5 山神さんはおっかない?
湊はカエンと同時に、その山の神を見やった。
砂に埋もれた大狼は大口を開けてあくびをするだけだ。恐ろしさなぞ毛ほどもない。いつも通りのグダグダ具合であった。
一方画面の中では、顔を強張らせた兄妹が喉を上下させた。
「お、お父さん、おっかないってどれくらい!? 山の神さまに転ばされたりするの!?」
「まさか山の神様を怒らせたら、山から帰れなくなるとか!?」
「あなた、脅しすぎではありませんか? 子どもたちが怯えてしまったじゃないですか」
夫人に諌められようと、夫はその表情を和らげることはない。声を落として続ける。
「会社の者や取引先の者たちが言うには、山の神の眷属である烏天狗や山爺がゴミを捨てた者に報復したり、勝手に花や果実をとった者はタヌキやキツネが奇妙な場所に放り込んだりするらしいぞ」
その内容を耳にし、湊は頭を抱えた。
「妖怪たちの仕返しが山神さんのせいにされてる……!」
「ふむぅ」
ヒゲを触るカエンも驚いているようだ。
一方山神は、砂から出した尻尾で己を仰ぐように動かし、余裕の態度であった。
「別に構わぬ。我は気にせぬ」
「いいの!?」
湊が詰め寄ろうと、山神は動じない。
「人間らにそう思われることなぞ、想定内である。妖怪らは我の山に住まうモノぞ。その振る舞いが気に入らぬのなら、とっくに放り出しておるわ」
「――山神さんがそれでいいのなら……」
不承不承ながらも湊はそう言うしかなかった。
その頃、画面の中の四人家族は、凍りついたように固まっていた。
ピュリリ、ピュリリと突如にぎやかな野鳥の声が鳴り渡り、家族の肩が下がる。父は一転して快活に笑った。
「しかしまぁ、ただ山登りをするだけならなにもされないらしいぞ!」
ほっと三名が気を抜くと、父は揚々と登山道へ踏み込んだ。ぞろぞろ連なる四人は、歩を進めるごとに笑顔を取り戻していく。
「お前たち、好きなだけ深呼吸しておけよ。山の息吹を感じるんだ。活力をたっぷりいただいて帰るぞ」
この父は少しばかり様子がおかしくても、害はない。むしろ理想的な登山客であろう。
しばし山の息吹をむさぼり食っていた四人の中、妹が落ちつきをなくし、口をムズムズと動かしはじめた。
「おい、歌うなよ」
背後から兄に注意されると、妹は口を引き結んで身を縮こまらせた。
「気分がよくなったから歌いたいのでしょうけど、ここではやめておいてね」
母もすれ違う登山者にあいさつを交わしたあと、困った顔で懇願した。
「なんで止めるんだろう。子どもなんだし、山登り中に歌ってもいいと思うんだけど……」
湊が訝しげに眉を寄せると、山神は妹の魂をじっと見た。
「――あの小娘、人間や野生動物をも魅了してやまぬ歌声の持ち主なのやもしれぬぞ」
「おお、歌姫《ディーバ》か! それはちょっと聞いてみたかったかも。残念だなぁ」
湊は知らぬ。彼女が気分よく歌うと悪霊を祓えるのだということを。ただし凄まじい音痴であることも、むろん知る由もなかった。
画面の中、四人家族がフェードアウトしていく途中、ピリッと神の庭の空気が冷えた。山神とカエンからただならぬ雰囲気を感じ、湊も身を固くした。
「ぬぅ、どいつもこいつも……」
不快げに唸る山神が鼻先を振ると、画面に薄暗い山中をねり歩く一人の中年男が映った。
「あの人がどうかした……?」
湊には理解できなかった。
その人物は、他の登山客とさほど変わらない出で立ちで、取り立てておかしな点は見受けられなかったからだ。
ただ、登山道から外れているのはいただけないといったところか。その表情も未知なる場所への期待感から高揚しているようであった。
「あやつが歩いておる場所に見覚えがあろう」
山神に言われ、湊は人物ではなくあたりの木々に注目した。
ハート型の葉は、カツラであろう。湿地を好む樹種である。中年男が手を触れた株立ちした幹も特徴的で、いつか見たような気がした。
「あっ、霊道のある場所が近いのかな」
「左様、もう少しでたどりつけよう」
その声は硬い。カエンも身じろぎもせず、画面を見つめている。
霊道とは、死した霊――魂が通る道であり、あの世へとつながっている。
それは湊も知っていた。それが山神の山にも存在することも、その場所も。一度だけ山神一家とともに訪れたことがあるからだ。
そこは泉の近くにあり、ろくに生物の息遣いのない異質な雰囲気の所であった。
不気味だったが、そこは山神の眷属たちが日夜監視しており、時折、霊道から外れてしまう霊がいても、しかるべき道の方へと誘導しているという。
ゆえに霊道が通っていようと、さして問題ではないと思っていた。
「霊道に人が近づくのはよくないことなのかな?」
「できるだけ近づかぬ方が身のためぞ。ふらりとそこへ入ってしまう恐れがある」
山神に軽い調子で告げられ、湊は顎が外れそうになった。
「俺はなんともなかったけど!?」
「あの時は我らがそばにおったのもあるが――」
山神が湊の魂を一瞥し、砂場にその身を伏せる。
「お主は心得ておるゆえ、たとえあの場に一人でいっても誘惑に打ち勝てよう」
「誘惑……?」
「よき機会である。これもよう観ておくがよい」
山神が顎を砂につけたと同時、カエンが身を乗り出し、鋭き声をあげた。
「あの者、様子がおかしくなったのじゃ!」
◯
好奇心に駆られ、輝いていた目から生気が抜ける。口も浅く開き、ぼんやりとした顔つきになった。
様子の一変したその中年男を、樹冠を移動しつつ追っていたテン――セリは顔をしかめた。
『まずいですね……』
その声なき声を聴くのは、トリカとウツギだ。
『だな。誘導をかけるぞ』
『我がやる!』
中年男の前方に、煌めく白い影――ウツギがジグザグに駆け抜けた。
立ち止まった中年男は、ごしごしと瞼をこすったのち、顔を上げる。
「リボンだ……」
木の枝に真っ赤なリボンが結ばれていた。
ウツギが目にも止まらぬ早さで仕掛けたまやかしである。異様に目立つそれは一つではなく、目指す方向と逆の方向へ点々と続いている。
中年男は一瞬考えた末、首を振った。
「誰がつけたかわからない物なんて信用できない」
『いや、しろよ。ウツギの心遣いを無駄にするなよ』
下草の茂みに隠れたトリカが不満げに言うも、中年男の斜め上の樹冠に紛れたセリはそうでもなかった。
『しかし実際、人間が括りつけた物は、かなり昔に付けられた場合が多いですからね。必ずしも安全な道へ導いてくれるとは限りません。だからこの男は、こんな状態になっても正常な判断ができているといえるかもしれません』
『まぁね。この山にも仕掛けられていた紐の先も、道が崩れて通れなくなってる所もあったからね~』
ひょうひょうと言いながらも、ウツギは木の幹にしがみつき、霊道の方へと向かっていく中年男の背中へ恨めしげな視線を送った。
元来、神とその眷属はやすやすと人間に姿を見せはしない。声もかけることもない。
ゆえに存在をも気取らせないよう、カラスの鳴き声を真似て騒ぎ立てたり、野生動物の警戒声を張り上げたり、林冠と下草を同時にざわつかせたり、中年男の顔面に虫の大群を送ったりと懸命に励んだ。
だがしかし効果はなかった。
汗だくの中年男は何かに急き立てられるように、下草がはびこる道なき道をブルドーザーもかくやの勢いで進んでいく。
その斜め後方を、ぴたりと三匹のテンが追走している。
セリは枝から枝へ飛び移った。
『ここまでしても引き返さないしつこい者は久しぶりですね』
『だな。たいていの者ならもう諦めるだろうに』
トリカも大きく跳躍し、中年男の真横の幹へと移動する。視界に飛び込んできたのは、中年男の恍惚とした顔であった。
『
歯噛みしたトリカの隣の幹にウツギが現れる。首を伸ばし、中年男が目指す先を見やった。
丸い額縁めいて茂る樹木の向こう、静謐な水面をたたえた泉が見えた。その際に黒い穴――洞穴の入口に似たモノがある。そこから長い帯状のモノがいくつもゆらめく様は、イソギンチャクの触手のようだ。
それらは常人の視界には映らないが、眷属たちには見えている。
一本の黒い帯状のモノが人間の手の形に変わり、すっと伸びてきた。もしそれにほんのわずかでも触れられたなら、中年男の命の保証はできかねる。
『ヤバイ!
振り返ったウツギの言葉を合図にしたかのように、突然、中年男の動作がギクシャクしはじめ、歩くのもままならなくなった。
まるで制御を失った機械人形のように。
『致し方ありません、かくなる上は!』
叫んだセリが枝から跳んだ。
中年男の前を横切りざま、伸ばした前足の爪で空間を引き裂く。
虚空が歪む、たわむ。
ふらりと傾いだ中年男の身体が、そこへ一歩踏み込んだ。その登山靴、脚、胴体、最後にリュックが消えた。
音もなく、一人の人間が山の中から消え失せてしまった。
かさりと枝葉がゆれるその場には、白いテン三匹の姿もない。手のごとき黒いモノだけが、名残惜しげに黒い穴へと戻っていった。
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