32 ちかごろ出入りが激しい

 


 楠木邸はいつでも清潔、清浄さを維持されている。

 室内のどこにもほこり、塵一つなく、窓にも指紋が付いていることもない。当然ながら庭にもゴミが落ちているはずもない。

 多少落ち葉が散っているのは、致し方ないだろう。


 もちろん管理人たる湊が、毎日清掃に明け暮れているおかげだ。


 まるで、人――自分の痕跡こんせきを消すかのように、早朝から室内外を磨き上げた湊は現在、庭にいた。

 惜しみない陽光を受ける落葉樹たちに水まき中だ。


 滝壺から顔を出した応龍が湊へと向かい水を飛ばす。

 放物線を描いて尾を引くそれを風で巻き上げ、ミスト状にして落葉樹を一本、一本包んでいく。

 落葉樹の緑の濃さが増し、その周囲に小さな虹がかかった。



 湊特有の水まきを終える頃には、そろそろ昼も近くなっていた。

 そう、昨日お世話になった天狐の訪問時間が迫っている。


 ご所望の稲荷寿司と蕎麦稲荷は、掃除前にこしらえてある。

 昨夜、帰宅後に仕込んでいたお揚げは味がしみしみになっていて、天狐とツムギにもお気に召していただけるであろう。


 もしかして、そろってくるのだろうか。

 そう考えながら、湊は風を止めた。

 やるべきことをすべて終え、あとはお客様を待つばかり。


「――手を洗っとくか」


 川へと向かう。もう川で手を洗うことに抵抗を覚えなくなっていた。


 川のふちで膝を折り、手を洗っていると、視界の端を金色がかすめる。そちらへと顔を向ければ、山側の塀――河口部分で数匹の鯉がその身をゆらしていた。


 前にも迷い込んできた、近隣らしい神の眷属たる鯉たちだ。あれからも幾度か訪れており、今や顔馴染みとなっている。


「どうぞー」


 声をかけるやいなや、待ってましたとばかりにわらわらと泳ぎ出てくる。

 湊の手の先で金の鯉が一旦停止し『どうもどうも、お邪魔しますよ』という風に視線を寄越してきた。


 そうして、滝を目指して泳いでいく。

 金鯉のあとに続くのは、すべて稚魚だ。懸命にヒレを動かし、ぞろぞろと流れに逆らっていった。


 彼らは、迷い込んだわけではない。

 滝を制覇するためにやって来ている。ここの滝を修行場としているのだった。

 取り立てて迷惑でもないため、毎回快くお通ししている。


 真っ先に金鯉が滝登りをキメた。その後は、水流に弾かれ続ける稚魚だけが残される。


 心配げな湊が遠目に眺めるその下方で、すぅ〜と音もなく優雅に銀色の鯉が泳いでいく。

 金鯉よりやや小柄な銀色の鯉が太鼓橋をくぐるあたりで、湊はその存在に気づいた。


「もう片方の保護者の方がいるなら心配いらないな」


 銀の鯉は、いつの間にか参加するようになっていた。

 稚魚の最後の一匹が登り切るまで黙して見守るのみで、応龍が手を貸すのをヨシとしない厳しい御方である。


 今日も長い時間をかけて稚魚たちは修行に励むのだろう。

 よその教育方針にとやかく言うつもりもないため、そっとしておく。




 湊が首に掛けていたタオルで手を拭いていると、上流から霊亀が流れに沿って泳いできた。その後続に応龍もいる。霊亀が首を長く伸ばし、竜宮門を差した。


 ちょっくら出かけてくるぞい、の合図だ。


 送り出すべく声をかけようとした時、強烈な視線に背中を刺された。

 なにやつ、とサムライよろしく振り返って確認するまでもない。言わずと知れた麒麟であろう。


 見れば案の定、麒麟だった。

 けれどもそれだけではない。

 麒麟の角の間に、鳳凰が乗っている。二瑞獣も川の瀬にある竜宮門のほうへと顔を向けた。


「まさか、みんなでいくのか……鳥さんも?」


 麒麟が真上を見やりながら告げる。


『たまにはわたくしめと鳳凰殿も参ろうか、となりまして』

『なに、ちょっとした気晴らしだ』


 湊は、いくつもりだとの意思を感じ取った。


「ちょっと、待ってて」


 縁側へと小走りで向かう。

 戻ってきたその手には、四つの木片があった。

 むろん湊が彫った模様が入っており、上部に空いた穴に細いしめ縄が通されている。


 これ一つで十体くらいの悪霊を瞬時に抹殺できる代物だ。


 絶大な威力を誇る御守りである。

 これさえ身に付けて外出してくれるなら、湊の心中もおだやかでいられる。


「向こうがどんな所か知らないけど、これを付けていってよ」


 麒麟の首には、以前渡した物が掛かったままだが、あとどれだけ祓う効果が残っているのか、湊には知りようがない。


 上を向けていた手のひらから、四つの木片が宙に浮き上がる。

 おのおの四霊のもとに飛んでいき、掛かった。

 霊亀は甲羅に。応龍は首に。麒麟の首にも二つ目が重なり、一番小さい御守りは、鳳凰の首へと収まった。



 四霊がそろって湊を見やったあと、動き出す。

 先頭に霊亀、続いて応龍、そして鳳凰を頭に乗っけた麒麟。ドボン、ドボンと川に飛び込んだ。

 最終尾の麒麟が水中を泳ぐのではなく、地を歩くそのままの格好で竜宮門をくぐっていく。

 そんな彼らの光が門の向こうへと消えてしまうと、波打っていた川面も静かになった。 



 それを見納め、湊はクスノキの側へと身体を向ける。

 庭の中央が視界に入った直後、その顔が驚愕に染まった。


「クスノキが、か、枯れてる……!」


 悲壮な声が庭に響く。

 滝口まであとひと泳ぎ……! の位置まで登り詰めていた稚魚がぼちゃっと滝壺に落ちた。

 あえなく失敗、振り出しに戻る。


『やや大きな人声程度で集中を切らすとは情けない……』と銀鯉は呆れている。



 そんなことは露知らず、湊はすぐさまじょうろを取りに走った。


 枯れている、は少し大げさだが、クスノキのたった三枚の若葉がしわしわに干からびていた。そのうえ力なくうなだれ、葉の先が地面に付きそうになっている。


 朝一でたっぷり水をあげた時は、いきいきと濃い緑の葉を躍らせていたというのに。今となっては、葉はおろか周囲の土も干ばつを彷彿とさせるほどにひび割れている。


 クスノキがしおれた葉をカサカサとゆらす。

『申し訳ありません。お手数をおかけして……』としおらしく告げていた。


 湊はじょうろにあふれるほどの神水を汲み、ザバーッと注ぎ口から直接土にまいた。


 三杯目の神水を与えていると、縁側で丸くなって寝ていた山神が眼を覚ます。

 山神のご起床は、数日ぶりになる。

 微動だにせず、豪奢な置き物と化していたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る