5 湊流、休暇の過ごし方




 湊は休暇を満喫すべく、朝からまったり過ごしていた。

 むろん楠木邸の縁側で、である。

 湊曰く、遊びに出かけたら休暇にならない。体を休めることこそが目的なのだから、さらに疲れてどうする。家でゆっくりするのが一番だ。


 二十代半ばにして精神が老成した男にとって、当たり前の休日の過ごし方であった。


 その湊に付き合う面々がいる。

 座布団に埋まった大狼、滝壺周辺とクスノキの根元にそろった四霊、石灯籠で眠る神霊である。

 彼らを見渡した湊がつぶやいた。


「みんなのんびり過ごしてるようで、なにより」

「――うむ」


 うとうとしている山神がスローで相槌を打つ中、湊は御山へと目をやった。

 青空と緑の稜線が明確に分かれている。

 いま時分、その緑の下方で、大勢の職人たちがかずら橋を架けていることだろう。

 その様子を木の上から眷属たちが眺めているかもしれない。その近場に妖怪たちも潜んでいる可能性もある。

 彼らは約束を違えず、職人たちにちょっかいを出していないとセリが言っていたから心配はいらない……はずである。


「明日、工事の様子を見に行こうかな」

「そうさな――」


 山神の頭部がガクガク前後する中、湊は庭へと目を転じる。真っ先に視界に飛び込んできたのは、もちろん庭の主役たるクスノキだ。

 湊の胸部の位置まで樹高が伸びた神木は、今日もご機嫌である。


 朝方、たっぷり神水を浴びた樹冠を振って、輝きを振りまいている。時折ポロリと落ちる葉がクスノキの周辺を回ったり、空に舞い上がったり。再度地面に落ちてから、また空へ上がったりと不自然極まりない動きをしているのは、風の精の仕業である。


 いま神域は閉ざされている。

 そのため頻繁に訪れる野鳥たちは入ってこられないが、風の精たちはお構いなしに入ってくる。山神も咎めないため、彼らもまったく遠慮しない。

 とはいえ、庭中を飛んで葉を吹き上げて遊ぶくらいで、さしたる害はない。


 縁側のそばを一体の風の精が飛んでいく。

 途中、湊に風を吹き付けた。前髪が全部逆立った湊が、クルクル側転しながら飛んでいく風の精を視線で追う。


「あ、いまのはいつもの子だ」


 風の精の気配が、識別できるようになった。

 風の精はそれこそ数えきれないほど存在する。出かけた際、ちょっかいをかけてくるモノは毎回違うといってもいい。

 しかし極少数だが、たびたびそばにくる風の精がいる。

 いまのあたたかな波動の子がそうだ。よく髪をかき混ぜるから気配を覚えていた。

 今度は逆方向から風が吹いて、湊の髪が前から後へなびいた。


「お、キミも来てたんだ」


 この子はやや冷たい気配がする。

 よく背中に当たってくるからわかりやすい。いまも頭突きをかまし、ヒヤッと冷気を与えて逃げていった。

 この二体がたびたび楠木邸を訪れる。


「うむ。あやつらはしょっちゅうともに行動しておるゆえ」

「山神さん、風の精を全部見分けられるの?」

「むろん」

「――すごいな」


 得意げに鼻先を上げた山神の眼はパッチリ開いている。よっこらせと大儀そうに身を起こし、手元へ雑誌を引き寄せた。


 新・地域情報誌である。

 かつて、華やかでどこか女性向けの体であった表紙、中身は一新され、すっかりメンズ向けのシックな装いになっている。

 山神は女神ではなく、男神だと知ってしまった発行元――武蔵出版社の意向である。しかも厚みまで変わっており、もはや別雑誌のようだ。突然の変更に、おそらく長年の購読者の方々は戸惑ったに違いない。

 湊も行きつけの書店でしばらく探したくらいだ。


「ほんに特集記事が増えたものよ……」


 雑誌をめくる山神が呆れている。


「服に、靴に……小物……」


 その種類は多岐にわたり、いずれも若い男性をターゲットにした、南部にある店舗のみだ。


 山神が湊を見やった。

 それらはすべて、彼の気を引くためであろう。和菓子屋特集記事も増量されており、さも『山神様、今一度南部においでくださいませ』と言わんばかりである。


 しかしながら一見そう見えても、その実、記者たちが釣り上げたいのは、湊だ。


 山神が南部に赴かなくなって、百年をゆうに越える時が経過した。にもかかわらず、先日降って湧いたように突如訪れた。

 かつて一度も伴わなかった、人間と一緒に。

 それは、土地勘のない湊を案内するためだったからだと、出版社関係者は気づいたに違いない。

 ゆえに、ふたたび湊を南部に呼び寄せることができれば、山神もセットでくると踏んだのであろう。


「浅はかなものよ」


 と、こぼす山神だが、その声に辛辣さはない。

 実際今月号の酒屋の特集記事につられた湊に、きび団子屋へいかないかと誘われたことでもある。

 怠惰な山神が通い詰めるはずもないが、しばらく経ってから再訪してもいいかと考えている。


 ぼんやり庭を眺めていた湊が正面に向き直った。


「山神さん、なにか言った?」

「いや、なにも。――ほう、この菓子、洋菓子でもあり、和菓子でもあるとな……?」

「気になるのは、やっぱりお菓子なんだね」


 湊は座卓に肘をつき、顎を乗せた。

 山神はたとえ興味のない紙面であろうと、必ず目を通す。

 が、眺める時間が段違いで、和菓子関連のページだけはとにかく長く、他はおざなりである。


「当然であろう、我の関心はそこにしかないゆえ」


 そっけなく告げた山神は、紙面の上に折り目をつけた。


「清々しいほどの清さだね。でも、今月号は他のページもちゃんと見てあげた方がいいんじゃないかな。特に居酒屋さんのページ」

「なにゆえ」

「だって明らかに、他のページより多いよね」


 異様に居酒屋の情報が載っていたのであった。

 いずれの店もわざわざ〝和菓子あります!〟と太字で強調されており、これで気づかない方がどうかしているだろう。


「たぶん社長さんが、山神さんとお酒を呑みたいんだと思う」

「ふん」


 雑誌から眼を離すこともなく、山神は鼻で嗤った。


 山神は和菓子の記事担当者――別名山神様担当の十和田記者を気にかけても、現出版社社長――武蔵にはまったく関心を示さない。

 山神に怪我をした息子を救われ、その代わりに山神の要求――神は人間の生贄は求めていないことを周知させ、さらには南部に訪れる山神に甘味を捧げ続けた。


 それらはすべて、過去の初代武蔵が行ったことであり、現社長ではないからだ。

 たとえ現社長が直系の子孫であろうと関係はない。神は血のつながりを重視しないものだ。

 湊はだらけていた姿勢を正した。


「十和田さん、大丈夫かな……」

「悪霊にやたら好かれるあやつであろうと、お主が木彫りを与えたのなら、なんの憂いもなく過ごせておるであろうよ」

「いや、そっちじゃないよ」

「なぬ?」

「悪霊に関しても気にはなるけど、社長さんから嫉妬されてないかなって気になってる」

「嫉妬……」


 ようやく山神が湊を見た。真剣な表情をしている。


「社長さんが山神さんを見た時の夢見るような表情とか、ためらいもなく土下座した態度から、山神さんに傾倒しているのは間違いないよね」

「そうであろうな。たまに、否、それなりにあの手の人間はおる。己が人生を投げ打つほど神に心酔するやつがな。あやつとは接したことはないが、おそらく我とかつての武蔵の話を親にでも聞かされ、我がことのように勘違いして育ったのであろう。なにも驚くことでもあるまい。己が身内の力を己がモノと勘違いする輩も多かろう」

「まぁ、そうだね。だったら――」


 湊は座卓の上で組み合わせた手を強く握った。


「山神さんが十和田さんばかりを贔屓するのは、面白くないと思う。嫉妬してもおかしくはない、いや、むしろしない方がおかしい」


 嫉妬という感情は断じて見くびってはならない。手段を選ばず他者を蹴落とすばかりではなく、相手の命をも奪う原動力にもなりうる。

 さすがにそこまではいかなくとも、十和田記者がいびられていないだろうかと湊は危惧している。悪霊の悩みから開放されても職場の居心地が悪くなったら、あまりにも気の毒だ。

 己がその一端を担ったというのもある。

 湊は手にした湯飲みを回し、底の茶柱が回転するのを眺めた。


「まぁ、ウツギから悪霊に助けられたことと、麒麟さんに木彫りを渡されたことも、十和田さんが誰にも話していないなら杞憂だろうけど」

「あやつはそれなりに弁えておる人間ぞ。誰にも云うておるまい」

「山神さん、十和田さんと一度しか会ってないよね。わかるの?」


 山神はついと雑誌を手前へ押しやり、前足を組んだ。


「たいがいそういうものである。常人には認識できぬモノと否が応でも付き合ってきた人間は、口が堅いものぞ。お主かて覚えがあろう」

「それは……。まぁ、確かに」


 湊は妖怪が認識できることを他者にもらしたことは過去一度もない。むろん白い目で見られることを恐れているからだ。

 ふいに山神の視線が動き、庭から湊を流し見た。

 上空から飛んできた風の精が湊の横髪を手で払い、その耳元でささやく。


『社長にだけは言えるわけねぇ、山神様から木彫りをいただいたなんて……!』


 十和田の肉声をお届けしていた。

 どこから拾ってきたのか、いつ頃のつぶやきなのかはわからなくとも、それを耳にして湊は安堵した。

 彼がそういう心づもりでいるのなら心配はいらないだろう。

 とはいえ――。


「でも、やっぱりこれからも十和田さんだけを気にかけるのなら、武蔵社長は妬くと思う」


 山神は黙したままだ。その尻尾にじゃれつく風の精を気にもしていない。


「いままでずっと情報誌に和菓子の特集記事が載せられていたのは、代々の社長さんからの指示だろうし」


 たとえ記者がどれだけ記事を書きたくとも、社長の鶴の一声でなくなることもありうるのだ。

 湊はそれを避けたい。数少ない山神の楽しみだと知っているからだ。

 かといって、武蔵社長に媚びろとはとてもではないが言えなかった。ただ遠回しに事実を伝えただけだ。

 山神はついっと鼻先を座卓上のスマホへと向けた。


「そろそろ八つ時であろう」

「――もう、そんな時間?」


 明らかに話をそらすためだとわかっていたが、湊が咎めることはなかった。座卓のスマホを見やる。


「本当だ。じゃあおやつを食べますか」

「うむ!」


 山神の尻尾が振り回され、巻き起こった風で風の精がぴゅ〜んと空の彼方へと飛ばされていった。

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