8 酔っぱらい山神、大・暴・走





「いきたいとは思わないよ。伝承通りならそのあとが怖いからね。――ただ気にはなる。画面越しなら見てみたいかもしれない。ちょっとのぞきっぽいけど」

「秘されるとのぞきたくなるのは、人間のサガなのじゃ」


 カエンはやけに重々しく告げた。


「確かにそれは否定できないかもね」


〝見るなのタブー〟と称される、世界各地の神話や民話での例もあることだ。


「人はたいがい見たらダメだと言われたら、余計に見たくなるみたいだしね」


 湊は他人事のように言った。実際見るなと釘を刺されたら、決して見ないからだ。


「まぁ、竜宮門とか竜宮城とかは、一度も見るなとは言われてないけど」


 誰もまったく触れようとしないというのが正解である。

 軽く笑った湊は、川を見やった。

 おだやかなその流れの下に、存在感がありすぎる竜宮門が鎮座しているのを今朝も見た。

 しかしその門の出入り口は極めて小さい。

 到底湊では通り抜けられない……はずである。

 そこから己より体格のいいスサノオが難なく出入りしているが、深く考えないことにしている。


 湊が視線を戻した時、おもむろに大狼が身を起こした。

 その頭は激しくぐらつき、眼も据わっている。


「珍しいね、山神さん。だいぶ酔ってるよね?」


 山神は普段ほとんど酒を呑まない。たとえ呑んだとしても嗜む程度で、ほろ酔いになったところさえ見たことはなかった。

 驚きに目を見開く湊の後方で、テン三匹が落ちつきをなくした。


「湊、まずいかもしれません……!」


 セリはやけに焦っている。


「なにが?」


 不思議そうに湊が問うた時、ゆらりと山神は前足を踏み出した。


「――許せぬ、断じて許せぬ……。我の庭がよそに劣るなど……あってはならぬ……」


 ぶつぶつとつぶやくその声は、いやに縁側に響き、瞬時にして陽気な酒宴の空気は吹き飛んだ。

 山神が縁側を行ったり来たりしはじめた。その巨軀が放つ神気のあまりの濃密さに、誰も声を出せない。

 千鳥足ながらも器用に酒瓶や盃を避け、湊をはじめとする全員がさっと身をかわしてよける。その前を山神が悠々と闊歩し、縁側の端から端まで余すことなく歩き回ったあげく、中央で止まった。

 ゆっくり、じっくりと庭を見渡す。


 夕焼けの赤に染まる景観は、春に池から川へと変更して以来、手水鉢が増えたくらいで、さして変化していない。

 それは大掛かりな改装を湊が望まないからだ。

 山神がふたたび弱ってしまうのを避けたいからだ。

 その意を汲んで山神も大人しくしていた。

 ――いままでは。


 人間にしろ、神にしろ、酔っぱらってしまえば、理性を保つのはひどく難しいものである。


「正直、我もこの景色に飽いておったわ……ヒック」


 しゃっくりを一つかますや、山神の毛が逆立った。

 キンッと空間の裂けるような音が庭中に響き渡る。大狼を中心に、さざなみのごとく神気の波が広がり、湊、眷属たち、四霊が仰け反った。

 かつて感じたことがない圧力を受け、湊の背中を冷や汗が伝う。

 いまのいままでこれほどの力を隠していたというのか。それとも、山の整備をしたことによる効果の表れなのか。

 ――後者であればいい。

 思う湊は縁側に伏せたくなる身に抗いつつ、山神を一心に見つめ続ける。


 そうして圧倒的な力を誇示した大狼は、庭の端を見た。


「もう滝はよかろう」


 その言葉が終わらないうちに、壁から直接噴出していた水が途絶える。ズズッと音を立て、滝の両脇にあった岩も壁に埋まった。筧の水も止まり、まったく水の音がしなくなった。

 誰も身動きしないから余計に静けさが際立った。

 山神が立てる音と、重低音のその声だけが木霊する。


「――うむ。やはり、川より池ぞ。だが、元のひょうたんの形に戻すのも芸がなかろう。――大きく広げてくれようぞ」


 川を囲う岩もろとも縦に引き伸ばされたように広がっていく。

 が、庭の中央にはクスノキが生えている。

 岩と水が迫るも、クスノキはただ枝先を動かすだけで、その場に立ったままだ。木ゆえ当然である。動物のように逃げ出せるはずもない。

 それを目の当たりにし、湊は気を揉んだ。山神にひと言物を申すべきか。

 悩んだその一瞬の隙をついて、岩がクスノキの一帯を丸く囲う。水の範囲だけがどんどん広がり、やがて湖のごとき大きな池になった。波打つ水は縁側の間近にまできている。

 楚々と生えていた低木も壁沿いへ、小径をなしていた石も池沿いへ移動を終えた。


「――ぬぅ、こんなものか」


 頭をふらつかせる山神が一歩踏み出し、思わず湊は単音を発した。


「あっ」


 すってんころりん。酔っぱらいが縁側から転がり落ちる悲劇を想像したからだ。

 しかし、そうはならなかった。

 山神の体勢は変わっておらず、その前足にみなの視線が集中する。

 板だ。いままでなかった一枚の板が、そこにある。

 縁側の床板の材質や色も寸分違わず、むろん山神が歩むのに支障のない横幅があった。


 山神はさらに一歩進む。その前足が下りる寸前、滲むように新たな板が現れ、足場となった。

 力強く二枚の板を踏みしめ、そのゆるぎなさを確かめると、豊かな尾を振った。

 そして行進スタート。ルンルンと形容したくなる足取りに合わせ、次々と出現する板が道をつくった。

 その摩訶不思議な光景を、ギャラリーはただ眺めているだけであった。とはいえ、四霊は常態に戻っている。


『そろそろ派手に庭をいじるだろうと思うておったが、まさかこうくるとはの。予想外ぞい』


 半眼を弓なりにした霊亀は、盃に顔を突っ込んだ。


『山神殿はかなり我慢しておられましたからね。まぁ、力も安定しているようですし、さしたる問題はないでしょう』


 訳知り顔の麒麟がビールに舌を浸した。


『さて、いかように変わるのやら』


 お手並み拝見と言わんばかりに応龍が宣う。その手で静かに回すワイングラスの内側で、葡萄色の液体が波打った。

 無言の鳳凰はといえば、芋焼酎の入った陶器グラスの周囲を忙しなくうろついている。その眼は爛々と輝き、いまにも羽ばたいていきそうな勢いで翼を動かす。


『鳳凰の。気になってしょうがないかもしれんが、いまは絶対に庭に出てはならんぞい』


 やや厳しく霊亀に忠告され、うむとつぶやいた鳳凰は翼を閉じた。が、まだステップを踏んでいる。


『霊亀殿のおっしゃる通りですよ、鳳凰殿。その身をどこかへ飛ばされたくなければ、大人しくしておくべきです』


 麒麟が言うやいなや、ピタッと鳳凰は動かなくなった。

 それはいいが、湊は不穏な内容が気になった。


「――麒麟さん、いまのどういう意味?」

『おや、聴こえておりましたか』


 からかう言い方をするその声は、いたく渋い。激シブである。山神に匹敵するおっさん――壮年男性の声だ。

 麒麟は甲高い、女性めいた声をしているのではないかと湊は想像していたのだが、まったく違った。

 なお霊亀は、その動きと佇まいに似合いの、ゆったりとした翁の声。応龍も鳳凰と同じく若い、少しばかり神経質そうな青年の声である。

 それはさておき、おしゃべり好きな麒麟の声に耳を傾けよう。



――――――


200話のお祝いの言葉をくださった方々、まことにありがとうございます!


これからもまだまだ続くこの物語に、末永ーくお付き合いいただけると幸いです!

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