4 子狼がごとく

 


 どうどうと流れ落ちる滝を力強く金鯉が登っていく。

 ほぼ垂直の岩肌を物ともせず、水流、重力に逆らうダイナミックな泳ぎ。


 湊は謎の感動を覚えた。

 まさかこの目でお目にかかれる日がくるとは。


「鯉って本当に滝登りできるんだ……」

「神の眷属ゆえぞ」

「……だよね」


 通常の鯉にそれを期待するのはいささか酷であろう。

 いつの間にか、滝壺から上がった応龍が滝横の大岩の上に座っていた。

 登りきった金鯉が滝口の向こうに消えていくのを眺め、首肯している。妙に満足げなのは気のせいか。


 我先にとあとに続く鯉たちは、金鯉に比べてやや小柄だ。泳力えいりょくも劣るようで、そこそこ必死な様子ながらも滝を制覇せいはしていった。


 そうして残されたのは、小さな鯉たち。

 おそらく稚魚だ。金鯉の半分にも満たない幼い魚体が果敢かかんに滝に挑む。


 が、呆気なく水流に押し流されてしまう。

 何匹も、何匹も、バシャバシャと滝壺に落ちていく。誰しもが半分も登れない。


 そんな稚魚たちを眺めていた応龍が両の羽を大きく広げた。

 水中の鯉たちが場所をあける。

 応龍が羽を畳み、その中心――滝壺目がけて飛び込む。


 そして軽やかに、優雅に、かつ滑らかに。

 身をくねらせながら水流に逆らい、滝を登っていく。


 応龍選手、異次元の演技を見せつける。

 それを稚魚たちが羨望せんぼうの眼差しで見上げていた。


「そういえば、滝を無事に登りきった鯉は、龍になるって伝説があったような……」

「ありえぬ」


 湊のうっすら抱いた期待は、山の神によってズバッと一刀両断された。


「そうなんだ……。ちょっと残念」


 どうしても登れなかった数匹を、応龍は背中に乗せて登ってあげたようだ。苦戦しながらも、ようやくすべての鯉はお帰りになった。


 ひと仕事を終えた応龍が、やれやれと滝壺に飛び込んだ。

 喧騒の去った神庭には、滝の流れ落ちる音だけが響いた。



 うつむきがちで何かを思案していた山神が、うむとつぶやく。


「意図せず、ここに迷い込んでしまうモノどもも、さぞかし困ろうな」

「確かに。じゃあ、川の流れを止める?」

「それはならぬ!」


 カッと両眼を見開き、活の入った声で言い放たれた。

 驚いた湊が半身を引く。


「すごい、力入ってる。ほんと、庭のこだわりが強いよね」

「当然よ」


 山神は青空へと向き合い、ふすっと鼻息を吹き出した。尊大な態度なれど、小狼姿なら、ただただ微笑ましいだけだ。

 精一杯、威厳を示そうと頑張っているようにしか見えない。


「断じて、停滞はならぬものぞ」

「別に今まで通り、湧き水が出ているなら問題ないのでは?」

「ならぬ。断じてならぬ。ただ見た目がちと変わったのみの侘びしい庭の改装なぞ、我は許容できぬ」

「まったく侘びしいとは思えないけど。池が川になって、さらに滝までできるなんて、とんでもないことだよ」


 本来なら、それなりの費用もかかる。しかも、庭木たちになんの影響も出ないのだから。

 いっとき無言だった山神が、大きく頷く。


「うむ、ならば、迷い込むモノを防ぐよう、対処させるか」

「誰に?」

「むろん我が眷属よ」


 言いざま、喉を反らした山神が高らかに吠えた。


 ――きゃーーーーんっ!


 異様にかわいらしい声は、まるで子犬のようだった。

 よそを向いていた湊が、あ然と足元へと視線を落とす。

 得意げな面持ちの小狼を見るに、今の声は紛れもなくその喉から発せられたのだと知った。


「そんなかわいい声、出せたんだ……」


 小さなしっぽがバサリと振れる。


「鳳凰のがすべての鳥の鳴き声が出せるように、我も子狼の鳴き真似ごとき朝飯前ぞ」

「なんで鳥さんにそんな対抗心を燃やしてるんだ……。というか、今の体では高くしか鳴けないとか?」

「……左様」

「その見た目には合ってると思うよ」


 やや悔しそうで、湊は笑うしかなかった。

 そんなやり取りをしていると、前方の風がかすかに動く。湊がそちら――山側を見やる。


 塀の上に、ちょっこりと一匹のテンが座っていた。

 ほんの数秒前にはいなかったのは間違いない。まさに風のように現れた。


 山神の眷属たるウツギがととと、と塀の上を軽快に駆けて、近くまで寄ってきた。


「やっほ~、湊〜」

「やあ、ウツギ」


 基本的に自宅御山の警護を担う眷属と会うのは、ややひさびさになる。

 といっても、一週間程度だ。

 眷属たちが遊びに来たり、湊が御山にいったりして、わりと頻繁に会っている。


 ウツギは湊の真正面の位置までくると、塀に座った。

 今度は裏門近くの塀に、二匹のテンがよじ登ってくる。

 連なって足音も立てず前を歩くのが、セリ。その後方に続くのは、トリカ。


 ウツギの横で止まったセリとトリカも、庭を向いて座った。

 同じ外見をした白きテンが三匹並んだ。

 塀の向こう側に長く垂れる、もっふもふの尾の先端に入った色だけが異なっている。


 ぺこりとセリとトリカが会釈した。


「少し、お久しぶりですね。湊」

「元気そうだな。いや、わかってはいたが」


 うん、と答えつつ湊は苦笑した。

 眷属たちは山神が御霊を分けて創った存在のため、山神と以心伝心ができる。

 ゆえに、楠木邸の庭に居座る山神と何かと交信し、湊の状態も暮らしぶりも知っている。


 にこやかに湊とあいさつを交わした三匹は、急にその様子を変えた。

 キリキリとまなじりを吊り上げるその背後に暗雲が立ち込め、ゴロゴロと雷鳴まで起こる幻まで発生している。豹変という言葉が似つかわしい変わり具合だった。


 怒り心頭のようだ。

 セリが感情を抑えた声で、口火を切った。


「山神、力は遣いすぎないようにと、幾度も申し上げたはずです」

「調子に乗るなと何度も何度も言っただろう。遣いすぎるから、そんな小さな情けない姿にまで縮んでしまうんだぞ」

「……そうだよ。我らよりちっちゃいなんて……見てらんないよ」


 トリカは呆れ果て、ウツギは嘆いた。

 だが、このメンバーの中で一番の小粒は、ふんぞり返って反省の色なぞ、爪の先ほどもない。


「庭の改装は我の趣味であり、ひいてはお前たちの趣味でもあろう」


 ぐぬぬ、と三匹は顔をゆがめる。

 事実ゆえ、反論はできない。

 もとは一つであり、誰よりも山神のことが理解できる。それを裏付けるかのごとく、庭を一瞥した三匹は、いたく満足げな様子をみせた。


 浅くため息をついたセリの雰囲気が和らいだ。


「――それで、我らに何用ですか」

「うむ、お前たちに試練を与えよう」


 その言葉を聞くやいなや、三匹の顔つきが一変し、きちっと姿勢まで正した。


 ほう、と湊は内心でつぶやく。

 いやに緊張感が漂う空気が流れるせいで、口には出せなかった。


 ただ交信すれば済む話であろうに、わざわざ呼び付けて直接伝えるらしい。

 こんな場面に出くわしたのは、初めてだ。

 成り行きを見守るべく、片足に重心を預けてリラックスモードに入った。


 その傍ら、太鼓橋の中央、欄干のはるか下で、真面目くさった顔つきの小狼が鎮座している。


「神水の流れに乗り、ここに迷い込むモノが出てきおった」

「……こちらに流れ着いていたのですね」

「泳ぎも早かったし、集団だったからな。声をかけづらかったんだ」

「みんな、だいぶ焦ってる感じだったよね〜」

「左様。しばらくすれば落ち着くであろうが、この近隣に馴染みのないモノであれば、なおさら迷い込みやすかろう。しばらくの間、警備を強化せよ」

「……わかりました」

御意ぎょい

「わかった!」


 返事をした次の瞬間、眷属たちの姿はかき消えていた。湊が目をむく。


「びっくりした。あんなに疾く移動できるようになったんだね」

「うむ、ずいぶんと早うなりおったわ。近頃とみに、速度を上げることに専念しておったゆえ。麒麟に対して、妙に対抗意識を持っておるようでな」

「麒麟さんは異様に疾いからね。でも、もうほとんど変わらないくらい疾くなってると思うけど」


 湊が話している最中、山神がくわっと大あくびを一つ。その眼もとろんとしている。


「眠そうだね」

「……うむ」


 縁側へと向かって歩み出したその足取りは、いつも以上にのろい。

 あげく、飛び石の境目で、のたた、とよろける始末。

 その後ろを歩む湊はハラハラし通しだ。抱えて連れていくべきかと迷うその両手が宙を彷徨さまよう。


 小狼は、ようよう縁側のそば近くまでたどりついたものの、見上げた体勢で止まってしまった。

 いつもの華麗なるひとっ飛びをためらっているらしい。


 湊は何も言わず、背後から山神を抱え上げる。

 そっと座布団に降ろすと、くるりと丸くなった。

 すぐに目を閉じて、すぴすぴ鼻を鳴らしはじめる。本格的に睡眠に入ってしまった。


 山神は御業を行使したあと、必ず長く眠る。


 今回は、身が透けるほどだったため、しばらくの間、眠りっぱなしになるかもしれない。


「……ごゆっくりどうぞ」


 湊は極力足音を立てないよう、その場を離れた。

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