5 彼方より来訪
すっかり景観が変わってしまったとはいえ、庭木の水やりは必須である。
湊は、手っ取り早く滝の水を風で巻き込み、庭にまこうとじょうろを縁側の脇に置いた。
その時、急に視界が陰った。
周囲を見やれば、庭の半分以上に影が落ちている。
まさか急激に雨雲でも発生したのだろうか。先ほどまで薄い雲が広がる晴天だったというのに。
怪訝そうに湊が空を仰ぐ。
楠木邸の上空に、巨大な何モノかが浮かんでいた。
敷地を完全に覆い尽くしてあまりあるほど、ながぁ〜い蛇腹だった。
波打って全体がうごめいており、全体像はまるでつかめない。
湊は言葉を失った。
おそらく、龍だ。
応龍と似ている。ただ色は異なっていた。
その身は、
またも、紛れもない神が訪れた。
肌がひりつくほどの神気も感じる。
湊は素早く視線を縁側へと投げた。
横倒しになった山神は、四肢を投げ出し、ぷわぷわと鼻提灯まで出している。健やかにおやすみ中である。
新たな神も、まったく警戒はいらないらしいと頭の片隅で思う。
しばらくうねうねと上空で蛇腹が
ぬぅと徐々に迫ってくる二本角を有する頭部。
鼻も口も何もかもが果てしなくデカイ。
その巨大な口なら、湊一人どころが、複数人まとめても余裕で丸呑みできるだろう。
いきなり喰らいつかれはしないであろうが、どうしたって身がすくんだ。
そこに、背後から羽ばたき音が聞こえ、応龍が傍らに飛んできた。
応龍も湊がわかりやすいよう、意図的に音を出している。
「龍さんの知り合いの方?」
応龍が頷くと、上空の巨大な頭部も浅く頷く。
同時、強めの風が吹き下ろしてきて、湊の髪と服があおられる。龍神がほんのわずかに動いただけで風が起こった。
もし力の限り咆哮でもされようものなら、周囲にどんな影響が出るものか。
湊はふいに気づく。
応龍と霊亀の声は、耳にしたことはないなと。
麒麟、鳳凰と同じくダミ声だとすれば、龍神も同じ可能性もある。
ならば、楠木邸はおろか、御山も甚大な被害を受けるに違いない。想像しただけで、血の気が引く。
そんな思考を高速でめぐらせていると、屋根よりやや高い位置の龍神がわずかにあぎとを開いた。
たったそれだけで、ビリビリと衝撃波がくる。
湊が両腕で顔面をかばい、足を広げて重心を下げた。
龍神は何事か話そうとされたのかもしれない。なれど、とてもではないが、まともに相対できない。
身動きすらままならない湊の頭上で、頭部が静かに引いていく。
たちまち重苦しい神気も遠ざかる。
息をついた湊がふらつきながらも、体勢を立て直した。
傍らで応龍が羽音を立てる。
湊が視線を向けると、パチっと両眼を閉じた。
数秒無言で見つめ合う。そして再度閉ざしてみせられた。
意味を汲み取れず、問いかけるように名を呼ぶ。
「龍さん?」
次の瞬間、カッと上空で閃光が弾けた。視界が白く灼けるほどのまばゆさだった。
「ぅおっ、目を閉じろって意味だったのか……ごめん、気づけなかった。にしても神様方、ほんと目に優しくない」
両目を覆いながら嘆いた。
圧を伴う光が収まったのを見計らい、目を開ける。
すると、屋根のあたりに、とぐろを巻いた小さな龍神が浮いていた。一瞬のうちに縮んでしまったようで、応龍と同程度くらいになっていた。背中に羽はないようだ。
しかし龍神は降りてはこない。中空に留まっている。
おそらく屋根のあたりが神域と
謙虚な方のようである。
さすが、龍さんの知り合いの方だなと湊は感心した。
ぬっと龍神が鎌首をもたげた。
今度は、風は起こらなかった。無言でじっと見下ろしてくる。何か語りかけられているかもしれないが、その声は聞こえない。
だが今までの経験からすぐに知れる。湊の許可を待っているのだと。
「どうぞ、お入りください」
神妙に告げれば、音もなく蛇行して降りてくる。
そばまでくると、前足を軽く振り、瞬時に箱を出現させた。綺麗に包装された菓子箱と思われる。
気軽になされる御業だが、今さら驚きもしない。
いい加減慣れもする。前触れも期待しないほうが自らのためでもある。
すっと目前に箱を差し出された。自らの身より大きな箱を余裕でつかむその鋭き爪は四本だ。
「ありがとうございます」
わざわざ手土産を持参し、訪問してくるとは妙に人間じみた龍神である。
神からの施しでもあろうから、遠慮せずに受け取った。
断れば、怒りを買う恐れもないとはいえまい。
いくら応龍の知り合いといえど、基本的に神には人間の常識も都合も通用しないと湊は思っている。
自由奔放な神々と関わってきた経験から学んでいた。
湊が恭しく受け取る。箱は一般的なサイズながらも、ずっしりとした重みが両手にかかった。
たいそう気持ちのこもったお品のようだ。
ありがたいが、中身は菓子だけなのだろうか。
一抹の疑問を感じる間も、さらに箱を重ね置かれた。これまた、上等な包装紙が巻かれた大振りな箱で、最初の時以上の重さである。
こちらは厚み的に菓子ではなく、陶磁器でも入っていそうだ。
そうして、次々に出てくる、出てくる土産の数々。
どんどこ積まれたさまざまな大きさの箱は、今や湊の鼻先を超えてしまった。
されど龍神は、まだまだどこからともなく取り出した箱をせっせと積み上げていく。
「あの、大変ありがたいのですが、もうこれ以上は……」
細かく震える箱タワー越しに湊の焦り声がし、龍神の動きが止まった。
龍神は不思議そうに瞬く。
湊の傍ら、ずっと呆れた様子で眺めていた応龍が軽くため息をついた。
龍神は応龍と会うのは久しぶりのようだった。
ぜひとも旧交を温めるべく一席設け、惜しみなく酒を振る舞った。さして時間もかからないうちに、ワイングラスを抱えた二龍が宙を漂いはじめた。
さも品行方正そうな龍神であったが、応龍と同類らしく、酒癖も悪いようだった。
空が鈍色に染まりはじめた頃。
たらふくワインを呑んだ龍神は、ご機嫌に
その御身が薄い雲の狭間に消えゆくまで見送り、湊は縁側に戻る。
そうして、いただいた箱をややこわごわと開けてみた。中には、満月のように丸い菓子が整然と並んでいた。
蓮の花があしらわれた、
甘い餡がぎっしりと入っているのだろう。箱を開けた瞬間、甘く香ばしい香りがあたりに広がった。
いつもであれば、甘味が大好きな誰かさんが巻き起こす強風が吹く庭には、今はただ滝が流れ落ちる音のみ。
湊が静かに面を上げた。
座布団で小柄な狼が丸くなって寝ている。淡い光を放つその身は、微動だにしない。
いつも真っ先にその優秀な鼻で甘味を嗅ぎ分け、そわそわと落ち着きをなくすというのに。
鼻も、ヒゲも、耳も、尾も。何も動きはしない。
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