25 祓いたまえ、清めたまえ



 田んぼ側の空。ひらけた田園からもっと先、小高い山のいただきあたり。

 青空に黒い点が浮かんでいた。


 少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 その丸が拡大していくと、薄黒い霧がいくつもの黒点を覆っているのだと知れた。


 またも、瘴気をまとう塊が迫ってきた。


 しかしその速度は、先日の麒麟には到底及ばず、はるかに遅い。


 よいせ、と川から霊亀と応龍が上がった。

 霊亀が屋根で佇む麒麟を見やる。


『通常の動物では、あやつほどの疾さは出せんからな』

『それが唯一の取り柄なり。なれど悪しきモノにまとわりつかれる体たらく』

『応龍殿、うるさいですよ』


 麒麟が眼下をふよふよと漂う応龍を吊り上げた眼で見下ろした。



 その下の縁側にて。

 座卓の中央にいた鳳凰が静かに歩み出す。

 寝そべった山神が空を睨む鳳凰へと視線を流した。


『そこでじっとしておれ。湊が気に病む』


 鳳凰が止まった。

 だがその足は前へといきたそうで、翼も軽く開いている。いても立ってもいられないのだろう。


 なぜなら、向かってくる黒い集団は、大勢の鳥だからだ。

 大きいモノから小さいモノまで、多様な野鳥――鳳凰の子たちだった。


 通常なら、色とりどりの鮮やかな体色を有する全員が穢れをまとい、汚泥の黒に塗りつぶされている。

 湊の視界には、野鳥の集団が甲高く鳴きながら飛来してくるようにしか見えていない。


 けれども、空を眺めるただならぬ一同の様子から、察していた。

 先日と同じ穢れたモノが近づいてきているのだろう、と。


 湊が足元を見やる。洗う前の硯にはまだ墨が残っている。

 それに真白の筆を浸し、根本まで黒に染め上げた。




 筆を携えた湊が表門から出た時、真っ先に飛来したのは、カッコウだった。

 砂利道に降り立ったものの、しきりに翼をバタつかせている。体にまとわりつく穢れを必死に振り祓おうとしていた。


 その程度の動作で、その身を取り巻く穢れが祓えるはずもない。


 湊が歩み寄ると翼を畳んだ。

 なれど首を振り続けており、苦しんでいるのが見て取れた。

 筆を向けると、大人しくなる。

 その額に、祓いの力を込めて縦の線を引いた。

 筆の先が額から離れる前には、穢れは爆ぜて消し飛んでいた。


 あっさりと苦痛が消えたであろう白いカッコウが何度も瞬いた。


 次々に野鳥が転がり込んでくる。

 門前までたどりついた鳥は、それぞれ耐えきれぬように、鳴き声を上げて暴れる。


 湊は、無数の羽根が舞う中、野鳥一羽、一羽の頭や翼に墨を入れていく。

 三十羽目――ツバメの額に入れた線はとうにかすれていた。

 だが筆を離した時には、穢れなど微塵も残っていない。



 野鳥に囲まれた湊が空を見上げる。

 もう鳥の影も形もない、鳴き声も羽音も聞こえない。

 敷地外のクスノキが風に吹かれ、ざわついた。


「そのツバメで最後ぞ」


 格子戸の向こう、敷地内に鎮座している山神が宣った。

 その黒い鼻先は、境界のぎりぎりの位置にある。


 たとえ巨躯に戻ったとしても、穢れの塊に近づこうものなら、湊の眦がキリキリ上がるであろうことは容易に予想できる。

 忙しい湊に余計な気遣いをさせない配慮だった。


 現に、山神へと視線を向けた湊は安堵していた。


「みんな、鳥さんに会いに来たんだよね」


 見上げてくる野鳥は、誰も彼もお初にお目にかかる種ばかり。遠い地からわざわざ訪れたのだろう。


「もう中に入っていいよ。鳥さんに、会いにいきなよ」

「その前に、湯に入るがよい。だいぶ疲弊しておる」


 言われてみれば、目に生気もなく、羽も荒れているようだ。

 湊が格子戸を全開にすると、飛んで、跳ねて、のっそり歩いて。ぞろぞろと野鳥集団が表門をくぐっていった。




 ドボン、ドボン。相次いで野鳥が露天風呂に飛び込んだ。三十羽すべて入ってしまえば、やや窮屈なものの、まだ余裕はある。


 しばらく湯につかっているだけだったが、次第に、泳いだり、翼をバタつかせたり。ほんの数分程度で活力を取り戻したようだ。

 

 恐るべき即効性である。


 それを囲い岩の外から湊が立って眺めていた。

 その傍らにお座りした山神が深く頷く。


「うむ。生き返ったな」

「その言葉がぴったりくる変わりようだったね。まさに劇的な効果だった。鳥たちがいきいきして、羽の艶も増してる。疲れが取れるのは俺も身をもって知ってるけど、正直ここまではっきりと変化が出るとは思ってもみなかった。鳥たちは、小柄だから効果が高いとか?」

「今は特別に疲労回復の効果を上げておるゆえ、ぞ」

「もしかして、この前の麒麟さんの時も?」

「左様」


 いつの間にか山神が温泉をいじっていたらしい。

 湊が温泉をのぞき込む。水面に羽根が浮いている以外は、何も違いはない。


「――いや、いつもより湯気が少ないような気がする」

「ぬるま湯に近い温度まで下げたゆえ」

「おお、山神様、お優しい」


 ふんぞり返る大狼の傍ら、野鳥たちが一羽、また一羽と温泉から飛び出していく。震わせるその身から方々に水しぶきが飛んだ。

 致し方あるまい。彼らは普通の動物で、神々のように上がった瞬間に乾くはずもないのだから。



 湊が仕方なさそうに笑う中、鳳凰が座卓から飛び立つ。鳳凰は神力を遣って飛ぶため、その羽ばたきは遅い。


 ぱたぱたと滑るように飛んで、石灯籠に止まると振り返る。こちらを見やり「ピッ!」と鋭く鳴いた。

 野鳥たちが一斉にそこへと向かっていく。

 露天風呂の周囲は水浸しになって、ペタペタといくつもの足跡を付けていった。


 鳳凰は、彼らが縁側に集まらないよう、石灯籠に誘導してくれたのだろう。


「鳥さん、気を使ってくれたのかな。それにしても、この前も思ったけど……すごい統率力だよね」

「うむ。よくしつけが行き届いておる」

「鳥さんがしつけたわけでもなさそうだけど」


 言いながら温泉を見やれば、お湯はにごっていて、羽根がいくつも浮いていた。


「温泉だけ先に掃除しよう。でも羽根だけ取り除いてもにごりはどうしようもないな……」

「どれ、我に任せておけ」


 山神が囲いの岩の一つにぽんと前足を乗せた。

 一瞬にして、にごりも羽根も消えてしまう。

 常通り、湯の花が漂うとろみ湯に戻ってしまった。ほかほかと湯気も上がりはじめる。

 湊が山神に向かって合掌する。


「山神様、ありがとうございます」

「なあに、これしきのこと。造作もないわ」


 自慢気に胸を張り、盛大に尾も振られる。


「じゃあ、縁側に戻ろうか」


 湊がひと声かけて、背を見せた。


 その斜め後方、山神が田んぼ側の空へと鼻先を向ける。

 薄い雲が漂う青空が広がるだけで、もう穢れなどどこにもない。


 が、両眼を眇め、くんと小さく鼻を鳴らす。

 わずかに鼻筋にシワを寄せ、不快げに顔を背けた。

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