6 新たなこし餡菓子の情報を頼む
砂嵐のように変わった水の画面を凝視していた湊は、ため息とともに両肩に入っていた力を抜いた。
「――さっきの中年男性は、眷属たちの神域へ招待されたってことだよね」
伏せた体勢の山神は、両眼をつぶりつつ答える。
「うむ、その通りである」
「力技すぎる……とは言えないよね。あの男の人の様子は明らかにおかしかったから……」
一瞬口ごもるも、聞くのは恐ろしいが気になって仕方のないことを尋ねた。
「あの人はあのまま霊道に向かっていたら、どうなったの?」
「あの世へいったであろう。ただし魂のみである」
平たんな声で告げられた内容に、湊は息を呑んだ。
「――身体は霊道を通れないんだね。それもそうか、霊道への穴は人が通れそうなサイズじゃなかった……」
子どもが這って通るのも難しいであろう大きさであった。
山神はふすっと鼻を鳴らすのみで、肯定した。
「あの人の動きがぎこちなかったのは、魂が肉体から離れかけたせいだったとか?」
「左様」
「じゃあ、もしあのまま魂が抜けてあの世へ行ってしまっていたら、残された肉体はどうなってたの?」
「ほどなくして生命活動を停止したろう」
いわゆる、死だ。遠回しに宣告され、湊は二の句が継げなかった。その後は容易に想像がついたが、山神は容赦なく残酷な事実を口にする。
「されば、そう時も経たずに野生動物に食い荒らされたろうな。あっという間に腐乱死体のできあがりぞ」
「――だから、セリたちは人を霊道に近づかせないようにしてるんだね」
「左様。お主も好まぬであろう、隣の山に同族の死体の山が築かれるのは」
「絶対にいやだ」
嚙みつく勢いで答えた。
ともあれ、現実にそんなことは起きていない。少なくとも湊がこの地に引っ越してきてからはない。おそらくそれ以前は山神が弱っていたこともあり、起きていた可能性は高いだろう。
その者たちのご冥福を祈りつつも、疑問は尽きない。山神をはじめ、人ならざるものたちは基本的に事前に教えるということはしないが、訊けばたいてい素直に答えてくれる。
ゆえに矢継ぎ早に質問した。
「霊道に近づいた人が全員同じようになるわけじゃないんだよね? 俺は問題ないだろうってさっき山神さんが言ってたし」
「そうさな。誘惑に弱い、移り気、好奇心旺盛、注意力が散漫な者が多かろうよ」
「性格というか性質なのかな。性別とか年齢とか血筋とかは関係なく、個人の問題のような感じなんだね」
「うむ、鍛えようによっては克服できような」
「あの世へ惹かれないよう精神を鍛えましょうとは、さすがに他の人にいえないけど……」
「あいつはヤバイ、と遠巻きにされるであろうよ」
かねてより人々の営みを眺め、かつ個人とも接してきた山神は人間の性質をよく理解している。
「だよね……。あ、そうだ! あの人はどうするの!? どうなるの?」
「ちと魂が肉体から離れやすくなっておるゆえ、しばし眷属らの神域で過ごさせたのち現世に戻す」
「――時間は? 神域に入る前の時に戻してあげるの?」
「否。そこは現実の時間と同じ時が流れるようになっておるゆえ、あやつ次第のところはあるが、おおむねひと月ほど先になろう」
湊は顔を曇らせ、意味もなく砂を寄せ集めた。
「そんな……。御山で行方不明になった人がいるって騒がれるよ」
「やむをえまい。死ななかっただけマシであろうよ」
山神に冷淡に返され、湊は下唇を噛んだ。
「そうかもだけど……。元に戻った時も変だというか、確実に山の怪だと噂されると思う」
かずら橋を修繕した効果で、昔のように多くの人が山に訪れるようになったが、今度は恐ろしがって近づかなくなるかもしれない。ただでさえ妖怪たちが好き放題やっているのだ。そのうえ人間が消える怪異が起こるのならば、決定打になりかねないではないか。
湊はただ、地元ならびによその者たちにも愛される山であってほしいだけなのに。
のそりと山神が身を起こす。同時にその全身を覆っていた砂が雪崩を起こし、その場に鎮座する頃には、砂は一粒すら残っていなかった。
輝く白き体毛をなびかせつつ、大狼は口を開いた。
「噂もなにもない、真実である」
ゆるぎない言葉と放たれた冷涼なる神気に気圧され、湊は上半身を引いた。
真正面からひたと見据えてくる山神は、重々しく宣う。
「元来、山はお主ら人間が好んで住まう平地とは異なる領域、異界ぞ。そこに踏み入ってくるのならば、それ相応の覚悟をもってくるべきである。いかなる怪異にでくわそうと、文句を云うのは筋違いぞ」
その佇まいと神気でもって、一喝された。
湊は力なくうなだれるも、食い下がって中年男の素性を訊いた。せめて家族には知らせてあげようと思ったのだ。うまい言い訳はとっさに考えつかなかったけれども。
しかし山神は頑として教えてくれなかった。本来湊が知るはずもない情報であり、なおかつそれに煩わされることもないという。
「自ら残り時間を捨て去る愚行を避けられただけでも感謝すべきなのじゃ」
そっけない物言いをしたカエンも、やはり神ならではの冷淡さであった。
湊は怯みつつもその内容に引っかかりを覚えた。
「自ら残り時間を捨てるって、どういうこと?」
「生きとし生けるものは、この世に産まれた時にはすでに死ぬ時間が定められておる。いわゆる天命なのじゃ。あの世へ惹かれ、自ら霊道へ飛び込んでしまえば、その道半ばで終えるということとなる」
思わぬ情報に、湊は半ば呆然と山神を見やると、深く頷かれた。
「いわば、途中棄権ぞ。こなさなければならぬ試練を放棄したゆえ、ぺなるてぃを喰らう」
ゴクリと生唾を飲み下し、湊はこわごわと先を促した。
「どんな……?」
「いままで転生を繰り返し、積んできた徳をすべて失うことになる。振り出しに戻るというやつよ」
重すぎやしないかと思いはすれど、湊は口にできなかった。
「ついでにいえば、自ら命を絶った場合も同様である。死んだら楽になるなぞ、はなはだしい勘違いぞ」
眼を細めた山神がすげなく追加情報をくれて、湊は視線を落とし、背を丸めた。
静まり返ったその場に、ザザザと土を踏む足音が鳴った。
カエンと一緒に面を上げると、水の画面に一人の登山客が映し出されていた。平凡を絵に描いたような三十代の男だ。
「――十和田さんだ」
山神の愛読書――地域情報誌を発行している出版社の記者である。
その昔、かの出版社社長の先祖が山神に願いを叶えてもらった恩に報いるため、その情報誌には山神専用のページが設けられており、その記事の担当者でもある。
そんな彼は悪霊に憑かれやすい体質をしている。
たまたま街中で悪霊に襲われかけている所に遭遇した時、悪霊を祓うついでに木彫りを渡したのであった。
とはいえ、直接手渡してはいない。麒麟に山神の眷属のフリをしてもらい、山神からの施しであると告げさせて与えたのだ。
その経緯をカエンに説明すると、小首をかしげられた。
「なにゆえ、そのような迂遠な方法をとったのじゃ」
「まぁ、これを狙っていたんだよね」
湊が指をさした画面では、十和田が石の祠に到着したところであった。
湊が月に一度必ず清掃を行っている祠である。中には、山神の代わりに三つの丸い石が鎮座している。
十和田は、まず祠をくまなくチェックし、その屋根部分に乗っていた数枚の木の葉を取りのぞいた。
それから正面に立って、合掌する。軽く
「山神様、お礼参りにきました。その前にまずは謝罪を。参りにくるのが大変遅くなってしまい、誠に申し訳ありませんでした」
普通の声量である。その後方の山道を往来する人々の中には、微笑ましげな者もいるが、連れと嗤い合っている者たちもいる。
それが聞こえているだろうに、十和田は気にすることなく、祠に向かって謝罪を繰り返している。
「――いい加減行かなきゃ行かなきゃと思ってたんですけど、ちょっと仕事が忙しかったんすよね!」
時折地の口調が出るのは、ご愛嬌。
「あ、もちろん山神様好みの和菓子を探してたんですけど」
早口のその発言を聞き、山神の耳がピクピク動く。
「うむ、感心である。ひと月やふた月やそこらの歳月なぞ、我にとっては大した時間ではない。気に病むな。ぞんぶんに和菓子探しに精を出すがよい」
満足げにつぶやき、砂場に寝そべった。湊は苦笑するも、座したカエンはといえば、身じろぎもせず画面を見つめている。
十和田のみぞおち辺り――服の下にピンポン玉サイズの膨らみがある。おそらく木彫りだろうそこを十和田はそっと押さえた。
「この効果は、素晴らしいです」
あえて名称は言わなかったようだ。衆目を浴びているから、当然かもしれない。もし誰かに奪われるようなことがあれば悔やんでも悔やみきれまい。
肌身離さず持ち歩いているのも想像に難くなかった。目を凝らさずともそれが、煌々と翡翠色の光を放っているのも見て取れた。祓いの効果はまだ十二分に発揮できるだろう。たとえ切れたとしても、クスノキそのものの破邪の効果もある。
「首から掛けるなら木彫りでよかったよね、軽いし」
「うむ、そのまま風呂にも入れよう」
山神とのんきに会話をする間も、十和田の感謝の言葉は止まらない。そして最後に――。
「これからもこの御恩に報いるよう、記事を書き続けます。――この先、俺が担当じゃなくなっても、必ずこの意志は引き継いでいきます」
と宣誓した。その目はもう開かれている。
並々ならぬ決意を秘めたその姿を注視しつつ、カエンがポツリと言った。
「かような人間もおるのだな……」
感銘を受けたような雰囲気であった。
「たとえ木彫りの出処を勘違いしていたとしてもじゃ」
ははは、と湊は笑いながら、少しは人間を見直してくれたならいいと思った。
今日の観察というより、のぞきに近かったこの時間だが、カエンにとって大変有意義であったろう。
むろん己にとってもだ。いろいろ常人では知りえないことまで知ってしまったけれども。
水の画面の中で、十和田が祠に向かって深々とお辞儀をするのをしみじみと眺めていると、山神がのんびりとつぶやいた。
「いま観てきた景色が我には同時にみえておる。かように、な」
画面がいくつも分割されていく。その数は百どころの騒ぎではなく、湊は思わず目を固くつぶった。
「処理しきれない。頭が痛くなってきた」
「麿もじゃ……」
カエンと一緒に頭を抱えると、山神は笑ったあと口を開けた。
「それにしても喉が渇いたわ」
「――全然汗をかいている様子はなくても、喉は渇くんだね」
実はひっきりなしに汗を流していた湊も急にそれを思い出した。
そろそろ水分補給をせねば干からびかねない。それはまずい。何しろ明日は、播磨邸へ赴かなければならないのだ。体調は万全に整えておくべきだろう。大量の昼食も出てくるかもしれぬ。お残しは許されまい。
「麿も水が飲みたいのじゃ」
喉に触れるカエンを見て、湊は片膝を立てた。
「じゃあ、水を持ってくるよ」
「なあに、お主の手は煩わせぬ。ほれ、水ぞ。たあんと飲むがよい」
瞬時に砂場が水へと変わる。ドッボン、ボトン、ぽちゃん。悲鳴一つあがることなく大中小の水柱が立った。
即座に冷たい水中で目をかっぴらき、湊は口を開けて仰向けに沈んでいくエゾモモンガへと手を伸ばした。
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