4 おこさまな神も学ぶ





「木に目印をつけるつもりなのかなぁ……」


 映像越しでは止めることもできず、湊が憂鬱そうにつぶやくと、案の定その男はナイフを幹に入れた。

 鋭利な刃は容易に樹皮を切り裂く。ぱらぱらと樹皮がはがれ落ちていく様を見て、カエンが憤った。


「勝手な人間じゃ! 自身の身体や家のモノに他者が同様に傷を入れても笑って許せるとでもいうのかッ」


 腹ばいになったカエンを覆う砂の温度が上昇し、湯気が立ち上った。

 カッカと燃えたぎるエゾモモンガに、両手ですくったやや冷たい砂をかけながら湊は思う。

 この人間の身勝手な振る舞いをカエンにも見せてよかったのだろうかと。


 カエンはその昔、術者によって剣に降ろされ、放置された恨みをいまだ忘れられずにいる。ゆえに、人間そのものにあまりいい印象を持っていないのだ。


 湊は物言いたげに山神を見やった。


「隠してもこやつのためにならぬ。そのうえじきに山へいかせるゆえ、慣れておかねばならぬ」

「――そうだよね。山神さんちにいっていきなりこんな光景を目の当たりにしたら、周辺の物を燃やしてしまいかねないよね」


 むくっと立ち上がったカエンが、砂をふるい落とした。


「麿はもう、そのようなヘマはせんぞ!」


 その身には一粒の砂も残っていない。整った被毛もうっすら神気のベールに覆われており、神力を遣いこなせているのだと主張した。

 山神はその身を一瞥し、双眸を細めた。


「ならば、その身の内で暴れておる神気を鎮めよ。たったこれしきのことで心を乱すでないわ」


 湊もカエンを凝視してみると、その身の中心部でまさに炎のようにゆらめく神気が視えた。そして、うっすら熱気が漂ってくるのも感じる。

 カエンが小さく唸った。まだ力の制御は完璧ではないことを自身でも自覚しているのだろう。

 カエンは口答えすることなく、ささっとヒゲを整えて湊の横に座り込んだ。ぴるると背中に背負った尻尾が時折震えるのは、心の安寧を取り戻そうと努めているようだ。


 ふたたび一様に水の画面に注目した時、烏天狗が若者の背後から襲い掛かるところであった。


「あ!」


 湊はつい驚きの声をあげてしまった。

 その間、烏天狗の鉤爪がリュックを引き裂く。驚愕の声をあげて尻もちをついた若者の横を、烏天狗は飛びながら吐き捨てるように告げた。


「お前にも目印をつけてやったぞ」

「は、はあ!?」


 目を白黒させながらも若者は「なんのだよ!」と声を荒らげた。反射でそう言っただけだったのであろう。飛び去る烏天狗の姿を呆然と見送っている。理解が追いついていないらしきその破れたリュックからスマホがこぼれ落ちた。

 派手な落下音がして若者が振り向くも、板状の黒い物は容赦なく斜面を転がり落ち、ぬかるみに飛び込んでしまった。

 あっけなく沈んでいくそこに、悲鳴をあげながら若者が駆け寄っていった。




「――やりすぎでは?」


 身を乗り出していた湊が横を向いて言うと、カエンは黙したままだが、山神は顎をしゃくった。


「まだ続きがある。とくと観ておくがよい」


 湊が顔を戻したら、若者がぬかるみのぎりぎりの位置まで、四つん這いで近寄っていく場面であった。


「ちくしょう、どうしてくれるんだよ!」


 若者が悪態をついた時、にゅっとぬかるみから泥の塊がせり上がった。

 頭部、胴体、下半身の順でお目見えしたそれは、人の形をしている。すらりとした痩身、裾の広がった長衣。恐ろしいほどに整った相貌に、聖母のごとき笑みをたたえた美女であった。


 ただし、泥だらけである。


 目も口もかっぴらいた若者の顔の前に、泥を滴らせた右手が差し伸べられた。そこには、目にもまばゆい板状の物がある。


「あなたが落としたのは、この金のスマホですか? それともこちらの銀のスマホですか?」


 泥の女神は左手の銀のスマホを見せびらかすように振りながら、涼やかな声で尋ねた。

 若者はしばし呆気に取られていたが、唐突に正気に戻って首を左右へ振った。


「ち、違う。俺のスマホは金でも銀でもない。なんの変哲もない黒いやつなんだ」




「おお!」


 湊は感嘆の声をあげ、笑顔でカエンに話しかけた。


「あの人、正直者ではあるみたいだね」

「木に残った傷はなかなか消えんのじゃ」

「ソ、ソウデスネ」


 恨みつらみはそう簡単には消えんと言いたげであるが、その眼は画面に釘づけだ。

 湊は気を取り直し、山神に訊いた。


「ところであの泥の女神様は、たぬ蔵さんだよね?」

「ほう、よう気づいたな」

「あんな洒落っ気、というかおふざけをするのはたぬ蔵さんくらいだろうと思って」

「左様、あのように変化そのものを楽しむ妖怪はやつをおいて他におらぬ。我が山には、であるが」


 山神が呆れ混じりのため息をついた時、画面の泥の女神が、若者に黒いスマホを渡した。女神が舌打ちでもしそうな不満顔であったのは、ご愛嬌であろう。


 のろりと山神が寝返りを打つと砂が勝手に移動し、その身を覆い尽くした。奇妙な露天風呂である。それはいいとして、山神が教えてくれた。


「他の妖怪が人間への仕返しをやりすぎた場合、たいていあの古狸ふるだぬきがふぉろーしておるゆえ、さほど心配せずともよい」

「じゃあたぬ蔵さん、結構苦労してるのかな」

「なあに、あやつはそれすら楽しんでおるわ。なんだかんだ云うて人間を好むうえ、構いたがりぞ」

「それもそうか。そうじゃなきゃ、ここにも遊びにこないだろうし、積極的に人の言葉を覚えようともしないよね。よくあんな西洋のおとぎ話を知っていたなと感心するしかないけど」


 湊が笑って言うと、カエンがポツリとつぶやいた。


「――ただの石に祈るのか」


 湊もまた画面へ目をやると、熱心に大石を拝んでいる者が映っていた。まさかまたたぬ蔵が化けた姿かと一瞬疑ったものの、違った。

 それは、道脇に絶妙な角度で折り重なる巨石の中の一つであった。

 湊とウツギが、山の整備中に切るのがもったいないという理由と、誰かしらが神の宿りし石だと思ってくれたらいいと考え、並べておいた物だ。


「お、その石がお気に召されましたか。お目が高い」


 顔を綻ばせていると、カエンに訝しげに見上げられた。


「あの石には神どころか精霊も宿っておらん。祈ったところでなにも利益なんぞ得られんのじゃ」

「それでもいいんだよ」


 あっけらかんと言うと、カエンは瞠目した。


「ご利益を本気で期待しているわけでもない。いや、中にはそういう人もいるかもしれないけど、祈る行為自体が大切というかなんというか……。うまくいえないけど、信仰心をもっている人は強く在れるからね」


 考えつつ話したあと、悪童めいた笑みを浮かべる。


「それにみんながそう信じていれば、いつか本当にあの石に神様か精霊が宿るかもしれないよね?」


 うつむきがちなカエンを山神が見やる。


「石や他のモノにも神や精霊が宿っておるかいなか、判別できる者なぞ現代ではろくにおらぬ」


 カエンが弾かれたように顔を上げた。


「――わからんというか? まったく? 微塵も?」

「そうだよ。ほとんどの人はわからない。――わかるという人もいるけど、その言葉を本気で信じる人もあまりいないと思う」


 湊が言ったその事実は、カエンに言葉を失わせるほどの衝撃をもたらしたようだ。

 湊はもの言いたげに山神へ視線を送った。


「放っておくがよい。己が心に折り合いをつけておるところぞ。お主は画面でも眺めておけばよい」


 うんと答え、湊は横になりつつ画面を見た。


 ゆるやかな傾斜の道は、山の入口付近だろう。

 それなりに道幅はあるものの、登山服を着込んだ家族と思しき四人は、一列に並んで歩んでいる。

 父、妹、兄、母の順であろう。小学生らしき妹が花の咲き乱れる林床へと目を向けて笑顔になった。


「あ! お父さん、あそこにキレイなお花が咲いてるよ!」

「勇んでいくなよ〜、眺めるだけにしとけ〜」


 父にからかい半分に止められ、妹がぶーたれる。


「えーなんでー? 山では登山道しか歩いちゃいけないのは知ってるよ。でもここはまだ山に入ってないんだからいいでしょ」

「いや、登山口はもう目前だ。斜面になっているここも山とみなすべきだ。よって隊列を乱すんじゃなーい」

「あなたもね」


 兄のふざけた台詞に母も笑っているが、先頭の父が登山口に突入する直前、勢いよく振り返った。

 その顔は真顔である。立ち止まった三名は顎を引いた。


「お前たち、心の準備はいいか。これから先は言動に細心の注意を払うんだぞ」

「どうして?」


 妹のみが不思議そうに訊くと、父は鬼気迫る顔になった。


「ここの山の神様は、とんでもなくおっかないからだ」

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