2 まだまだお若いようで






「ああ、ツムギのストーカーくんか」


 ぽろっとつぶやくと、白い狐は吊り目をさらに吊り上げて気色ばむ。


「我をそのような妙ちきりんな名で呼ぶな! そなた失礼だぞ! んぎゃあッ!」


 こちらへ駆けてくる途中、何か・・に激突し、弾かれた。その瞬間、虚空に金色の光の輪が広がるのを湊は見た。

 おそらく山神が白い狐を拒絶しているため、透明な壁に阻まれたのだろう。


 先日この若い狐は、思いを寄せるツムギと揉めに揉め、楠木邸を覆う神域の壁を何度も足蹴にし、山神の怒りを買って教育的指導を施されたのであった。


 白い狐は地面を数回後転して態勢を立て直すや、そろそろと砂利の際まで寄り付いた。

 そのあたりまでならこられるらしい。しかしその頭は下がったままだ。

 物理的に上げられないのか、それとも前回のことを反省しているのか。判断はつきかねた。


「あの……。先日は大変失礼しました……」


 居住まいを正した狐から、消え入りそうな声が聞こえた。遠目で表情はうかがえないが、どこか不本意そうだ。

 誰かに怒られてしぶしぶ謝罪に来たのかもしれない。


「謝る相手は俺じゃないと思うけど」

「そなたがこの家のあるじなのだろう?」

「いや、まぁ……そうなるのかな? とりあえず? 仮の主みたいな感じ? かもしれない」


 至極あいまいな言い方しかできない。

 山神にも『お主がここの主ぞ』と告げられているが、実際はただの管理人である。そんな立場で、この家の主でございと大きな顔をすることはできなかった。

 面を上げた狐が小首をかしげる。


「そんなに立派な表札を掲げているのに、いやに消極的なんだな」


 湊は真横の表札を見た。『楠木』の書体が、夜空に輝く満月さながらに光っている。

 狐の言葉通り、我が物顔で主張していた。


「あー、これは……。一軒家に住んだあかつきには、自分でつくった表札を付けると子どもの頃から決めていたもので、つい……。なんか調子に乗ってすみません」

「いや、我に謝られても困るけど……」


 間の抜けたやり取りをしている最中でも、狐は一度たりとも湊から視線を外さない。その眼光と態度は剣呑さを含んでいるといってもいい。

 湊はどうにも居心地が悪く、かつ不可解でもあった。


「――まだ何か俺にいいたいことがあるのかな」


 わからないなら直接訊くに限る。とりわけ相手は神の類である。己に正直であろうから腹の探り合いは不要だろう。


「ツムギはいつもここになにをしに来ているのだ」


 斬り込むように告げた狐のまとう光がゆらめき、眼光の鋭さが増した。


「そなたに逢いに来ているのではないのか?」


 なんということだ。恋敵だと思われているらしい。

 それに気づいてしまい、湊の目から急速に生気が抜けた。


「いや、違うよ。ツムギは――」

「違う? ならなぜツムギがここを訪れた時はいつも神域を閉ざして見えなくするのだッ」


 食い気味に言われた情報は初耳であった。


「それは知らなかったけど……。あ、たぶんツムギが露天風呂に入るから、山神さんが気を利かせて閉じてるんじゃないかな」


 山神は、いずこからうかがっていたらしいこの暴走気味な狐に、ツムギの入浴シーンを見せないようにしているのだろう。

 それもあって、ツムギは安心してここに遊びにくるのかもしれない。

 湊が己の考えに納得していると、狐は素っ頓狂な声をあげた。


「――ろ、露天風呂だと……!」


 ブワッと毛を逆立て、身をそわつかせてた。

 何を想像しているかなど訊かずとも理解できて、湊は生ぬるい表情を浮かべた。

 とはいえ、若い狐の反応は致し方ないかもしれない。人間である湊にとって入浴中のツムギは、毛が濡れたら小さくなるなという感想しか持てないとしても。


「そうだよ。ツムギは露天風呂目当てに遊びにくるんだよ」


 あといなり寿司。と続けるのはやめておいた。ツムギはただ己の欲望に忠実なだけの、卑しい狐だと勘違いされたらいたたまれない。


「いまそなたが申したことは全部まことか? わが主に誓えるのか?」


 狐の態度に変化はなく、いまだ疑いは晴れないようだ。恋する若造は厄介である。


「知らない神様に心の底から誓うことはできないけど、山神さんには誓えるよ」


 片手を挙げて宣誓すれば、狐が仰け反った。

 その手のひらから何かが照射されたのではなく、山神の神圧を受けたせいだと湊も察した。


「う……む……、そうか……」


 どうにか納得してくれたようだ。

 うつむく狐から覇気が消え、その身が発する光も淡くなってしまった。耳と尾を下げてしょんぼりする姿は小生意気な若造とはいえ、哀れみを誘う。


「――ツムギから全然相手にされないのかな」


 すげない態度のツムギを見たため、あらかたの想像はつくが、自身の口からも聞いてみたかった。

 狐は力なく左右へ首を振った。


「まったく、これっぽっちも」


 存外素直であったが、湊は浅くため息をついた。


「相手にされないからって、喧嘩をふっかけるのは間違ってるよ」

「――しかし他に方法が思いつかなくて……」

「その結果、ツムギに嫌われたんだよね」

「うぐぅッ」


 鉛玉でも喰らったように狐はよろけて呻いた。が、気丈にも反論してくる。


「き、き、きら、嫌われているわけではないっ」

「ないって思う? 本当に? あんな冷たい態度のツムギ、俺いままで見たことないよ」

「そ、そんな……」


 前屈みになった狐は地面にめり込みそうだ。

 少しばかりイジメすぎたかもしれない。されど、ツムギが受けた迷惑はこれぐらいではすまないだろう。

 しかしながら、白い狐はまだ若い。改心するならば、やり直しは十分きくと思われた。


「これは俺が勝手に思ってることなんだけど……」


 やわらかな口調で言うや、狐の視線が上がった。


「ツムギは、ひとりの時間を大切にするタイプだよ。ここにいる間も常に俺や山神さんと話しているわけじゃないんだ。まったり露天風呂に入って、ゆっくりお菓子を食べて、うたた寝をすることだってある」


 その時のツムギは、本当に無防備でやや危なっかしくもある。


「詳しくは知らないけど、家に眷属も多いらしいし、ひとりになりたい時に出かけて、ここにも寄るんじゃないかな」

「そうだったのか」


 しみじみとつぶやいた狐に、湊は苦笑する。


「たぶんだよ、たぶん。ツムギに聞いたわけじゃないよ。――だから、そんな休憩したい時にしつこくされたら、余計に苛立つんじゃないかなーと」


 ズウン……とふたたび狐が地面に額を付けた。


「ともかく、喧嘩腰で突っかかるのはやめるように」


 ツムギのためを思い、そこは強調しておいた。

 狐はしばし黙したあと、猫撫で声で言ってきた。


「少しだけ話しかけるのもダメか?」

「すぐには無理じゃないかな。しばらく時間を置いたほうがいいと思う」

「しばらくとは、どれくらいだ。二、三日ほどか?」

「長く生きる神の類とは思えないせっかちさだね。数ヵ月はあけようよ」

「そ、そんなにか……!」


 悲痛そうな面持ちになったが、長生きゆえ数ヵ月や数年程度ならば大した年月でもあるまい。神の時間感覚に感化されてしまった湊に対し、狐はなおも食い下がる。


「どこへ行くのか知るために物陰から見つめる程度も許されないのか? あとを追う――いや、無事に家まで帰るのを見届けるくらいも?」

「なんてことだ。本当にストーカーだった……」

「貴様っ、その妙ちきりんな名で我を呼ぶなと何度言えば、わか……っ!」


 反射的に前へ出そうになった前足を、ぐっと狐は止めた。

 やればできるではないか、と湊は思った。


 それなりの時間、唸って己と格闘していた狐は、やおら居住まいを正した。その身を覆う白光が輝きを増す。

 ――シャンッ。

 かすかな神楽鈴の音が鳴るのを、湊は確かに耳にした。

 のちに湊は、その音は神の類が誓約を行う際に鳴るのだと山神から聞くことになる。


「――わかった。我が主に誓い、しばらくツムギとの接触および見つめるのも控えることにする」


 明瞭な声で神の眷属が宣誓した。


「うん。ちなみにどれくらいの期間?」

「ひと月。――いや、ふた月は我慢する……!」


 湊が白けた目で見ると、言い直した。

 すると狐の頭上で神楽鈴が派手に鳴り響き、ここに誓約がなった。


 もしこの誓約を破ろうものなら、死をもって償わなければならない。それほど重いものなのだと、これも湊はのちほど知ることになる。


 ともあれほんの短い期間にすぎないが、これでツムギも心置きなく外出できるようになるだろう。その後は何も保証はできないけれども。


「追いかけられたら逃げたくもなるよね」

「――なに?」


 ただの独り言を聞かれてしまった。


「なんでもないよ。それはそうと、キミのお宅にあるイチョウは元気にしてる?」


 強引に話を逸らした。これ以上、他の恋路に口を挟みたくない。何より恋愛事に長けているわけでもないため、役立つアドバイスなぞできそうになかった。

 なおイチョウとは、雷によって倒れた御神木である。

 その木に宿っていた精霊が瀕死になっていたのを、たまたま近くを通りかかった際に知り、クスノキの生命力を渡してよみがえらせたのであった。


「うむ、とても元気だ。かのイチョウはそなたによって助けられたらしいな。その……それも感謝している……」


 あの時、同行していたセリが言っていた。イチョウに落ちた雷は自然現象ではなく、神の類が放ったものだと。

 耳を下げているあたり、この狐の仕業であったようだ。


「なんでイチョウを攻撃したのかは訊かないけど、もう二度としないでほしい。命あるものなんだよ」

「――肝に銘じる」

「うん。――イチョウは急激に大きくなってないかな?」

「大きくはなっていないが、ひこばえがあまりに早く育っていると、神社関係者の間でやや騒ぎになってな」

「ああ、やっぱり……!」


 湊が頭を抱えるも、狐は動じなかった。


「だが、心配は無用だ。我が宮司の夢枕に立ってお告げをしておいたからな」

「なんて言ったの?」

「かのイチョウは神霊が宿りし、霊験あらたかな木である。通常の木よりはるかに生長が早いのは当然のことなり。大事に慈しみ育てよ、と。その後、騒ぎは収まり、あたたかく見守られている」

「よかった。ありがとう」

「――うむ」


 視線を逸らし、そわそわと前足を動かした。気恥ずかしいようだ。

 若いなと改めて思う。人間に換算すると中学生ほどらしいので、ぜひとも早急に内面を成長させてほしいものだ。オトナのツムギのためにも。

 湊はそう願うばかりであった。

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