2 引っ越し準備中




「早い。もうちと慎重に空間を広げるがよい」


 そう諭されたのは、エゾモモンガ――カエンであった。

 山神からやや離れた位置の床に座し、瞼を閉じて前足をそわつかせている。その間にカエンの神気が渦巻いているのを感じ、湊は棒立ちのままそこを注視した。

 虚空がたわみ、歪む。


「神域の入口だ……」


 見慣れたモノの呼称をつぶやくと、山神が視線のみを寄こしてきた。


「左様。こやつはいま己が住まいをつくっておる真っ最中ぞ」

「そっか。それができたらカエンもいよいよひとり立ちするんだね」


 もとより、神々が同一の神域に長く存在するのはありえない。

 互いの力が反発し、神域を壊しかねないからだ。

 カエンがいままでここでのんびり過ごせていたのは、弱っていたからに他ならない。


 グッと力んだカエンが尻尾を膨らませた。途端、前足の間で虚空が大きく波打つ。

 山神は鼻梁に皺を寄せた。


「広げすぎぞ。ぬしの身ならそう大きな空間住まいはいるまい」

「はじめてのわが家ゆえ、大きくしたいのじゃ!」

「欲張りよな……」


 ふすりと山神が鼻息を吹いたと同時、虚空の歪みが一挙に広がり、パアンッと音高く弾けた。

 その余波でクスノキの樹冠、風鈴の短冊、山神の毛皮、湊の髪までがあおられる。

 一斉に視線が集まり、カエンはしょんぼりと尻尾を垂らした。


「あと少しであったのに、壊れてしもうた。また一からやり直しじゃ……」


 山神は前足に顎を乗せつつ、穏やかに言った。


「それもまた学びぞ。コツはもうつかんだであろう。今度は、先ほどとは比較にならぬほど早くできるであろうよ」

「うむ!」

 拳をつくってやる気をみなぎらせるカエンに、湊も触発された。

「俺も護符書こう」


 いざ座卓についてしまえば、意気込むことはなく。いつも通り淡々と決まった手順をこなした。

 墨を磨り、和紙に筆で流れるように書きながら、祓いの力も込めていく。ちょうど準備していた最後の一字を書き終えた時、集中力が切れた。

 さすれば、周囲の音が耳に入ってくる。

 とはいえ筧から流れ落ちる水音のみだ。頭上のクスノキは通常の木のように立ち尽くし、葉は一枚足りともそよがせていない。


 湊は横手を見やった。

 大池の水面が軽く波打ち、敷地外の木々の葉も翻っていることから、それなりに風が吹いているのは疑うべくもない。

 クスノキのもとだけ無風なのであった。

 ここが変わった空間なのは今さらだが、それは山神によるものだ。こちらの気が散らないようにしてくれていたらしい。

 その大狼へ視線を向けると、伸ばした前足の間に顎を置き、眼を閉じていた。尻尾も床を這っており、くつろぎきっている。

 神域づくりに励んでいたカエンの姿もすでになく、珍しい山神の指導はとっくに終わっていた。


 湊は軽く息をつき、座卓に並ぶ護符を重ねていく。ふいに思ったことを山神に訊いた。


「播磨さんのお宅も、ここと似たような感じなのかな……?」


 明日、播磨邸に赴くこととなっている。


「さてな。あやつのとこの神は相当過保護なタチゆえ、ここ以上やもしれぬぞ」


 適当な物言いであったが、山神はみていないようでしかとみている。結構目ざとい。


「過保護というのは、播磨さんのこと? 強力な加護を与えられているとか?」

「否。あの眼鏡ではなく、いつぞや行き会うたあやつの血族の女たちのことぞ」


 その言い様なら、播磨は対象外なのだろう。

 そのあたりについて訊くのはためらわれ、護符の角を合わせつつ、別の事柄を尋ねた。


「そうなんだ……。播磨さんのところの神様は心配性なのかな」

「心配ゆえというより、執着されておるというべきであろうな。もとより人間と契る奇特な神ゆえ、その強さは並々ならぬものがあろうよ」


 思いがけない言葉に、湊は瞬く。


「そんなに? 人を伴侶に選ぶ神様ってそんなに珍しいの?」


 山神がやけに静謐な眼を向けてきた。


「よほどぞ。我も長らく存在しておるが、かような神はほとんど知らぬうえ、噂に聞いたこともさしてない」

「じゃあ、播磨さんのように神様の血を引いた人もあんまりいないってこと?」

「左様。我も直接相対したのは、かの眼鏡がはじめてであったぞ」

「播磨さんは希少な方だったんだね」

「うむ。しかしながら二神の力をもつおぬしの方がもっと珍しかろうよ。さらに世にも珍しい四霊の加護がついておる。稀有中の稀有ぞ」


 呆れた口調で言われ、いたたまれず湊は護符の束をとんとんと座卓で整える。

 湊はふと心に湧いた小さな不安を口にした。


「俺、播磨さんの親族の方々に珍獣扱いされないかな?」


 喉を震わせて嗤いながら山神は身を起こした。


「かような心配はいるまい。我への礼儀を忘れぬあの眼鏡の一族ならば、弁えておるであろうよ」

「山神さん、播磨さんのこと結構認めてるんだね」

「さてな」


 訊くと認めない天邪鬼は、大きなあくびをして喉奥を晒した。

 微苦笑しつつ、湊は想像を膨らませた。


「播磨さんのお宅は、どんな感じなんだろう……。播磨さんとあのお父さんの雰囲気から、いかにも高貴な家柄って感じがするよね」

「うむ、目を見張るような御殿やもしれぬな」

「――あ、なんか緊張してきた……」

「なあに、肩肘張る必要なぞなかろう。ただの家の見学とでも思えばよかろうて」


 湊はかすかに強張っていた顔面と上半身の力を抜いた。


「それもそうだね。代々陰陽師の家系なら、歴史のある木造の御屋敷かな。武家屋敷? 書院造りだっけ? そんな感じの平屋かもね。何畳あるのか訊くのも恐ろしいくらいの大広間もありそうだ。――いや、わからないけど」

「さてな。気楽に訪問すればよき」


 まるで小旅行にでも出かける前のように、あれこれ話すふたりの間をゆるやかな風が通り抜けていく。

 ちりん。風鈴の短冊が翻った。クスノキは梢をゆらして遊び、花手水鉢では応龍がうたた寝し、のんびり泳ぐ霊亀が渡り廊下をくぐり、縁側で鳳凰と麒麟がもたれあって寝ている。


 塀の上に座すエゾモモンガが見つめる方丈山の林冠がゆれ、所々からテン三匹の頭が飛び出した。

 そんな平穏な楠木邸と方丈山の上方で、雲間から徐々に太陽が姿を現した。


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