2 妖怪と取引
かずら橋から十分距離を取った湊は、ややひらけた場所で足を止めた。
登山道を駆け下り、木々を跳び移り、茂みを掻い潜り、追っていた影たちが一斉に取り囲む。
佇む一人の人間を中心に、ドーナツ状の妖怪網ができた。人型もいるが、ほとんど獣型だ。いまにも飛びかかってきそうなそれらが、鮮明に視えている鳳凰の眼光は鋭い。
しかしいつものことだ。とりわけ反応をすることもなく、静観している。
湊は真正面に二本足で立つ古狸へと酒瓶を差し向けた。
「このお酒いる? ほしい?」
「もちろん、いる! ほしい! くれ!」
進み出てきた古狸は、もどかしげに前足で宙を掻く。呑みたくてたまらない様子なのは一匹だけではない。周囲にいる妖怪たちもジリジリと距離を詰めてくる。
それを知りながらも、湊は平然と告げた。
「あげてもいいけど、一つ条件がある」
「――なんだ?」
警戒したのか、全員がやや後退した。
「職人さんたちの仕事の邪魔をしないと約束してほしい」
湊は挑むように要求した。
しばしの間を置き、古狸は苦々しそうにつぶやく。
「――それは、ひどく難しい」
「素直だなぁ」
いかにも妖怪らしい返事に苦笑するしかなかった。
なにせ彼らは、イタズラが大好きなのだから。
実家に出入りする多くの妖怪の中には、突然眼前を横切ったり、耳元で大きな物音を立てたりする困ったイタズラを仕掛けてくるモノもいた。
その際はやめてくれるようお願いし、対価――たいていお菓子を与えたらそれ以降、繰り返されることはなかった。
ゆえに妖怪も神と同じく一度了承した事柄は、必ず守る性質だと湊は知っている。
そのうえ単なる直感であったが、古狸は御山に住まう妖怪たちの長だと思われた。彼と交渉が成立したあかつきには、他の妖怪たちもその意に従うはずだ。
もし彼らがイタズラをしても、棟梁や年配者なら軽くあしらえるだろう。
けれども、若手はそうはいくまい。肝が据わっている者ばかりには見えなかった。
無駄に工事を長引かせたくない。まして中止になど絶対にさせはしない。
真剣な顔つきの湊は、しかと古狸と視線を合わせた。
「約束してくれないなら、お酒はあげないよ」
「むむぅ……」
古狸はどっしりと座り込み、腕を組んで悩み出した。
そんな妖怪に向かい、周囲のガヤ――妖怪たちが囃し立ててる。
「なぁ、はいって言えって! 了承しろって! オレはもうちょっかい出さないから! 早くお酒呑みたいから、はいって言えー!」
「おいおいおいおい、なんで悩むねん。ちょっとした頼みゴトぐらい聞いてやってもエエやんけ! ウンって言うだけでお酒もらえるんやぞ。ワイもイタズラするの我慢するさかいな!」
「古狸さん、なにをためらうことがありましょうか。ひさびさのお酒ですぞ! あの酒瓶は銘酒ですぞ! イタズラは……もっとしたいけれども……!」
びゅおっと突風が吹いた。
妖怪たちがふらつくほどの勢いがあったにもかかわらず、湊の立っている場所だけは無風だ。
言わずもがな、風の精の仕業である。
イタズラなら我らにお任せ、とばかりに古狸の正面を数多の風の精が陣取り、口から風を送り出し、茶色い体毛を逆立たせている。
風に翻弄される古狸を見て、湊が眉尻を下げた。
「あんまりイタズラしたらダメだよ」
風の精は頼もしいが、いかんせん加減知らずで図にも乗りやすい。風の精たちは口を尖らせたまま上空へと飛んでいく。
見上げて見送った湊が顎を下げると、妖怪の輪が広がっていた。警戒されたようだと、内心で苦笑した。
そうして口を引き結んでいた古狸が、ようやく声を出した。
「――いいだろう。約束しよう、職人たちにはちょっかいを出さないと……!」
ここに契約が成立した。
湊を射るように見る、二本足で立つ古狸の姿はやけに貫禄がある。
けれども前足をそろえ、ちょうだいと差し出してくる格好は滑稽である。
湊は半笑いで一歩進み出た。
「ありがと。じゃあ、このお酒をどうぞ。みんなで呑むには少ないだろうけど」
「構わん。他のモノらにはセイゼイひと舐め程度しかやらんわ」
妖怪たちが一斉にいきり立つ。
「なんやと⁉」
「ズルい、ズルい、ズルいー!」
「こんのケチ腐れの
大ブーイングが起こる中、酒瓶を抱きしめた古狸は陽気に躍った。
その狸を先頭にした群れが木立の奥へと消えていく。騒がしい彼らが去ったあと、鳳凰がふっと息をついた。眠いようだ。
「帰りますか」
『――うむ』
小さな頭がふらつき出した。
これはまずいと湊はひよこをつかんで、胸のポケットに入れた。身じろぐこともなく、あっさり眠りに落ちたようだ。
相変わらず、所構わず寝落ちしてしまう鳳凰であるが、起きている時間は格段に長くなってきている。
「そろそろ、元の体に戻るのかな……」
鳳凰は一度だけ、湊の危機を知らせるために元の形態に戻ったことがある。
とても美しい姿であったと頭に思い描きながら歩を進めていれば、片方の横髪がはねた。
風の精が何かを伝えてくる合図だ。
歩みを止めると、複数の高揚した声が聞こえてきた。
『おい、見ろ! 白い動物がいるぞ!』
『どこや⁉ 山神様の使いか⁉』
『たぶん! あっちだ、あっち! あの岩の陰!』
『――いや、ちゃうやん。ありゃあ、ただのリスやろ。そこまで白くもないし』
『マジだわ。なんだよ、期待させんなよ……』
複数の若い男の声に続き、しわがれた大喝も響く。
『バカモン! いつまで浮ついとるか! はよう、かずらを引っ張れ!』
はーい、ヘーイと複数の返事が入り乱れたのち、声は途絶えた。
湊は呆けたような顔になっている。
風の精から人の会話を聞かされたのは、はじめてであった。
その声たちは、かずら橋の所にいる作業員たちと棟梁だったのは紛れもない。
「――なるほど、風神様が言っていたのは、このことだったのか」
風神がいろいろな情報に通じているのは、風の精があらゆる場所で聞いた音や声を真似て、教えてくれるからだと以前聞かされたことがある。
その時、もう一つ言っていた。
――君が彼らに気に入られたら、君の声を遠くまで届けてくれるようにもなるよと。
「それはどうだろう……」
いまいち信じられなかった。
首をめぐらせても、依然として風の精の姿は視界に映らない。
けれども気配は感じ取れるようになってきており、いくつもの存在がわかる。
腕をかすめていったコ、頭上にホバリングよろしく浮いて、頭頂部に円を書くように風を吹き込んでくるコ、正面から飛んできて腹部をぐるりと一回りして離れていくコも。
湊はつい笑ってしまった。
「みんな自由だ。らしいけど」
誰も彼も枠にも型にも囚われない、勝手気ままに己の好きなように動いている。
おそらく湊のことは、いいおもちゃ程度にしか思っていないだろう。
今し方、古狸をターゲットに遊んでいた彼らを諌めたらやめてくれたのも、たまたまだったに違いない。
作業員たちの声を届けてくれたのも、単なる気まぐれであろう。さほど意味のある会話でもなかった。
そんな彼らを御せるなど、微塵も思っていない。考えたこともなければ、これからも思うことはないだろう。
彼らは風の子。その名の通り自由であってほしい。
「よし、帰ろ。――うわっ」
足を踏み出すと、背中に風の塊を当てられた。
好き勝手に振る舞う彼らに、遠慮なぞいらぬ。湊もはばかることなく物申す。
「くだりは楽だから、追い風はいらないよ!」
大荷物だった登りの追い風は大変ありがたかったが、リュックが軽くなったいまは勢いがつきすぎて恐ろしい。
一歩が異様に幅広い湊が騒ぐ中、その周囲を楽しげに笑う風の精たちが蜂のように飛び交った。
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