3 ちょいと変わった〝山神のゆ〟





 ともあれ一日の仕事を済ませたなら、風呂である。まだ日は高いが気にしない。

 むろん入るのは、露天風呂だ。そこはいま、普段と異なる様相となっている。一面が砂場と化し、湊、山神、カエンの頭部だけが出た、三つの砂山ができていた。

 砂浴中である。


 大変いまさらだが、この露天風呂はちょっと、否、だいぶ変わっている。

 山神の気分次第で泉質がいかようにでも変更できるのだ。硫黄泉、炭酸泉、塩化物泉、泥風呂などなど。

 今日は湊が実家でも温泉に入ってきたこともあり、変わり種にしようと砂風呂と相なった。それぞれの頭部に優しい影をつくってくれる和傘も掛かっている。


「俺、砂風呂ってはじめてなんだけど、結構暑いものなんだね」


 顔中からタラタラ汗を流しつつ湊が言うと、その顔のそばのボールサイズ――カエンもモゾモゾ動いた。


「ううう、麿もこの蒸し暑さは耐えがたいのじゃ」

「お主ら、砂風呂とはかようなものぞ」


 重々しく宣った山神であったが、むずがるように首を振った。


「しかしちと蒸すな。温度を下げようぞ」


 天上天下唯我独尊を地でいく山の神は、とことん己に甘い。

 すぐさま真夏の閉め切った部屋並みの蒸し暑さが和らぎ、湊とカエンが同時に深く息を吐いた。


「あー、なんかいい。すごい力が抜ける……」


 湊がため息混じりに言うと、伏せていたカエンも緩慢に首を左右へ振った。


「ふむ、麿も眠くなってきたのじゃ」


 湊は軽く笑った。

 それからしばし砂との一体感を楽しんでいると、山神が盛大に顔をしかめた。


「ぬ、妖怪らが騒いでおる」

「御山で?」

「左様。あれらは無駄に騒動を起こしよる。――ぬぅ、こちらもか」


 半眼になって、少しだけ鼻先を斜め上へ下へと動かした。騒いでいるらしき妖怪がいる方向を指しているのかもしれない。

 湊はカエンとともに顔を横へ向けて、それを眺めた。


「山神さんが見えている景色ってどんな感じなんだろう? 同時にいろんな場面が見えているのなら、とんでもなく脳が忙しそうだよね」

「えらく大変だと思うのじゃ。麿も他の眷属と視界をいっぺんに共有した時、目の前の景色に別の三つの景色が重なって見えた。そして瞼を閉じても他の景色はみえて、混乱のあまり気を失ってしもうたのじゃ」


 ぽふんとカエンは砂に伏せた。その時のことを思い出して力が抜けたようだ。

 その状態で続けて言うには、いくら眷属といえども、一斉に視覚情報を共有することは基本的にしないという。


「そっか。じゃあ山神さんはもっと忙しいよね。自分の視界に加えて眷属みんなの視界、それから山全体もみえてるんだよね?」

「左様。しかし我にとってそれが当たり前であり、慣れてもおるゆえ大変でも忙しくもないぞ」


 山神は涼しい顔で言ってのけたものの、その眼はやはりどこか別の場所を気にしてか、忙しなく動いている。


 湊は御山へと視線を移した。

 雄大なその姿の全体像を視界に収めることなぞ不可能だ。山肌を覆う林冠の下の様子も、もちろん確認できない。人間にとって物理的な物、距離は大きな障害となる。


「――その場を動かなくても、いろんな場所のことを知ることができるのは、いかにも神様って感じだし、便利そうでもあるね」

「うむ。ならば、お主にも神の気分を味わわせてやろうぞ」


 それは見たくないモノやコトも、否が応でも見なければならないということだ。


「え、いや、ちょっ」


 迂闊な発言を訂正すべく起き上がろうと腹筋に力を入れた時、山神が砂の中から後ろ足を出した。後方へ向かってヒョイとひと蹴りするや、大池の水が面でせり上がった。

 宙に長方形の水の膜が浮き、向こう側の縁側と家屋がゆらめいた。


「映画のスクリーンみたいだ……」


 砂場に座した湊が呆然とつぶやくと、その水の画面いっぱいに木立と山道が映し出された。上から撮った映像のようだ。

 急勾配の山道を連なる人間たちが前傾姿勢で登っている。おのおのが浮かべる険しい表情、色鮮やかな登山服に滲む汗染み、背負うリュックについたお守り――黒い狐がゆれる様までも克明に見えた。


「あれはツムギのとこのお守りかな。というか、すごい鮮明だね!」


 湊が度肝を抜かれると、山神は自慢げに鼻息を吹いた。


「そうであろう、そうであろう。そのへんのてれびなぞ目ではなかろう」

「むー、麿の眼ではここまで明瞭にはみえんのじゃ」


 いつの間にか反転し、顔を画面の方へ向けていたカエンが唸る。山神はそのちんまりとした後ろ姿へ視線を送った。


「精進あるのみぞ」

「――わかっておるのじゃ」


 小生意気な物言いをされようと、山神が憤ることはない。


「ぬ、そうであったわ。ちょうどよい機会ぞ。お主も知っておいた方がよかろう。しかと観ておくがよい」


 と湊に言い、ふすっと鼻を鳴らして水の映像を変えた。


「うわ!」


 つい驚きの声をあげてしまったのは、水の画面が激しくゆれ出したからだ。上下にブレつつ、行く手を阻むような枝葉に何度もぶつかる。まるで撮影機を持った者が、とてつもない速度で林冠を移動しているようだ。


「そうか、これは眷属の誰かの眼が見ている景色なんだね」

「左様、ウツギぞ」


 山神が教えてくれる間も、画面の動きは止まらない。細い枝から枝へ飛び移り、幹を駆け下りたかと思えば、次は駆け上がる。

 目まぐるしい映像は己もともに移動しているかのようで、湊は自ずと身を乗り出し、拳に力をこめた。

 しかしそんなスリリングな展開は唐突に終わる。

 一挙に視界が開けて青空が映し出されたのち、瞬時に下がった。

 そうして投影されたのは、方形の塀で囲まれた家屋であった。

 その屋根の形、庭の面積、敷地外の木々の樹形。いずれも見慣れたモノであったが、湊は眉を寄せた。


「この家、だよね……?」


 疑問形なのには、理由がある。

 庭があまりにも殺風景であったからだ。ろくに木もなく、大部分を占める土の地面は均されてもいない。

 山神は何か言うでもしたわけでもないにもかかわらず、映像が拡大されていく。コンクリートの窪みがひょうたんの形をしていることに気づき、湊は顔を強張らせた。

 山神が静かな目を向けてきた。


「この家の庭は、常人の目にはかように見えておる」


 常人に、幽玄なる神の庭は見えない。

 湊がはじめてこの家を訪れた時の状態――作庭途中で放りだされた敷地が見えるのみだ。

 麒麟から聞かされた事柄が脳裏をよぎった。

 この敷地内は、神界と現世が絶妙に入り混じっているのだと。それは山神が常に調整を行っているからだと。


「――そうか、そうだよね……。でも他の人にはここは見えていない方がいいよね。クスノキが急に大きくなったり、頻繁に庭の様相も変わったりするから騒ぎになりそうだし。なにより入浴時の素っ裸を見られるのも困る」


 なにせこの露天風呂には、屋根もなければ衝立もない。開放的すぎる。

 それをいままで毛ほども気にしていなかったことにいささか羞恥を覚えるも、山神が配慮していてくれたのなら、誰にも見られていなかったはずである。

 そうであってくれと切に願いつつ、湊が水の画面を見ると、またも映像が切り替わった。

 寝返りを打ちつつ、山神は言った。


「次は、セリが見ておる景色ぞ」


 厚く茂る樹冠の枝に、仁王立ちする異形のモノが映し出された。人型の胴体に、烏の頭部と翼。修験者の装束をまとい、手には錫杖。


「あ、烏天狗だ」


 先日出会った妖怪である。

 性格が厳しいようで、山で悪さ――ゴミのポイ捨てや野生動物にいたずらをする人間に対し、相応の仕返しをする妖怪の代表格だ。

 現にいまも、道なき道を歩む一人の人間を睥睨している。

 監視されているのは、若い男だ。首にカメラを掛けていることから、野生動物を目当てに山に来たのだろう。

 その若者を画面越しに眺め、湊も渋面になった。


「できれば、整備した道以外は歩いてほしくないんだけど」


 山の所有者でもないのに、ついそう言ってしまった。山神も頷く。


「人間がみだりに踏み入れば、山は様変わりするゆえ……」


 人間にとってはただ歩いただけという感覚だろうが、植物にとっては違う。人間――とりわけ底の固い登山靴で踏まれた箇所は固くなって居心地が悪くなる。一度踏み荒らされたら、二度と生えなくなる草花も少なくないのだ。


 けれどもそんなことは知ったことかと言わんばかりに、若者は花の群生地を踏み分け、山の奥へと分け入っていく。途中、周囲を見回し、大木の横で立ち止まった。

 その手が胸のポケットから取り出したのは、小さなナイフであった。




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