15 届かない恋文をしたためるように
山神が愛読するのは、武蔵出版社が発行する情報誌のみである。
なぜ、その一誌だけを贔屓するのかというと、武蔵出版社社長の先祖と知己だったからだ。
当時は情報誌ではなく、かわら版の時代であった。
山神はそれなりの頻度で山をおり、町を徘徊していた。
むろん、甘味を求めてである。
その行脚中、追いかけてきて前へ回り込み、土下座して行く手を阻んだ中年男性がいた。
それが、武蔵だ。
たくさんの人や馬が行き交う、土煙の立つ従来のド真ん中での珍事であった。
『
と、武蔵は這いつくばり、額を地にこすりつけ、幾度も大声を張り上げて乞い願った。一言も声を発しない大狼に向かって。
いくら人ならざるモノが認識できる者も多かった時代とはいえ、皆が皆そうではない。
著名人の突然の奇行を目撃してしまった衆人たちは、奇異な目を向け、顔を背けた。
武蔵の幼い一人息子は腕に大怪我を負い、ろくな処置も施されず
医学知識も乏しかった頃では、そう珍しいことでもない。
山神はある要求と引き換えに、子どもを救ってやったのである。
前々から山神は、民草に物申したいことがあり、渡りに船でもあった。
昔からわりと御山に供物を捧げる者がいたのだが、彼らとはまともに会話が成り立たなかった。
厳つい大狼に恐れをなし、山神が求めてもいない酒類・生の穀物などをこっそり捧げられることが常態であった。
それから、
そんなモノ捧げられても、なんの
ゆえに『神は
『我は、甘味が好きぞ。こし餡がことさらよき。季節物も好む』とも付け足しておいたのは、ちょっとした茶目っ気であった。
『必ずや、広く周知します』と約束した武蔵は、それを忠実に守り、かわら版、人伝、あらゆる方法で真実を伝え、数年もすれば生贄が献上されることは、ほぼなくなった。
完全にといかなかったのは、忌まわしき因習を頑なに守ろうとする連中は、いつでもどこにでもいるからだ。
その者らをちょいと深山神域に放り込み『ぬしらが贄となれ』と
武蔵はそれ以外にも、山神が町に現れた時は必ず甘味屋に案内し、惜しみなく
そして、山神が時たまかわら版を見ていると知るや、それに甘味屋の情報を載せるようになった。
情報誌に変わった現在も継続されており『いつでも町にお越しください』との意味が込められている。
その武蔵が興した出版社は、南部の中心に密集するビルの中にある。
数箇月前、ここに社を移したばかりだ。
倍以上幅の違うビルに寄り添い建つその細長い鉄筋コンクリートは、新しいだけが取り柄である。
そのビルの玄関口――両開きのガラス扉に近づく、一人の男があった。
まだ二十代だが、その
男は、武蔵出版社の記者――
取材上がりのその肩には、大型バッグが掛かっている。
十和田は深々とため息をつき、ガラス扉を押し開けた。重さに少々ふらついてしまい、バッグのサイドポケットから先月号の雑誌がこぼれ落ちる。
「あー……しまった」
弾みで開いたページは、和菓子特集記事であった。
十和田は、温度のない目でそれらを眺める。
「――どの菓子も、写真写りがいい。うまそうだ。文だって短い中にしっかり魅力を伝えられてる。さすが、俺。これを見たら絶対いきたくなるし、食べたくなるに決まってる。間違いねぇ……」
途中から尻すぼみになっていった。自画自賛に虚しさを覚えて、乾いた笑い声を立てた。
この男が、和菓子記事の現担当者である。
入社してすぐ、情報誌の創刊号から和菓子特集記事のページが確保されている理由を教えられている。
さらに昔はたびたび山神様は町を訪れ、社長の先祖と酒を酌み交わし、ともに町中の甘味に舌鼓を打ったとも。
その昔話は一度ではなく、何度も聞いている。
現社長が事あるごとに、己が武勇伝のように語るからだ。
自らの目で見たわけでもない、確実な物的証拠も残っていない――実際にあった出来事なのかも怪しいというのに。
けれどもそれを頑なに信じる社長は、情報誌を読んだ山神様は今日くるか、明日くるかと心待ちにしている。
山神は、もう何年も南部に訪れていない。
十和田が和菓子記事担当――別名、山神様担当になった五年前から一回もない。前の担当者の時も、その前も。
山神のみに向けて書かれる記事だけが、量産され続けている。読まれるかもわからない記事だけが――。
「そもそも、山の奥深くに住んでるらしい神様ってのが、どこで地域情報誌を手に入れて読むんだよ。わざわざ毎月献上する物好きがいるとでも?」
小馬鹿にした記者の鼻笑いが玄関ホールに木霊する。
社長の私情に付き合される社員は、たまったものではなかった。
「ったくよぉ、世の中、そんなこし餡の菓子ばっかねぇっての……」
こし餡をいっとう好むらしいため、歴代の担当者たちは常々頭を悩まされてきた。
なお『必ず旬の物を取り入れるべし』との命もあり、四季折々の和菓子をメインに特集を組んでいる。
先月号は久方ぶりに南部中心であったから、普段以上に気合を入れて書いていた。
いつものごとく報われはしなかったけれども。
そう思う十和田の顔は陰りを帯びる。
「ただ気軽に遊びに来てくれたら……それだけでもいいんだ。容姿が優れないのなんか、気にする必要ないだろうに。――狼なんだし」
代々の担当者のみに伝わる情報である。
「
社のロゴマークである狼の姿なのも、耳にタコができるほど聞かされている。
「かなり厳つい……いや……だいぶ
お世辞は不得手な十和田の目が泳ぐ。振り切るように早口でまくし立てた。
「山神様の好きそうな物ばっかり選んで、山神様のためだけに! の気持ちを込めまくって毎回書いてるんだぜ。嫉妬深いらしいからな」
そう伝わっており、歴代の記者たる
自分たちはまるで、届かない、読まれもしない恋文を出し続けているようだと、ひたすら虚しさを感じていた。
「――これだけ長年やっても、全然来てくれもしない山神様とやらはつれない方だよ、ほんと……」
日頃の不満を盛大にこぼし、緩慢に手を伸ばして床の雑誌を拾おうとしたら――。
「うッ」
その丸まった背中に重みが加わって、よろけた。
「くっそ、まだいやがったのか……ッ」
悪態をつくその声は消え入りそうで、かつ震えている。
ふふっ。おぞましい嗤い声とともに、耳に生臭い息がかかり、十和田はどっと冷や汗を流した。
その身には、おどろの髪を垂らす女の悪霊がしがみついている。
俺から離れろ! 消え失せろ!
そう力の限り叫びたい。――だが、できない。
奥の扉を隔て、人の話し声がしている。
その者たちだけではない、他に社員も大勢いる職場で
「ぐっ」
それに、悪霊の両手で首を絞め上げられ、物理的にも不可能であった。
十和田は、非常に憑かれやすい体質をしている。
日々至る所で
このビルはまだ新しいが、内装はくすみ、空気のよどみも著しい。
もともと周囲のビルのほうが背が高く、日照条件が悪いせいもあるが、ここは悪霊が溜まりやすい土地であった。
十和田はここに社を移すと聞いた時、反対したが聞き入れてもらえなかった。
数日前からこのビルに現れるようになった女幽霊は、かなりタチが悪かった。今日もできるだけ取材時間を引き伸ばしたが、無駄であった。
まだここに留まっていたようだ。
十和田は、息も絶え絶えになりながら思う。
――山神様は、ただ遊びに来てくれたらいい。
そんな純粋な思いばかりで記事を書いているなんて、噓だ。綺麗事だ。
山神様には、ぜひとも悪霊を祓っていただきたい。
神が町を練り歩けば、ここ最近、妙に悪霊が増えてきた南部全体も綺麗になるはずだ。
甘味を求めに来たついででいい。ほんのちょっと、ここにも足を延ばしてくれるだけでいいから――。
呼吸が危うくなった十和田は、つれない、応えてくれない山神にすがりたくなる。けれども――。
「――知ってるっての。願ったところで来てくれやしねぇのは……」
今まで何度も願った。
山神にだけではない、あらゆる神や仏にも、他国の神にさえも。
そのモノたちに救ってもらったことがあったか。奇跡が起きたことが一度でもあったか。
ありはしない、身をもって知っている。数え切れないほど、絶望を味わってきた。
十和田は脂汗を垂らしつつ、情報誌を手放した。
それから、覚束ない手で懐を探る。
「わかってんだよっ。この世に神も仏もいねぇのもな!」
つかんだ紙片を自らの背中に叩きつけた。
〝悪霊退散〟とかろうじて読める和紙の付いた背から悪霊が離れた。
やや軽くなって、息もしやすくなった。
――
安堵しかけた十和田をあざ笑うように、重みが増した。
またぞろ、のしかかった悪霊が瘴気を吹き出しながら、その手で記者の首を絞め、その脚で胴を絞め、その長い髪で虚空へ伸ばされた腕を絡み取った。
十和田は屈んだ姿勢になりながらも、悪態をついた。
「ッくっそ、なんだよこの呪符! バカ高かったクセに、全然効果ねぇじゃねぇかッ!」
苛立たしくて仕方がない。
たった一枚で二万円以上もしたというのに、悪霊一体すら祓えぬなど、お粗末にもほどがある。
『コレさえあれば、悪霊なんかすーぐどっかいっちまいやスよ!』
そう言って販売していた若い退魔師が憎らしい。
凄まじい効果を発揮する呪符を知っているだけに、苛立しさは倍増した。
それは三年前、友人にもらった物であった。
旅行に赴いた彼が、行き会った流れの退魔師から良心的な価格で購入したという。
達筆な字と二体のシャチが描かれたそれを使用したら、瞬く間に取り囲む悪霊を一掃してくれたものだ。
海の
だが効果は永久ではない。
数回も使うと祓えなくなってしまった。
なんとしてでもその呪符を手に入れるべく友人に訊いたら、パナマ帽をかぶった、今時珍しい和装の男であったという。
その退魔師を探し回ったけれども、ついぞ見つけられなかった。
あのシャチの呪符さえあれば、一体の悪霊ごときに苦しめられることはなかっただろう。
歯軋りする十和田の片膝が、床についた。
その瞬間、奇跡が起きた。
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