3 わんぱくでもいい、元気に育ってくれるなら

 




 クスノキのもと、箒を手にした湊は四方を見渡した。

 隅々まで朝日に照らされた庭には、一枚の葉すら落ちていない。いつもと同じように整然と整っており、突然誰が訪れたとしても、自信を持ってお見せできるだろう。


「よし、今日の掃除は終わり〜」


 陽気に告げたあと、裏門の方角をじっと見つめた。

 晴れ渡る空に長い雲が浮かんでいる。

 ゆるやかに動くその影が落ちるのは、泳州町えいしゅうちょう。特筆すべきものもない小さな町影のそこが、つい最近まで瘴気に覆われていたなど、にわかには信じがたい。


 それは悪霊を増やしていた退魔師のせいであったのだと、播磨から聞いている。

 その人物を捕らえる際、大量の悪霊を放たれ、湊が風の精に託した護符によって完膚なきまでに祓い終えたという顛末も。


「――もう問題ないって言ってたしな……」


 その後、播磨を含む陰陽師たちは、他県へ行ってしまった。つくづく忙しい職だと思う。いつでもまったり自らのペースで仕事ができる己とは大違いだ。

 詮ないことを考えていると、背中に軽い衝撃が走った。


「おっと」


 肩甲骨の間に、しかとしがみついているのは、エゾモモンガである。

 首を曲げて見下ろすと、得意げな顔をしている。屋根から滑空し、着木ならぬ着湊をしたのであった。

 神霊は、山神から与えられた新たな体をようやく使いこなせるようになった。歩行訓練の次に方丈山で飛行訓練を行って以来、家でも練習を続けている。


「見てなかったから、もう一回やってよ」


 両眼をつぶって了承したエゾモモンガは反転し、背中を伝い下りて駆け出した。先日までの覚束なさなど微塵もない。爆走ともいえる速さで走り、家の壁を駆け上がり屋根に乗った。


「おお、素晴らしい速度」


 感心しつつ湊は片手を挙げ、指を広げた。

 エゾモモンガは屋根の縁をちょこちょこ動いて位置を調整し、えいやっと思いきりよく跳んだ。被膜を広げ、滑空する只中もその両眼は見開かれ、湊の手のひらを一心に見つめている。

 音もなく滑るように向かってきて、湊の指に抱きついた。その時、かすかに眼を閉じてしまったものの、問題なく目的場所まで滑空できたのなら上出来だろう。


「すごい上手になったね」


 湊が笑顔で褒めると、神霊もくすぐったそうにはにかんだ。


 高揚した様子のエゾモモンガは手から飛び降りる。

 が、あえなく着地に失敗。ビタッと四肢を広げた姿勢で地面に落ちてしまった。


「大丈夫⁉」


 湊が焦るも、即跳ね起きたエゾモモンガは走り出した。痛がっている風でもなく足取りに不安も感じられず、まさに育ち盛りの子どものようだ。


「元気があってなによりだけど」


 苦笑しつつ、石灯籠へと向かう小さな後ろ姿を眺めた。


 そこにエゾモモンガがたどり着く直前、火袋からピンクのひよこ――鳳凰が飛び立った。こちらはいまだ幼体のままだが、その動作にゆるぎはない。

 優美に翼をはためかせるたび、真珠色の粒子が舞う。一幅の絵画のように地上へと降り立った。


「さすが鳥さん、長の風格満点」


 湊が称賛する中、鳳凰のもとにエゾモモンガが馳せ寄り、顔を突き合わせた。

 面倒見がよい鳳凰は、神霊の歩行訓練――山神が与えたボールでのキャッチボールに幾度も付き合っていたから仲がよい。

 身ぶり手ぶりを加え、会話を交わすひよことエゾモモンガの傍らを霊亀が横切る。

 その山型の甲羅に突然エゾモモンガが抱きついた。半眼の霊亀はいやがることも驚くこともなく、神霊を乗っけてのんびり小径を歩いていく。


「親子かな?」


 微笑ましい光景である。

 霊亀もエゾモモンガが歩行訓練に励んでいた折、ただ静かに見守り、転んだ時は黙ってその身を起こしてあげていた。


「亀さん、ほんとに優しいな」


 川べりに達した霊亀の背からエゾモモンガが飛び降り、縁の石に乗るや、下方をのぞき込んだ。

 いまにも川に落ちてしまいそうで、ハラハラと湊が見守っていると、前のめりになったエゾモモンガの頭部が急にこちら側へ傾き、石の上で尻餅をついた。

 川面から突き出た応龍の羽で押し戻されたからであった。


「落ちなくてよかった。龍さんもよくお世話してくれるなぁ」


 応龍も普段通り何も言わず、優雅に上流へと泳いでいった。

 少し肩を落としたようなエゾモモンガであったが、今度は庭の中心に戻ってくる。

 その途上、突然振り返った。裏門の屋根に伏せた麒麟と見つめ合う。

 麒麟はここを訪れるようになって以来、湊の動向を注視し続けていたのだが、神霊が庭を徘徊するようになってからは、そちらに視線を向けることが多くなった。

 おかげで湊は、少しほっとしている。


「神霊には悪いけど……」


 小声で本音が漏れてしまったが、誰にも聞き咎められることはなかった。

 それはさておき、麒麟も神霊に気を配っている。ボールを追いかけていた時、勢い余って川に落ちれば即座に救出してくれたこともあった。

 その甲斐もあって態度は素っ気なく、視線がうるさい麒麟も神霊に受け入れられている。


 ふいにエゾモモンガが視線を外し、ダッシュした。クスノキの根元までくるや、そのそばに立つ湊を見上げる。


「お好きにどうぞ」


 頷いたエゾモモンガは、嬉々として幹を登りはじめた。

 神霊はクスノキに登る際、必ず湊に許可を取る。このご神木は湊の所有物ゆえという認識らしい。


「律儀だよね」


 横を向いてクスノキに声をかけると、樹冠をざわつかせて同意してくれた。

 クスノキの樹高は今、湊の胸部あたりになる。ほとんど生長していないのは、南部のイチョウを助けるために生命力を分けたからではない。

 クスノキ自身が、さほど大きくなりたくないと思っているからだ。ここのところ、その真意が伝わってくるようになって、もう山神に訊かずとも理解できるようになった。実に喜ばしい。


「思いは通じるものだな、なんてね」


 ただ思い続けたからといって、誰でも叶うものではない。相手が神の力を宿す特別な木であり、なおかつ湊が強く望んだからだ。

 何しろ湊には、四霊が加護を与えている。

 その威力は、世界を征服したいと熱望すれば実現できるほど強力だが、欲の薄い本人が望むはずもなく、猛威を振るうこともない。


 湊と語らうクスノキの幹を登ったエゾモモンガは、枝へと移って這い進んでいる。

 どこまで進めるか挑戦しているらしい。

 楽しそうでよろしいが懸念もある。枝はいかに細くなろうと折れやしないが、エゾモモンガはやや粗忽ものゆえ、うっかり落下してしまうからだ。

 痛みはあっても怪我や骨折をしないせいか、無茶をしがちである。

 あまり甘やかすなと山神に注意を受けたこともあり、湊もなるべく手を出さないようにしているが、心臓に悪い。


「あっ」


 案の定、小さな体軀が樹冠から転がり落ちた。

 近寄った湊が見下ろす。その影に覆われたエゾモモンガは仰向けで大の字、いや被膜と尻尾が長いため、中の字になっている。


「まーた、無茶して――」


 お小言が途切れた。

 グースカピー。浅く口を開けた神霊は、寝ていた。これもままあることだ。

 よく食べ、よく遊び、突如電池が切れたように眠る。


「まるっきり子どもだよね……。それにしても無防備極まりないなぁ。いまはいいけど、そろそろ自覚を持ってもらわないといけないよね」


 ざわり。クスノキも大きく身を震わせ、賛同した。


 神霊はいつまでもここにいられないからだ。


 

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