差がある自らの風力は、眷属たちの前で見せるのはさすがにいたたまれなかった。


 横たわる山神の背中にかざした湊の手のひらから、そよそよと吹き出る風で緩やかに長毛がなびく。

 風神が慈悲深い面持ちで頷いた。


「ある程度、加減はできてるね」

「……はい」


 今できる最大の力を込める。

 やや勢いを増した風にあおられた毛が黒い鼻をくすぐり、ぶえっくしょんっと寝起きの山神が派手なくしゃみをかました。


「すみません」

「よいよい」


 寛大に答えたものの、痒そうに前足で鼻を掻いた。

 風の出具合がわかりやすいかと、長い毛を借用した御披露目終了。


 ふんわり、やわらか。ぬるめ。

 それぐらいでしか表現できない微風は、風神の業物と称すべき風とは比較にもならない。


 風神が顎に手をやり、首を捻る。


「随分力を抑えているようだけど、怖いのかな」

「……怖い。怖い……んですかね」

「一度全力を出し切って力の限界を知れば、もっと自由に操れるようになるかもね」

「全力……」

「心の赴くまま、気に入らない奴を吹っ飛ばしてみるとか、どう?」

「そんな人いません……今のところは」


 先のことはわからない。

 ここにいると複雑で煩わしい人間関係に悩まされることなど無きに等しく、いつでも心は凪いで穏やかでいられる。


 波立つこともなく平和で平穏。

 日々ぬるま湯に浸かっているかのごとき、幸福感に包まれている。


 なにせ毎日、常春である。


 そのせいか、せっかくいただいた異能であっても、遣いこなしてやろうという気概も湧かず、それなりでいいかと思っていた。


 だが、いつまでもここにいられるわけではない。

 いつまでもここで、平和ボケしていられるわけでもない。


 いざという時に備え、己の意思で完璧に制御できるようにしておくべきだろう。


 それに、怒りに任せてうっかり風力を暴走させようものなら、周りの被害もさることながら、洒落にならない最悪の事態に追い込まれるかもしれない。


 テレビ、週刊誌、はたまたネットへの流出、拡散。

 今の世の中、いつどこに誰の目があるのかわからない。


 湊が居住まいを正した。


「やってみます。もっと精進します」

「うん、頑張って。気に食わない奴の家を余裕で一刀両断できる程度にはなるんだよ」

「物騒すぎます」


 ほがらかに笑う顔は愛らしくも、中身はなかなかの苛烈さだ。

 湊は若干引いた。

 日本酒を片手に、メカジキの刺身を醤油に浸した雷神が顔を上げた。


「アタシの力も貸そうか?」

「お気持ちだけで結構です!」


 ぶんぶんと頭と両手を必死に振り、全力で拒否する。

 そんな顔色の悪い湊を見て、二柱がケラケラと笑った。


 にぎやかなやり取りの中、お気に入りの巨大座布団に寝そべる山神が、本体である己が山へと顔を向ける。

 遠くの空から広がり始めた灰色雲が陽光を遮り、落ちる影が山全体を覆っていく。


 やがて一雨来そうな空模様へと変わっていた。

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