第8章
1 まったり楠木邸
湊は本日も、朝日が昇って間もなくから管理人業務に励んでいた。
早々と敷地内外の清掃を終え、新たな装いとなった庭へと足を踏み入れる。
庭の大部分を大池が占め、その中央にクスノキが立っている。その下に板張りがあり、部屋のようになっている。
「まだ見慣れないな」
つぶやいた時、石灯篭から飛び立った鳳凰の翼がキラリと煌めいた。羽ばたくことなく滑空し、縁側に降り立つ。畳まれていくその翼にはもう、産毛はない。その胴体にも。
立派な尾羽もあざやかな五色を見せつけている。それをくるりと振り回し、鳳凰はこちらに向いて胸を反らした。
気取った仕草であるが、その頭部だけは産毛に覆われたままで笑いを誘われる。
なれど笑うわけにもいかず、湊は微笑むだけにとどめた。
「鳥さん、だいぶ飛べるようになったみたいだね」
鳳凰はいままで、自らの翼ではなく霊妙なる力を用いて飛んでいた。翼が生えそろった今、飛行訓練に明け暮れている。
『そうだろう。このまま大空へも羽ばたいていけるぞ』
武者震いのごとく翼を震わせる鳳凰は元来、活動家である。かつてのように世界中を飛び回りたいあまり、はやる気持ちを抑えられないようだ。
『鳳凰殿、飛べるようにはなっても、力はいまだ完全に回復しておりません。まだこちらの住まいにお世話になっておくのが賢明というものです』
諌めるように告げたのは、縁側の中央で寝そべる麒麟であった。
なにおう、なんですかと鳳凰と言い合っていた麒麟であったが、急にこちらへ向いた。
『湊殿、お伝えしておきます。鳳凰殿を捕らえようとしたあの輩、無事に公の機関へ送られ、霊力の器を破壊されました。もう二度とよからぬ術を遣うことはできませんよ』
底冷えのする声に目つきであった。数日ほど留守にしていたと思えば、それを見届けに行っていたようだ。
「――悪霊も祓えなくなったってことか。よくそんな重い処置を施してくれたものだね」
『ええ、先日の泳州町でしたか。あちらの悪霊の件にも加担していた裏が取れていたとか、なんとか』
そのあたりは興味がないようで、どうでもよさそうだ。
『ですので、もう案じることはありません。――一応』
「そうだよね、あの人しか遣えない術じゃないんだよね?」
『――ええ、霊獣を捕らえる術は、昨今では禁呪とされているようですが、知っている、また遣える者もいるでしょうね。忌々しい……』
ヒゲを震わせる様は、どこか私怨も含んでいるように見えた。案の定、鳳凰が軽い口調で言った。
『そなたは昔、しばしばアレに捕まっていたからな』
湊がまじまじと麒麟を見ると、悔しげに足を踏み鳴らした。
『鳳凰殿、それは言わない約束ですよ!』
『はて、そうだったか?』
『なんですか、体が小さくなったからって記憶まで退行したとでもいうのですか!』
『そんなわけあるか!』
内容はともかく、口論するだけの元気があるのならばいいだろう。憂いは完全に晴れたわけではないが、ふたたび起こるか起こらないかわからないことを気にしてばかりもいられない。
近い内に、対抗できる
「ところで、鳥さんの頭部の毛が生えそろったら、完全に回復したってことになるんだよね?」
『ええ、そうです。ご覧なさい、この幼子のままの頭を! まだまだひよっこですよ!』
『麒麟、余を青二才のように言うんじゃない』
鳳凰はいまだ成長途中のナリとはいえ、それなりの年月存在してきた、いわば爺である。若造扱いされるのは我慢ならないようで、しきりに翼をばたつかせ、麒麟を威嚇している。
そんな彼らだが、もとよりウマが合うからか、すぐに諍いはなくなった。仲良く並んで日向ぼっこをはじめた。
湊はかすかに笑いながら渡り廊下へ上がった。
クスノキのもとへと向かう途中、際に立って見下ろす。水面がゆるやかに波打ち、澄み切った水底に敷き詰められた白い玉石が見えた。
つるりとしたその表面を眺めていると、手に取りたい衝動に駆られる。その思いはやけに強く、ふいに思った。
ここは神域である。一般的に神域にある物は小石一粒、落ち葉一枚であろうと、持ち出してはならないとされている。
すべて神の所有物だからだ。
ならばこの小石を一粒でも無断で持ち去った場合、やはり祟られるのだろうか。
「――いや、とらないけど」
しかしじっと眺めていれば、自ずと手にしたい気になってくるから不思議だ。
「ダメだ。遊んでる場合じゃなかった」
妙な感情を振り切るように顔を上げると、大池の真ん中にぽかりと表層をのぞかせた中島が見えた。その切り立つ岩石は、さも山のようだ。その傍らに、似たような形状の小さいモノが浮かんでいる。
「蓬莱山かな?」
不老不死の妙薬があるという伝説の山である。それを背負っているとされている霊亀がのんびりと泳いでいた。
『はてさて、なんのことやら。とんと心当たりはないぞい』
とぼけた物言いをした老獪な霊亀は、沈んでぷくぷくと水泡を立てた。
その台詞を聞いても、不老不死系のモノに興味のない湊が追及することはない。
「まぁ、そういうのは見慣れてるからね」
それを追い求め続けた過去の権力者たちに、嫉妬で焼き殺されそうだけれども。思いながら、湊は花手水鉢に至る。その縁に応龍が乗っており、浅く開かれた口がちょうど筧の先端部分に重なっている。
そのため応龍が水を吐き出しているように見えた。
「似合う」
ついそう賞賛してしまったのは、どこぞの神社や寺院で、同じような意匠の手水舎にお目にかかったことがあるからだ。
応龍が振り仰ぎ、長いヒゲがしなった。
『ん? なにか言うたか?』
「なんでもないよ。俺も水もらっていい?」
『朕に遠慮はいらん。浴びるほど飲むがいい』
不遜な言い方と態度だが、これが応龍の常態である。
鉢の中の瑞々しい花々に心を、筧からの御水で喉を潤してもらったあと、湊はクスノキを見上げた。
腕を伸ばしても跳んでもそのてっぺんには到底届かない。その傘めいた樹冠で日光を遮る様は、真下の板張りを護るようでとても頼もしい。
そこに踏み込むと、頭上の枝が振動し、それにぶら下がる付喪神の風鈴が涼やかな音を奏でた。
お仕事お疲れさまです。
クスノキともどもそう労ってくれているようで、自ずと笑みがこぼれた。
「ありがとう。今から護符を書かなきゃいけないんだけどね」
仕事上がりにはまだ早い。
クスノキの幹には、寄り添うように座卓が置かれている。そこを見れば必ず視界に入り込んでくる存在もあった。
白き大狼である。
お隣の山の神は、本日も当然のような顔をし、幹を背に横臥している。その巨躯を受け止める打ち直したばかりの座布団が悲鳴をあげていそうだが、致し方あるまい。
その山神が低い唸り声を発した。
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