26 海の幸をいただきます
山の幸もよいものだが、海の幸もまたよいものだ。
縁側前に設置したコンロの上にサザエを並べる湊は思う。
棘が際立つサザエは、近海からの産地直送便――風神と雷神の手土産だ。サザエはどれも身が太く、食べごたえがありそうだ。
赤々と力強く熱する炭の上、サザエの口の水分が沸き立つ。そこに醤油、酒、みりんの合わせ調味料をたらりと注ぐ。
ブクブクと茶色の泡が出る頃には、あたりに香ばしい香りが漂った。
縁側で酒を酌み交わしていた風神、雷神、山神だったが、今はコンロに釘付けだ。
とりわけ醤油味を好む雷神の反応は顕著で、ずっと機嫌よさそうに笑っている。
「香りだけでもお酒が進むわね」
「そう言いながらも、手は止まってるけどね」
隣の赤い手に握られた酒杯を一瞥した風神が宣った。
サザエから上がる蒸気の向こうの湊が笑う。
「雷様は甘めがお好きなようなので、みりんも入れておきました」
「ありがと〜!」
バチコーンッとハートマークが乱舞しそうな、盛大なるウインクが返ってきた。
本日の昼食会は、湊と三柱だけだ。
鳳凰は毎度のごとくお休み中。霊亀、応龍、麒麟はお出かけ中。眷属は来ていない。
給仕をいつも買って出てくれる眷属たちが不在のため、料理人自らこなしていた。
風神と雷神にはそのままのサザエを、山神の分は箸で身を刺して貝殻を回し、ぞろりと巻いた肝が出たものを。
サザエの壺焼きは今回が初めてになる。
湊の手際を見ていた人型の二柱は、見様見真似でサザエから身を取り出してみせた。
即座にできるあたり、器用なのだろう。
サザエといえば。とある楽しみ方を思い出した湊が提案する。
「食べ終わったら、貝殻に日本酒を注いで呑まれますか?」
あーんと大口を開け、むき身を口に入れようとしていた雷神がぴたりと停止した。
「――思いもよらなかったわ。人間はそんな風にして呑むの?」
「俺の父がそうやって呑みますね。残った煮汁と合わさってさらにうまいらしいですけど」
おちょこ一杯も呑めない湊ではわからぬけれども。
雷神は、その手につかんだ巻き貝をまじまじと眺めている。
それを後目に、湊は山神の皿にまたむき身を置いた。黒い鼻が渦巻き部分に近づき、深く深く香りを吸い込んでいる。
「この香りが、よき……」
うっとりとつぶやくその傍らにも、もう一つ大皿に載ったモノがある。
カツオのたたきだ。
サザエを焼く前に、皮がパリッとなるよう短時間で炙っておいた。新玉ねぎのスライスの上に、厚いカツオの切り身が並ぶ。
その赤い身の上には、緑の貝割れ菜、大葉、青ネギがふんだんに盛られている。
さらにたっぷりとかかるのは、にんにく、しょうがを利かせたポン酢醤油。山神のお気に入りである。
じっくり時間をかけてカツオを堪能していた山神だったが、熱された甘辛い醤油の吸引力には抗えなかったらしい。サザエに夢中になっている。
はふはふと蒸気を上げる、その眼はとろけきっている。
「――まことに、まことに罪深い味ぞ。この苦味がたいそうよき」
「……確かに、うまい」
湊は立ったまま、ほんの数秒で食べ終え、そうそうとコンロに戻っていく。
その後ろ姿を眺めながら、山神がゆるく
「早食いはやめよと、いくら云うても一向に聞かぬ」
「そうねぇ。でもまぁ、言っても聞かないのは、お互い様じゃない」
さらりと雷神に突っ込まれようと山神は気にもかけない。まぐまぐとサザエを頬張った。
「いちおう噛んではいるみたいだから、問題ないでしょう」
風神の声を背中で聞きながら、湊は鋳鉄製の鍋――ダッチオーブンにオリーブオイルを回し入れる。
手早くみじん切りにしたにんにくを入れて軽く炒めつつ、玉ねぎも刻んでいく。
箸でカツオをつまんだ雷神が、鼻を鳴らした。
「にんにくの香りってどうしてこうも魅惑的なのかしら」
「すっかり気に入ったみたいだね」
「ええ、ほんと。ここでお呼ばれして初めて食べた時は、衝撃だったわねぇ」
神々の会話に耳を傾けながらも、湊の手は絶えず動いている。
玉ねぎが透き通るまで炒めたら、生米を投入。黒光りする鍋の横、小さな台の上には、下処理された魚介類が準備されている。大振りな皮付きのエビ、イカ、あさり。
むろん風神雷神のおみやである。
いそいそと湊がつくっているのは、パエリアだ。
山神一家は、米類は一切食べない。
ほぼ酒しか呑まない四霊も言わずもがな。
風神雷神は好んで食す。ゆえに彼らが遊びに訪れた際、必ずご飯物にしていた。
いつも海の幸を携えて来てくれるゆえ、それを使ったものにしているが、今日は洋風にしてみた。
魚介類の旨味を凝縮した米は、風神雷神もきっとお気に召してくれるだろう。
ブイヨンスープと魚介類を入れた鍋がふつふつと沸騰しはじめると、湊が蓋をかぶせた。
パエリアはスペインの家庭料理で、さして手間もかからず美味しくできる。昔からよくつくっており、手慣れたものだ。
湊の実家は温泉宿を経営し、両親は多忙を極める。
そのうえ祖父が『男も女も関係ねぇ。てめぇの面倒はてめぇでみるのが当然だ』を信条としていた。
そのため、湊と六つ歳上の兄も幼少期から家事全般を叩き込まれている。
湊は実家を出て、楠木家の教育方針のありがたみを痛感していた。生活する上で何も困らないからだ。
特に料理である。
誰しも実家の味――幼き頃から慣れ親しんだ味は、特別なものであろう。気軽に口にできない状況に置かれると、なおさらその味が恋しくなることもある。
しかし湊はいざそんな時が訪れても、何も困らない。苦もなくすべて再現できる。
「そうは言っても母さんの味には及ばないけど」
しみじみとつぶやき、鍋の蓋を開けてパプリカを並べ、蓋を戻した。
食材、調味料、手順。全部同じにしても、味が微妙に違うように感じるのは不思議なものだ。
『もちろん家族への愛情をたっぷり込めてつくってるからよ』と臆面もなく言い切るのが楠木母である。
ほどなくしてパエリアが炊き上がった。
風神と雷神に配膳を終えた湊は、ようやく縁側に腰を落ち着けた。
こんもりとパエリアが盛られた小皿に雷神が鼻を近づけ、香りを楽しむ。風神も嬉しげに、箸でエビをつまんだ。
一方、湊は、もう半分近く平らげていた。
決してガツガツとかき込む食べ方をしているわけではない。所作は至って綺麗ではあるが、涼しい顔でしかと噛んでいるのか疑わしい速度で消化していくのであった。
そんな湊を見た雷神が思わずといった具合に問いかける。
「お味のほどはいかがかしら?」
「もちろん、美味しいです」
湊は即、飲み込んで答えた。
「そうだ、忘れてた。いいお酒があったんだ。すぐ持ってきますね」
「ああ、うん。うれしいけど、食べたあとでいいよ」
皿を脇に置き、膝を立てた湊を風神が制した。
いまだ温泉宿の従業員体質が抜けていない湊は、食事中であろうと忙しない。
「ゆっくり食せ。我らまで落ち着かぬ」
「――わかった」
とうとう山神にまで言われてしまった。
やがて空き皿が増えてきた頃、とっておきの純米大吟醸酒が風神と雷神に振る舞われた。
これは、珍しく湊が望んで購入した品だ。行きつけの
常日頃からお世話になっている風力を貸し与えてくれた風神への御礼が込められている。
なかなか入手しづらい逸品をいとも容易く入手できるあたり、
風神が底に蛇の目模様が描かれたグラスに鼻を寄せる。芳醇な香りを確認して笑顔になった。
「果物の香りがする。これ、冷やしたほうがもっと香りが引き立ちそうだね」
風神と雷神は基本的に常温の酒を好むが、時折冷酒か熱燗を求めることがある。
かといって、湊の仕事が増えるわけでもない。
自分たちで好きに温度を変えられるからだ。
風神が手元に視線を落とす。
即座、
毎回、湊は風神の御業に見入っている。
今日もまじまじと真横から観察していると、冷気が漂ってきた。二の腕に鳥肌が立っても、瞬間的なものですぐに収まる。
たった数秒程度で、常温だった酒がひえひえになってしまった。
表面が白く曇ったグラスを風神が呷ると、底の蛇の目と山神の眼が合った。
風神はいつも一気に喉に流し込むように呑む。
味わうといった風情ではないが、酒の楽しみ方はそれぞれ。満足してくれるのであれば、文句はない。
「うん、冷やしたほうが喉越しもいい」
「そう? アタシはあっためて呑もーっと」
雷神が両手でグラスを包むように持った。
あたりにわずかに熱気が漂う。急激に温度が上がった酒から、強い酒気が放たれ、湯気も立ち上った。
気軽に行使される御業に、湊はただ感心するしかない。
雷を発生させるでもなく、酒の温度のみを上昇させてしまうその仕組みは、まったくもって理解できない。
が、目を奪われてしまう。そうして――。
「いつも思うんですけど、すごい便利ですよね」
パッと雷神は華やかに笑い、身を乗り出してきた。
「でっしょ、でっしょ! そうよ〜、すっごく便利なんだから。アタシの力もほしくなった? 貸してあげようか?」
「あ、つまみ足りてないですね。持ってきます」
隙あらば自らの力を与えようとしてくる雷神に対し、湊はそつなくスルーできるようになっていた。
「カツオはまだ十分残っておるぞ」
が、いまだカツオに舌鼓を打つ山神に止められた。
その目前にある皿は、まだ半分ほど埋まっている。とことん味わう御方は、食のスピードも極めて遅い。
風神と雷神用の食べ物もまだふんだんにある。
逃げを打とうとしていた湊が諦めて急須をつかみ、自分の湯飲みに茶を注いだ。
「ところで、風の声が聞こえはじめたよね」
風神がなんの脈絡もなく問いかけてきた。
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