10 湊もだいぶ術者らしくなりまして




 ふたたび南部の稲荷神社にて。

 風の精を見送った湊が空を見上げていると、やがて風は収まった。漂い出した煤けた匂いに鼻をつかれ、下方へと顔を向けた時、またも風が吹いた。今度は逆方向からだ。


「まさか、もう戻ってきたのか」


 驚く湊が面を上げると、中空を一直線に向かってくる棒があった。

 横向きである。にこやかな風の精たちが両端を握っているため、一切ブレることもなく不自然極まりない。

 湊はかざした手で陽光を遮り、目を凝らす。


「――どう見ても葉っぱじゃないな……。あれは、枝だよね?」

「はい、クスノキの生命力が満タンに入った枝ですよ。奮発してくれたみたいですね。あれなら、木の精も助かるでしょう」


 足元のセリがやわらかな口調で教えてくれた。

 切り株の上で木の精が勢いよく跳ねる。


「喜ばしいけど、ここにくるまでに誰にも気づかれていないといいね」

「風と一体になって高速で来ましたから、他者に見られることもなかったでしょう。たぶん」


 適当に言われ、湊は半笑いで腕を伸ばす。高々と音を響かせ、その手が銀色に光る枝をつかんだ。

 そして振り返るや、浅く口を開けた。


「キミが精霊?」


 バッチリとその姿が視えていた。切り株から落ちそうなほど身を乗り出す苔玉がいる。

 毛の間から時折のぞく萌黄色のどんぐりまなこは、体に対してやけに大きい。その身からにょっきり生えた手足も細く短い。想像だにしない風体であった。


「その枝のおかげで視えているんですよ」


 セリに告げられ、湊が手元を見やる。

 ああ、己のクスノキだなと思うと同時、確かに通常より気配が強いとも感じた。


「じゃあ、一時的なモノなんだね」


 湊は木の精の正面に立った。微弱に震える苔玉は庇護欲をそそられる愛らしさだ。


「キミが見えなくなるのは寂しいけど、どうぞ」


 目一杯伸ばしてくるその両手に、枝を渡した。

 それを木の精が包み込むように抱きしめ、足から切り株の中に入っていき、溶けるように消えてしまった。

 シュルリと切り株から一本の若芽が伸びた。ひこばえと言われるそれは太い切り株に比べ、ひどく頼りなく見えた。

 しかし生命力にあふれ、光すら帯びている。


「おお、すごい」


 湊とセリがやや離れると、立て続けに二本、四本、十本と数を増していく。そればかりかどんどん葉を茂らせ、天へと向かって背も伸ばしはじめた。

 さすがにこの事態には、湊の顔色が変わる。


「待って、待って、速すぎる!」


 いったん生長は止まったものの、すでに切り株は葉で埋もれてしまっている。


「もしこのまま元のように大きく育ったら、このあたりの人たちにおかしいって思われるよ」

「そうでしょうね。ここは湊の所とは違いますし」


 同じように眺めていたセリも同意する。クスノキがのびのびと育っても問題になっていないのは、神域と化した楠木邸だからだ。


「下手をすれば、気味悪がった人たちに切り倒されるかもしれないよ」


 真剣な表情の湊に警告され、イチョウの若芽たちが一斉に震えた。ようやくはしゃぎすぎたと気づけたようだ。


「もどかしいだろうけど、ゆっくり大きくなりなよ。その方が丈夫に育つしね」


 昔、林業に携わる者から聞いたことがある。

 時間をかけて育った木は密度が高く、菌に対抗するための抵抗力も強くなるのだと。

 イチョウは理解したようで、それ以上生長しようとはしなかった。どころか、伸ばしすぎた芽の高さを下げ、葉の数を減らした。


「――どうしよう、だいぶおかしな木になっちゃったみたいだ……」

「仕方ありませんよ。なんといっても、あのクスノキに生命力を分けてもらったんですから……」


 顔を見合わせた湊とセリは空笑いした。

 今一度、異常な行動は取らないようにと忠告し、湊とセリはイチョウのもとを離れた。



 並んで南部の中心街を歩いていると、人通りの少なさが目についた。

 顔をしかめた湊が瞬く。


「なんか、空気が悪いような……」

「そうですね」


 慎重な足取りのセリが四方へと視線を投げる。

 そこには、白と黒を基調にした昔ながらの建築様式の店舗が軒を連ねているのだが、はっきり見えない。

 まるで紗がかかったかのように瘴気で満ちている。


 悪霊自体はいないらしい。

 思いながらセリは、湊の手提げバッグを見やった。

 そこから円状に拡散されている翡翠の光の範囲が、やや狭くなっている。ここまでの道行きで、無差別除霊・浄化を行ってきたせいであった。

 ちなみに現在進行形で実行されている。

 セリは後方を見やり、瘴気が祓われて鮮明な景色が遠くまで続いているのを確認して前方を見ると、そのおどろおどろしさ、薄汚さに吐き気が込み上げた。


「これが、常態のはずがありませんよね」

「それって空気が悪いことについて? これって悪霊のせいなの?」


 セリの独り言が聞こえた湊が尋ねた。


「さしあたり悪霊そのものは近くにおりません。ですが、ここら一帯が瘴気に満ちています」


 湊の脚が止まった。


「セリが言うくらいなら、相当ひどいってことだよね」


 同じく立ち止まったセリが、静かな口調で告げる。


「我は他をあまり知りません。ですので比較はできませんが、生まれたての頃なら吐いていたであろう濃さです」

「やっぱり南部、おかしくなってるんだ」


 前回来た時も感じたことだ。

 ゆえにきび団子屋の店先に設置された野点傘に祓いの力を込めて一筆記して帰った。

 街全体に瘴気が満ちているのならば、その近辺のみ祓ったところでさしたる効果はなかっただろう。

 湊はすれ違う通行人たちを順に見やった。

 いずれも猫背で下を向き、顔色が優れない。


「セリ、瘴気だけでも人に影響が出るのかな」

「はい、出ます。漠然とした不安や恐れを抱いたり、奇妙に落ちつかない気持ちに苛まれたりするでしょう。敏感な者であれば、身体の不調にもつながるはずです」

「この間、他人に当たり散らす余裕のなさそうな人が多かったのは、そのせいだったんだ」


 ようやく合点がいった。

 セリが湊の傍らを過ぎゆく者を眼で追う。怒らせていた肩が下がり、深々と寄っていた眉間の皺が浅くなる。

 歩みが遅くなり、やがて止まった。呆然と棒立ちになった。


 むろん翡翠の光に触れたからだ。

 理由のわからない精神的、肉体的不調が一気に解消されたのだろう。

 何よりと思いつつ、セリは湊を見上げる。

 湊も男の後ろ姿を見ていた。セリへと視線を向け、バッグを持つ手を持ち上げる。


「さっきの方、この木彫りのおかげ?」


 端的に訊かれ、セリは頷く。


「そうです。あの人物だけではなく、ここまでの道中の瘴気および悪霊を木彫りがことごとく祓っています」

「そっか、よかった。じゃあ、ここらへんはいつまで綺麗な状態を保てるのかな」

「数年は保つでしょうね。本来なら」

「――そうだよね。前回も木彫りを持ってここを歩いたのに、もう瘴気が満ちているのならおかしいよね」


 しばし口を閉ざした湊は、決然と面を上げた。


「褒められた行為じゃないのはわかってるけど、このあたりにも祓いの字を書いていくよ」


 静謐な空気をまとうセリは、感情のこもらない声で言う。


「湊、あなたが祓わなければならない理由なんて、一つもないんですよ。なにより、祓うことを生業とする者たちがいるのですから」

「わかってるよ。でも、南部がこんな状態だってことは目が届いていないってことだよね。それにどうにかできる力を持っていながら、見て見ぬふりをするなんてできない。――じゃないと、いつまでも引きずって後悔するのはわかりきってる。あの時祓っておけばよかったって思いたくないし、言いたくないんだ」


 盛大なため息をついたセリが苦笑する。


「あなたはそう言うだろうと思っていました……。湊はホント精神が老成していますよね」

「その台詞、子どもの頃からいろんな人に言われてきたんだよね。なんでだろ」


 不可解そうに首をひねる湊の胸部――魂をセリが注視する。

「――そこまで達している・・・・・なら、道理なんでしょうけどね……」

 そのつぶやきは、湊の耳には届かなかった。


 それから湊は、こそこそと店舗の壁や信号機などの目立たない場所に祓いの力を込めた点を筆ペンで打っていった。

 まるで道標のように翡翠の光が連なっているが、常人には視えない。


 ただし、ごく稀に認識できる者がいる。

 播磨の従姉妹とか又従姉妹とか分家の者とか。


 この日、『方丈町南部へ急行せよ!』なる命が陰陽寮よりくだされて駆けつけた陰陽師四名――一条、堀川、播磨の従姉と再従妹は目撃することになった。

 人目を憚って行動する若い男が、筆ペンで次々に瘴気を祓い、ついでとばかりに悪霊も祓い尽くしていく姿を。


 にわかには信じがたいその光景を、路傍に固まる四人はただ眺めているしかできなかった。


「――翡翠の方ぁ、さすがですっ……!」

「でも、眩しすぎますわっ……! 力を込めすぎです、翡翠の方……!」


 二人の妙齢の女性が目元を覆って身悶えている。彼女たちが口にした名称を堀川だけが聞いていた。

 一条はといえば、目を見開いて突っ立ったままだ。

 その身の横に垂らされた腕の先で拳が握りしめられるのを、堀川だけが見ていた。


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