第7章
1 予期せぬ客たち
ゆうるりと夜が侵食していく楠木邸の塀沿いを、湊は汗だくで歩いていた。
「あっつい……」
軍手を嵌めたその両手がつかむのは、草が満杯に入ったゴミ袋である。草取りを終えたばかりだ。
敷地内はいつでも気温と湿度が快適に保たれているため、そこを一歩でも出ようものなら夏の暑さがひどく堪えた。
「でもやっぱり夏は汗をかいたほうがいいだろうしね。――よっと」
ゴミ袋を表門の横に置く。塀沿いに隙間なく並ぶ袋の列は壮観である。
「夏もほんと雑草がよく伸びる……」
抜いても抜いても、また生えてくる。その生命力の強さは驚嘆に値するが、屈するわけにはいかない。そうでなければこの家屋が埋もれてしまう。
「あそこは幽霊屋敷だ、なんて噂されたら困るしね」
苦笑いしながら軍手を外していると、ぬるい風に吹かれた木々がざわめく。表門に掲げた表札の文字も見えづらくなった。
「そろそろやめようかな」
家に戻るべく表門の格子戸に触れた。その手の上をゆらめく炎がかすめ、反射で後ずさる。
二つの青白い火の玉が、表門に沿うように交差を繰り返している。
はじめて見る奇っ怪な現象に、湊は警戒しつつも見入った。
「鬼火? それとも狐火?」
記憶があいまいで、名称は定かではない。
いずれにせよ人ならざるモノだが、こちらに危害を加えてくる様子はない。
じっと注視していると、背中に明瞭な気配を感じた。
風の中に交じる、やや粘着く気配には馴染みがある。
――妖気だ。
ゆっくりかえりみて、湊は目を見開いた。
数歩先に佇んでいたのは、己とそっくりの男であった。
細身の体格、目線の高さもまったく同じで、服装まで似通っている。
己の分身だとか生霊だとか言われている、あの存在なのだろうか。
「――ドッペルゲンガー?」
ぽろりとその言葉が出るや、同じ顔の唇が片方だけ吊り上がった。
凶悪なご面相である。それを真正面から見た湊は目を眇めた。
「なんてね、
お隣の御山――方丈山を根城とする妖怪――古狸に違いない。
かずら橋の修繕の際、職人たちの仕事の邪魔しないよう酒で取引した相手である。その後も方丈山に登れば、そばに現れたり消えたりするようになり、否が応でもその気配がわかるようになった。
「フヒヒ、そうでもないぞ」
声まで真似され、悪寒が走った湊は苦言を申す。
「俺はそんな笑い方もしないよ」
ただニヤける古狸の周囲を二つの火の玉が回った。その様相は幽霊めいている。青白い光に照らされたその顔が片笑みを浮かべた。
「相変わらず独り言が多いな」
「――そうかな」
羞恥を覚えた湊は口元を押さえ、横を向く。その視界に、一台の軽バンが映った。
「あ、宅配便だ」
正面に立つ古狸はいまだ湊の姿をしたままで、同様に車を見ている。
この状況を見られたらまずい。
湊は焦った。さかんに宅配便を頼むため、配達員は顔見知りである。案の定、車から降りてきたのは見慣れた男性であった。
「こんばんは、楠木さん」
肩の厚い若者が愛想よく笑った。
――古狸に向かって。
「こんばんは~」
当然のように返事をした古狸は、笑顔を浮かべた。
なんという胡散くさい笑みであろうか。己はこんな笑い方をするのか。こんな時ながら湊は若干引いた。
「今日も暑いですね」
「ええ、夏ですからねぇ」
当たり障りのない会話を聞く湊の顔が歪む。
おかしいだろう。
双子と見紛うほどの二人が並んでいるにもかかわらず、そのことに対して配達員はこれっぽっちも反応をしないなど。
彼はこちらに目もくれない。湊を認識していないようにしか見えなかった。
配達員がきびきびと後部ドアへ回る間、湊は古狸へ視線を送る。
燐光を発する眼が、ひたりとこちらを見据えていた。
ぞわりと背中が粟立ち、顔面が強張る。
「――配達員さんになにかした、いや、してるの?」
「なに、ちょっとした術を掛けただけよ」
古狸はさも愉快そうに嗤い、その眼がますます妖しい光を放った。
けれども湊は身を固くするのみで、とりわけおかしな様子にはならない。
古狸は不満げに目を細めてつぶやく。
「これだから神と親和性が高い者は……」
どういう意味だ。
そう詰め寄ろうとした時、配達員が近寄ってきた。並ぶ湊と古狸は、表門を塞ぐように立っており、配達員が戸惑った表情を見せた。
すかさず古狸が前へ進み出る。
「ここで受け取りますよ」
「そうですか? でも今日の荷物も結構重いですよ」
ダンボール箱を抱える配達員の腕には筋が浮き、その重量を物語っている。
「大丈夫です。俺、それなりに力はありますので」
古狸はダンボール箱をひょいと取り上げた。
「おっと」
突如重みが消え、配達員がよろけるも、古狸は涼しい顔したまま、片手で持っている。
驚きの相を浮かべる配達員は帽子をかぶり直した。
「あ、本当に力強いんですね。意外だ……」
「そうですか? これぐらい大したことありませんよ」
にこりと笑う古狸の尻に、ぴょこっと狸の尻尾が生えた。
それを目の当たりにした湊の目から生気が抜ける。
「自分にふっさふさの尻尾が生えるところなんか、見たくなかった……」
顔面を覆う様子のおかしな男には構わず、配達員は古狸に話しかける。
「では、サインはこちらで書いておきますね」
毎度のことである。
「ありがとうございます。お願いします」
今までの愛想のよさはどこへやら。古狸は口だけでそういい、車に戻っていく配達員を見ることもなく、踵を返そうとした。
が、ダンボール箱の反対側を湊がガッチリつかんだことで阻まれた。
湊は真正面からうっすら光る眼を見据えた。
「これを持って、どこにいくおつもりで?」
「もちろん
「みすみす逃すわけがないよ。
「断る! 絶対にいやだ!」
古狸がダンボール箱を深く抱え込んだ。しかし負けるわけにはいかない。
なにせこの中身は、名だたる名酒ぞろいなのだ。
「いやだじゃない、ダメに決まってる。このお酒は亀さんと龍さんが楽しみにしてるんだから、渡さないぞ」
頑なに拒否すると、古狸はしばし考え込んだ。
「――ああ、そうだ。唐突だが、やつがれの名はたぬ
「ホントにいきなりの自己紹介だね。それで?」
「おぬしにやつがれの名を呼ぶことを許してやろう。その礼としてこの酒らを受け取ってやらんこともない」
「いえ、結構。古狸さん呼びで十分なんで」
「まぁ、そう言うな。実に名誉なことなのだぞ」
「はぁ、左様ですか。それはいいから、早くその手を離しなよ」
譲る気なぞあるはずもない。当然である。大した理由もなく、高級酒を大盤振る舞いしてやるほど酔狂でもなかった。
業を煮やしたらしき古狸は、上目遣いになった。
「ねぇ、お願い。一本だけでいいからやつがれにちょーだい?」
「ギャーッ! 自分の顔と声で媚びられるとか、気持ち悪いッ!」
痛恨の一撃であった。
仰け反る湊であったが、その両手は離さない。
だが古狸もめげない。
「ダメ? どうしてもダメ?」
今度は目を潤ませ、泣き落としで攻めてきた。湊も視界の暴力で泣きそうである。
「頼むからその姿はやめてほしい。元の姿に戻ってよ……」
「しょうがない御仁だなぁ」
瞬く間に同体の背丈が縮み、ダンボール箱の重みが増すかと覚悟するも、そんなことはなく。元の大きさに戻った狸が両腕を上げて底から支えていた。
「なにがなんでも酒を諦めない、その根性には感服するしかないよ」
苦笑すると、古狸が顔を輝かせる。
「そうか! ならば、酒をくれるな!?」
「わかったよ……。でも一本だけだよ」
「十分だ! ありがたし!」
「じゃあ、ダンボールを家まで運ぶの手伝ってよ」
「あいよ、合点承知の助〜」
「うわ、すごい年齢を感じる」
「なんとっ、いまはそう言わんのか? ――いかん、現代語を学び直さねばならんな」
真剣なつぶやきが下方から聞こえ、湊は素直に驚いた。
「向上心があるのは素晴らしいね」
「なんのなんの、長生きしておれば当然よ。おぬしという、いい見本がいるから習得するのは造作もないだろう」
「なんか責任を感じるなぁ。話す時緊張しそうだ」
「しからば、大いに独り言を話すといい。ヒアリングに励む」
「盗み聞きを堂々と宣言しないでほしいんだけど……。それはそうと、最近はヒアリングじゃなくて、リスニングって言うよ」
「り・す・ニ・ン・グ。リスニングか、覚えたぞ」
声真似が得意なせいかすぐさま発音もまともになった。
侮れぬ妖怪と軽口を叩きつつ、えっちらおっちら表門を越えた。
「ぐッ」
古狸がつまずきかけるも、踏ん張ってこらえた。
「あれ、足引っ掛けた? 大丈夫?」
「あ、あたぼうよ。な、なんのこれしき……ッ」
妙に息苦しそうな声だと不思議に思う湊は知らない。古狸の全身に山神からのプレゼント――己が体重の三倍以上の重みが加算されていることを。
かの陰陽師播磨にもよく行われている、暇を持て余した山神様のお戯れである。なお誰にでも彼にでも行っているわけではない。
ともあれ無事に玄関にたどり着き、一番小さい日本酒をピンと伸ばされた獣の手に渡した。
「どうも、どうも!」
脂下がった古狸は酒瓶に頬ずりし、小躍りしつつ玄関を出ていく。表門に達する直前、
――ちりん。
風鈴の音が凛と響き渡り、その歩みを止めた。
――ちりん、ちり〜ん。
どこか楽しげな連続音に耳をすませていた古狸は、肩越しに振り向く。やけに静かで、やわらかな眼つきであった。
「風鈴のやつを世話してくれたんだな。――恩に着る」
「え? あ、うん。大したことはしてないけど」
綺麗な布で磨き、黄ばんでいた短冊を新調した程度である。
「あんさんにとってはそうかもしれんが、あやつは満足しとる。どうか末永くよろしく頼む」
まるで嫁入りの決まり文句のようではないか。
「ああ、はい……?」
湊はやや面食らいながらも返事した。
古狸はふたたび軽やかにステップを踏み、表門を抜けた途端、風のように姿を消した。
開いたままの格子戸を湊が閉めようとした時、またも火の玉が宙を横切った。
「さっきの鬼火と色が違う……」
今度のものは黄みを帯びていた。
また一つ、二つと数を増して舞うようにゆらめくそれら越しに、神の気配を感じた。
暗闇に染まる砂利を隔てた道に、一匹の白い獣が座している。淡い光で形作られており、明確に見えた。
細身の体軀、大きな三角の耳、目元を縁取る朱色、稲穂のごとき尻尾。
南部にある稲荷神社の眷属――狐であった。
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