11 呼ばれて飛び出る




 もうそろそろお昼時。家の管理人としての職務を果たした湊は、空腹を感じていた。

 冷蔵庫の前に立ち、一番大きなドアを開けて、閉める。野菜室をのぞいて、閉める。最後に冷凍庫をガバリと開けたその顔が絶望に染まった。


「――魚介類がない……」


 一つもありゃしない。目当ては魚だ、貝だ、エビだ、イカだ。

 つまり海の幸ならなんでもよかった。


 湊がここに住まうようになって以来、この冷蔵庫には何かしらの魚介類が常備されていた。

 風神と雷神のお土産のおかげである。いつも食べきれない量を持ってきてくれるから、干したり冷凍した物を細々と楽しんでいた。

 それがいまや、影も形もない。ここのところ二神がご無沙汰のせいであった。

 いつ遊びにこられても歓迎できるよう、酒も準備しているというのに。

 なぜこないのか。


「寝ておいでか」


『よく寝たー! って起きたら数十年以上経ってることなんてザラよ、ザラ』


 と、いつぞや雷神が笑いながら告げていた台詞が脳裏を過った。

 彼ら悠久の時を生きるモノたちは、人間とは時間の感覚、使い方がまるで異なる。

 もし彼らが本気で眠ってしまえば、湊が生きているうちにはもう会えないだろう。


「最近はよく起きてるって山神さんも言ってたから大丈夫だろうけど」


 二神はほとんど地上に降りないらしいため、厄介事に巻き込まれている線も考えにくい。何より強いので心配はしていない。おそらく世界中をフラフラと放浪しているのであろう。

 ともあれ、いかに風神と雷神のお土産がありがたかったか、身にしみて思い知った。

 つい抑えきれない欲望を口にしてしまう。


「新鮮な魚介類が食べたい……」


 ザバァ! と神の庭に激しい水音が響いた。


 川べりに靴が踏み込んだ時、湊が庭を見た。

 縁側で丸くなった山神越しに見えたのは、蛇体を身体に巻きつけたスサノオが上陸するところであった。

 ぺっと八つの頭を持つヤマタノオロチをはぎ取って川へ落とし、笑顔で歩み寄ってくる。


「よォ、ひさびさだな。とりあえずメシ食おうぜェ〜」


 掲げられた紙袋から大魚のお頭がのぞいている。

 何かと挑みかかってくるスサノオだが、今日はご飯を食べに来ただけのようだ。しかも求めていた手土産付きである。

 ならば、大歓迎だ。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ!」


 縁側に出てきた湊の顔は、かつて見せたこともないほど綻んでいた。


「それはそうと、ヤマタノオロチさんを川に落とすのは、あんまりなんじゃ……」


 見れば、かの大蛇は泳いでいる。くるくる回転し、さらには鼻歌も歌い、ご機嫌そうではある。


「気にすんな。あの爺は泳ぐの好きだしよォ。アイツがいねェとあの門通れねェから連れてきただけだからなァ」

「ということは、通行手形が必要だったってこと?」

「獣が随伴してねェと通れない仕組みになってるみてェだぞ」

「へぇ、知らなかった」


 そんな条件があるらしい。

 縁側近くまで来たスサノオが寝そべる大狼を見やる。


「爺、邪魔するぞ」

「たわけ。入る前に云うものぞ」


 チラリと片眼だけ開けてお小言をもらした。

 軽く肩をすくめたスサノオは大魚の顎をつかみ、紙袋から引き出した。全長四十センチほど。背面は赤く、腹面は白い。アンバランスなくらい口と目玉が大きく、その澄んだ色は新鮮とれたての証であろう。


「ほれ、のどぐろだ」


 通称のどぐろ。正式名アカムツ。脂のりがよく、口の中でとろけるほどやわらかいため『白身のトロ』と称されることも。水揚げが少なく、市場に出たら高値がつく高級魚としても有名である。


「ちょうど泳いでたから捕まえてきた」

「釣ってきた、って言わないあたりがスサノオさんらしい」

「こいつは、やっぱ刺し身だろ」

「異議なーし」

「他にもいろいろ持ってきたが、生ばかりじゃ飽きるだろ。焼くから火をおこせ」

「はいよ、いますぐに」


 湊も否やはなく、傍若無人相手に言葉遣いの遠慮もない。テキパキと動いた。


 縁側のそばにバーベキューコンロを設置し、炭をおこしていると、スサノオも準備に参加していた。

 先日食事をともにした折、殿様のごとき横柄さで、湊から上げ膳据え膳されるがままであった男が、である。

 なお山神は座布団の上に寝転がったままで、たまにあくびをしている。ついでにいえば、四霊はお出かけして不在、神霊は石灯籠でお休み中である。


「よし。じゃあ、こいつは俺が捌く」


 スサノオはのどぐろをまな板に置き、手のひらを上に向けた。四方から金の粒子が集まり、剣となった。

 お馴染みの神剣である。

 瞠目した湊は真顔で制止をかけた。


「ちょっと待った!」

「なんだよ」

「その剣で斬ったらダメでしょ」

「いいんだよ、ナニを斬ろうと俺の剣なんだからよ。こいつの斬れ味はお前も知ってるだろォ?」


 スサノオの神域で、家屋やビルを斬りまくるのを見てはいる。


「十分すぎるほどに見てるけど。でもあれ、ほとんど剣圧で斬れていたような……」

「こいつ自体、斬れ味がいいんだよ。なんなら試してみるか?」


 ほいと腕を伸ばして向けてくる両刃は、鋭く光っている。魚であろうと人であろうとたやすく斬れるに違いない。

 そう、あくまで武器だ。いかに外見が美麗であったとしても。おっかない。


「いや、結構。持ちたくない」

「――フツー、目の色を変えて受け取るもんだけどなァ……」


 微妙な顔をしたスサノオは、剣で魚を捌きはじめた。

 もう何も言うまいと湊は諦めた。通常の剣ではないのだから、衛生面など考えずともよいだろう。

 とはいえ、視線を外せない。陽光を弾くその剣身は、いつまでも眺めていたい気持ちにさせられる。


「その剣、妖しいよね。魂を吸い取られそうな気がする」

「俺の剣を妖刀扱いすんじゃねェっての」

「吸い取られなくとも、魅了されてしまいそうな感じがする」

「まァ、間違ってねェな。ひとたび手にしようものなら、己のモンにしてェって抗えない欲が生まれるからなァ」

「わかっていながら渡そうとするとか……。意地が悪すぎる」


 スサノオの哄笑こうしょうが響く中、湊は目も意識も炭へと向けた。

 炭を舐めるように這う火はやはりよい。楠木邸のキッチンはIHクッキングヒーターのため、料理する際に物足りなさを感じる。ゆえに、湊は何かと庭で料理をしている。


 ようやく川から上がってきたヤマタノオロチが、スサノオの足元をうろちょろしだした。

 魚の切り身を剣身に載せつつ、スサノオは片脚に絡んできた一つの首を足蹴にして追いやる。


「ゴルァッ、邪魔すんな。テメェは向こうで酒でも呑んでろ」


 ヤマタノオロチは、全員で舌を出しながら尻尾で対抗している。スサノオをからかって遊んでいるようだ。

 こちとら腹が減ってるんですけど。

 本音を言うわけにもいかず、湊は一計を案じた。


「オロチさん、お酒出しますね」


 ヤマタノオロチ対策ならこれに尽きよう。

 いやしかし、ヤシオリの酒並みに強烈な酒はあっただろうか。

 収納庫の酒瓶を思い浮かべていると、渋面のスサノオに止められた。


「いや、いい。こいつは底なしだからよォ。お前が出すお高い酒じゃ足りねェし、何よりもったいねェ。――これで、十分だ」


 パチンと指を鳴らすや、伏せた山神の下方に酒樽が現れた。一斉に八つの蛇頭が舌舐めずりし、殺到。クルリと酒樽に巻き付き、のぞき込む。そして八つの頭を振りかぶり、顎で蓋を叩き割った。

 飛んだ酒の雫が、びしゃっと大狼の顔面にかかる。鼻に滴る雫を舐め取り、鼻梁に皺を寄せた。

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