16 真実は時に残酷である



 耳をろうする悪霊の断末魔があがる。

 驚いた十和田が肩越しに見たのは、髪の先から四散していく悪霊の姿であった。


 その身にかかっていた重みも、息苦しさも、生臭さも全部消え去った。


 十和田はとっさに、何が起こったのか理解できなかった。

 あのシャチの呪符に匹敵する、否、それ以上の悪霊を祓う速度と威力であった。


 そのうえ、ふんわりと穏やかな風も吹いてくる。

 やわらかく、あたたかな波動。

 それが何かはわからない。

 けれども、胸に熱いモノが込み上げてきて、なぜか涙腺もゆるんだ。



 姿勢を正した十和田が表通りを見やった。

 凶暴な翡翠の光がの〜んびり、ま〜たりと道をゆくが、その色は、彼には認識できていない。


 立ち止まった青年――湊が、手元の雑誌とビルを見比べるところは見えた。

 さも好青年とした容貌で、極めて健康そうだ。陰りのない顔つきから、日々の充実した生活がうかがえる。


 十和田は職業柄、さまざまな分野の逸材と会ってきている。

 ――きっと、青年もそうだ。直感でそう思った。



 ビルの壁面看板を見た湊は、斜め下へ向かって小声で話しかけた。


「武蔵出版社、ここみたいだね」


 そこには誰もいない、何もない。彼の振る舞いは異様だと思うだろう、普通ならば。


 が、悪霊に馴染みのある十和田は、そこに何かいる・・・・のだと悟った。


 青年の様子から悪いモノではあるまい。

 もしかすると――。

 ギシリッと、十和田の視線も思考も固まった。


 強い、強い圧を感じる。背中の産毛が逆立った。

 理解が及ばない畏怖に意図せず、総身も小刻みに震え出した。

 先刻の悪霊の比ではない重圧だ。一番激しく圧を感じるのは、みぞおちあたり。


 十和田の視線がゆっくり落ちた。

 そこには、社員証がぶら下がっている。

 山神はそこに書かれた氏名を注視していた。


「あれ、山神さん、出版社にお邪魔するつもり?」


 聴覚に気を回せない十和田には、湊の声が聞こえなかった。

 ただ、肌がひりつく圧が迫ってくるのをまざまざと感じていた。


 今すぐに、この場から逃げ出したい。

 逃げろ、早く逃げろ!


 そんな脳からの信号を足はことごとく無視し、一歩も動けず、のけ反った十和田の腰が、限界を迎えそうになる。


 その時、大狼が忽然と姿を現した。


 ほんの数歩先に、真白の神獣が佇んでいる。

 十和田の目と口が目一杯開き、その肩からバッグが音高く床へ落ちた。


「ぬしが和菓子の記事を書いておる者か」


 確信を持って問われ、十和田は動揺しまくった。

 意味もなく両手を振り回し、不明瞭な言葉もあわあわともらす。

 さすれば、湊から同情のこもった視線を向けられた。


「山神さん、いきなりすぎるよ。びっくりされてるじゃないか……。どうも、こんにちは」


 普通にあいさつされてしまった。それに神に対して厳しい声で咎めている。


 そんな飄々とした人物にも恐れを抱き、まともに声も出せない十和田は、首が取れかねないほど縦に振るしかできなかった。

 人ならざるモノからの問いの応えと、湊へのあいさつを込めて。


「――山神さん、姿を見せる前に先触れ的なモノを出せないの」


 やや後方に立つ湊が山神の背に向け、非難がましく告げた。小首をかしげた山神が振り仰ぐ。


「ほう、いかように?」

「もっとこう、じわじわ姿を現すとか、神様的な音を鳴らすとか?」

「よかろう。ならば、次からはまず遠吠えを聞かせてやろうぞ。びぶらーとを利かせて、な」

「余計悪い」


 軽く鼻を鳴らし、意気込む大狼に湊は呆れている。


 急に切り替わったゆるい雰囲気に、十和田は気が抜けた。いつの間にか重圧も軽くなったのは、山神の意識が湊へ逸れたからであった。


 十和田は改めて、じっくり大狼を見つめる。

 毎日のように見ているロゴマークと同様の狼の姿だ。

 その白さは目にもまばゆく、金色の眼はまるで太陽のよう。漂ってくる森林の香りは、鼻の通りがよくなるばかりか、心のくもりをも払ってくれるようだ。


 そして、明朗な声で人語も話している。

 すべて社長から聞かされていた通りであった。


 紛れもなく山神様だ。

 社長一族と歴代の和菓子記事担当者が待ちわび、焦がれ続けた山神様が、今、目の前にいる。

 確たる存在感を持って、そこにいる。


 神は、この世にいたのだ。

 信じられない。けれども、反りすぎた腰の痛みが現実だと教えてくれる。

 それに、悪霊が消え去ったのが何よりの証左だ。


 と、彼は盛大に勘違いをしてしまったが、たとえ湊がそれを知ったとしても、気にすることもあるまい。



 大狼からの強い圧がなくなり、十和田は常態を取り戻した。

 それから、もっとも引っかかったことを叫んだ。


「っていうか、山神様! その声、お、男、いや、男神なのか!? しかも、おっさんじゃねぇか!」

「失礼なやつぞ」


 直立した十和田は、言葉も改める。


「い、いや、あ、あの、とっても渋くていいお声でございますねッ!」


 軽く顎を上げて胸を張った山神は、ついでに後光も強める。これぞ神である、とばかりに威光を振りかざした。


「当然よな」

「ああ、山神さんを女神様だと思われてたのか。だから記事が女性の方向けって感じだったんだ」


 疑問が解消された湊は、すっきりしていた。


 一般的に山の神は、女神だとする説が主流である。なおかつ容貌が優れず、嫉妬深いともまことしやかに言い伝えられている。


 いつ頃からか社員一同、その情報を鵜呑みにし、混同していた。

 女人禁制の山も今なお存在する。女性が山に入ると嫉妬で災いをもたらすとの説もあり、それに倣って、山神様担当は男のみで引き継いでいた。



 大狼が十和田に向き直り、その眼光を真っ向から受けた十和田は息をひいた。山神の顔の位置は十和田より低い。

 だというのに、なぜ見下されているように感じるのだろう。

 混乱する十和田に向かい、山神は穏やかな声で告げた。


「我はいつも、和菓子の記事を楽しみにしておる」

「は……」


 十和田は、即座に返事はできなかった。

 読んでいてくれていたというのか、届いていたというのか。自分と歴代の担当者たちの思い、すべてが――。



 ガラスドアに背を張りつけたままの十和田は、感極まって震えている。

 それを見た湊は、ここに立ち寄ってよかったと心底思った。


 十和田の言動から、記事はやはり山神向けだったのだと察している。

 特集記事は、いつでも工夫が凝らされ、かつ華やかで見るだけでも楽しく、つい買いにいってみたくなる魅力満載であった。


 現に湊も、北部の店が紹介されていたら、必ず買いに走ったものだ。

 ようやく山神に会えたのなら、喜びもひとしおであろう。


 ほっこりしている湊を山神が見やった。


「――参ろうぞ」

「え、もういいの?」

「もうここに用はないゆえ」


 目を瞬かせる湊をよそに、山神はあっさり身を翻した。


「ま、待ってください、山神様!」


 十和田の必死な声に、湊だけが視線を送る。


「お願いします、社長に会ってあげてください! ずっとずっと山神様を待っていたんです。社長だけじゃない、俺の前の記事担当者たちも待っていたんです! 今すぐ全員呼んできますから、あともう少しだけここに――」


 その声を遮るように、バタバタと大きな足音が響いた。ロビーの奥の階段を駆け下り、まろぶように中年の男が現れた。


 薄灰色のスーツをまとう、武蔵出版社の現社長である。

 肩で息をつく彼は、神々しい大狼を一心に見つめつつ、よろめきつつ、近寄っていった。

 その表情は、夢みるようでやや危うい。


 そうしてさらに、上階からどやどやと男たちが下りてきた。

 その和菓子特集記事に関わる面々に向かい、十和田が叫んだ。


「山神様は、ずっと記事を読んでいてくださったそうだ!」

「うおー!」


 一斉に吼え、何本もの拳が天井へ向けて突き出された。残響が消えない中、社員一同が山神の前にバタバタとひれ伏し、今度はすすり泣いた。


 今や立っている人間は、湊のみである。

 居心地の悪さを覚え、視線をさまよわせる。すぐそばのマガジンラックに掛かった地方新聞が視界に入った。


〝帰宅途中、行方不明になった二十代女性、四年経ってもいまだ戻らず〟


 その見出しがやけに目についた。

 それから、ガラスドア近くに落ちた紙片にも気づく。拾い上げて裏を返せば、〝悪霊退散〟と書かれてあった。


 これが、自らが作成している護符と同じなのか、湊には判断がつかない。

 表面を指でなでる。


「質が悪いな……」

 ザラついて毛羽立った質感は、普段使いのメモ帳とさほど変わるまい。著しくにじんだ字からも紙と墨、おそらく筆も粗悪品であろう。


 湊が護符作成時に用いる和紙、筆、墨、神水は最高級品である。自ずと目は肥えていた。

 その後、社員一同はまたも叫ぶことになる。

 むろん山神が、威厳に満ちたバリトンボイスを発したからであった。


         ◯


 ――時は、少しばかりさかのぼる。


 山神と湊が不在の楠木邸を護るようにそびえ立つクスノキたちが、強めの風に枝葉をざわめかせた。

 数寄屋門に仁王立ちしたテン三匹が見下ろす短躯の男は、格子戸をゆさぶり続けている。

 後方に突っ立つ長駆の男は、ただそれを傍観していた。


 インターホンを数回鳴らしても、応答がないことに苛立ち、直接玄関扉を叩くつもりのようだ。


「っんだよ、この戸。開かねぇ!」

「鍵掛けてあんだろ」

「たぶん中のヒト、寝てるんでやスよ。もう昼だっつーのにイイご身分っスね。玄関扉ぶっ叩けば、嫌でも起きるっしょ。お!」


 すっと格子戸が開いた。


「なんだ、開いてんじゃん。さっすが田舎、不用心でやスね」


 格子戸はなんの引っかりもなく、音もなく容易に開いていく。


「おっじゃましやスよ〜!」


 陽気に告げた短躯と長駆が数寄屋門をくぐった。

 跳ねる足取りでアプローチを渡った短躯の男が、玄関扉を何度も叩く。


「楠木さーん! おーい、楠木さーん! もう昼っスよー!」


 寝た子も飛び起きる騒音の中、二人の背後でスルスルと格子戸が閉まり、ピタリと閉じた。

 つい今し方まで門の上にいた眷属三匹の姿は、もうそこにない。


 無人の砂利道に散る落ち葉が、風に吹かれて転がる。クスノキたちの樹冠も激しくゆれ、連動して御山の木々もその身を激しくゆすった。

 そのざわめきたちは、敷地内に入った退魔師たちの耳には届かなかった。

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