18 百人力の香り
引き戸を叩いて、蹴りつけて、喚き散らして。
どんどん醜態を晒していく退魔師二人を、天井の隅から眷属三匹が白けた態度で眺めていた。
むろん、姿は隠している。
あえて言うまでもないだろうが、ここは、眷属たちの神域である。
足場のない空中に、夏みかんを持った三匹が並んで浮いていた。
フガフガ。夏みかんに押しつけたその三つの鼻は絶えず鳴っている。ウツギが一番ぺったりくっつけており、その夏みかんは半分むかれていた。
先刻、退魔師たちを包んだ芳香の正体である。
「ひひ香りがひゅる〜」
「だにゃ。こりがあって助かったにゃ」
「あなたたち、声を出す時は鼻を離してからにしなさい」
不明瞭に話すウツギとトリカをセリがたしなめた。
素直に鼻を離した二匹は、眼下を睨みつける。
「ほんと夏みかんがあって助かったよね。なかったら、こいつらの悪臭で我らの鼻曲がってたかもよ」
「だな。湊に感謝しかない」
同意しかないセリも黄色い果実越しに、部屋を駆け回る短躯の男を注視する。
その心臓部――魂を取り巻く黒いうねりが視えた。
セリは三匹の中で、もっとも視覚が優れている。
「小さいほうは、魂から瘴気に似たモノまで出ておりますね」
「そこまで腐っているのか。まだ若いだろうに……。人はここまで堕ちるのか」
トリカが苦々しそうにつぶやく。
セリの視線が流れ、引き戸に体当たりを繰り返す長躯の男に焦点を合わせた。
「こちらは、それなりに霊力があり、鼻も利くようですが……」
セリの視界に映る長躯の男の鼻は、青白く光っている。
特殊能力の光だ。今ではこれを有する人間のほうが珍しい稀なモノだが、この男のそれはくもりガラスをまとうかのごとく、ひどく鈍い。
セリは眼を眇めた。
「――ほとんど鍛えていない。いくら非凡な能力を持って生まれようと、磨かなければ十全の力を発揮できません」
「宝の持ち腐れだよね」
「ええ。このままなら、あの能力はいつか失われてしまうでしょう」
ウツギに応えたセリは、長躯の男から視線を外した。
「ふーん」
「そうか」
ウツギとトリカも、どうでもよさげに夏みかんを嗅いでいる。
彼らは、退魔師どもに興味がない。
先天的な特殊能力を鍛えるか否か、それは本人の自由であろう。
持って生まれたからには、その力を鍛え上げ、活用せよ、などと思っているわけではない。
ただ、長躯の男は悪霊祓いを生業としていながら、その職に必須な霊力、有用な特殊能力をもろくに使いこなせていない。
さほど歳の変わらぬ陰陽師――播磨才賀が己の限界値まで霊力を高めきっているのを知るだけに、失望する気持ちが強かった。
ともあれ、その長躯の男は意外にも諦めが悪いようだ。
朋輩はそうそうにリタイアしたが、拳と肩、膝まで駆使して、引き戸に挑み続けている。
「くっそ! なんで開かねぇんだよ!」
されど、そこは開くどころか、傷一つ付けられない。
どれだけ騒ごうが喚こうが、誰にも聞こえはしない。
今頃、本物の楠木邸では、四霊と神霊は心安らかに過ごしていることであろう。
「我らはすっごい迷惑だけど〜」
不満をこぼしたウツギは、夏みかんの皮をむき出した。
「だな。我も夏みかんを少しだけいただこう」
「ですね。我も」
トリカとセリも皮をはいでいく。
退魔師たちの魂は汚れている。とりわけ、短躯の男がひどく、できることなら、こんな汚いモノは
まだ、神罰はくだしていないのだから。
二人がいかなる行動を起こすか、ただ見ていたが、実に呆れる所業の数々であった。
ともすれば、人間嫌いになりそうだ。
深くため息をついたセリが苦々しくぼやいた。
「――人間全員がろくでもない。なんてことはないのだと、わかってはいるのですが……」
険しい面持ちのウツギも頷く。
「だよね。いちおう知識として知ってるもんね」
「だな。――我らも直接人間と関わり、もっと詳しく知るべきなのか……」
小難しい表情になったトリカは、夏みかんを口に運んだ。
眷属たちはむろん、湊が御山の整備を行い、人々がくるように仕向けようとしているのを承知している。
そのことについて、山神は本当になんとも思っていない。ただ昔の状態に戻るだけだからだ。
が、眷属たちは違う。
居心地のよい我が家は、どう変わってしまうのだろうか。
そんな不安を抱えていた。
眷属たちは山神同様、よその地に関心はなく、積極的に山をおりる気もなく、実際今も楠木邸にしかいかない。
けれども、今のままでよいものか。己らはあまりにも純粋培養ではあるまいか。
「――我らも、たまには出かけましょうか。……もっと見聞を広げるべきかと……」
「だな。いろいろと慣れも必要……だしな」
「で、でもさ。あ、あんな、しばらく動けなくなるくらいクッサイ人間が、いっぱいいる所にいくってこと、だよね!?」
吐き気を催す残飯臭がよみがえり、だらだらと冷や汗を流す三匹は、夏みかんにすがりついた。
すっかりトラウマになってしまったようだ。山神もなかなか意地が悪い。
とはいえ、その洗礼を強制的に受けたことにより、下方で騒ぐ悪臭発生源たちを長時間神域に閉じ込めていても、さほどダメージを負っていない。
それを眷属たちは気づいていなかった。
涙眼のセリがトリカを見やる。
「ま、まぁ、そのことについては、おいおい考えましょう」
「だ、だな。人間らが
「湊、ゆっくりでいいからね……」
本音をこぼしたウツギを責めるモノはいない。
その時突然、眷属たちの頭の中に、山神の声が響いた。
『本日の土産は、ぷりんけーきぞ』
ビシッと三匹が氷結、背後に幻の雷も落ちた。
プリンには、卵と牛乳がふんだんに使用されている。
『湊は出かける前から新鮮みるくと、とれたて卵をた〜ぷり用いたこのけーきに、目をつけておったらしいぞ』
眷属たちがぎりぎりと歯軋りする。
湊は悪くない。何も知らぬゆえ。
『ぷりんは三層になっておる。濃厚なぷりん層、ほろ苦いからめる層、しろっぷをたっぷりのすぽんじ層。やや固めであろうな。そんじょそこらにはない逸品らしいぞ』
その弾む口調はさながら、悪魔のささやきのごとく。
よりにもよって、なぜプリンなんだ。
三匹は夏みかんを額に押し当てた。
一言も応えはなくとも、山神は続ける。
『湊が訊きたがっておる。「大きいプリンケーキ一つと、小瓶に入ってる普通のプリン、どっちがいい?」と』
上目の三匹が、素早く視線を交わした。
面を上げたトリカが、セリとウツギを順に見やる。
「湊がくれる物でまずかったことなんて、一度もないだろう」
真剣に確信を持って告げられ、セリとウツギがぎゅっと夏みかんを抱えた。
「――そうですね」
「うん。いつもおいしい」
なぜなら、高級品ばかりだからだ。
さらにいえば、湊の舌で選ばれたお品ではなく〝売れてます!〟〝この店一番の売れ筋!〟の謳い文句を疑いもせず、ほいほい買ってくるおかげでもある。
偽りのない宣伝文句、買い求めた多くの先人方に感謝すべきであろう。
さておき、どれだけ居場所が離れようと、眷属たちの状態は山神には筒抜けだ。
彼らの悲惨な状況は、手に取るようにわかっていた。
山神も鬼ではない。
激励の意味を込め、素敵な香りをお届けしてしんぜよう。
『ほれ、これがぷりんけーきぞ』
眷属たちの鼻腔にダイレクトアタックをかましたのは、あまぁ〜い香りであった。
バニラの強い芳香に、三匹の顎は自ずとゆるみ、ヨダレが垂れかける。
「
一番鼻が利くトリカが口元を拭いつつ、断言した。
幸せの香りに浸った食いしん坊たちから、悲壮感は消し飛んだ。
表情を引き締めたセリが山神に告げる。
「山神、湊にお伝えください。ぜひぜひ大きいほうをお願いしますと! 我ら一同、とてもとても楽しみにしていますとも……!」
『うむ、伝えよう。――励めよ』
「もちろんです」
「ああ」
「まっかせて〜」
トリカは気配を尖らせ、ウツギは片前足を挙げて応えた。
ふっと嗅覚の共有が切られる。すぐさま立ち上ってくる悪臭が鼻についた。
むぅ。眉間にシワを刻んだウツギが夏みかんにかじりつく。器用に口だけで皮をむいていく。
トリカが鼻をウツギに向ける。
「ウツギ。一気に口に放り込んだら、すぐになくなってやつらの悪臭に耐えられなくなるぞ」
「うん。気をつける」
一房だけ取り出したウツギは首を振り、ムシャアッと半分だけ食い千切った。
「なんで、なんでッ、夏みかんの香りが強くなるでやスかッ!」
部屋の片隅で膝を抱えた悪臭の根源が叫んだ。
が、一向に構わぬ。この香りを否が応でも覚えるがよい。
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