25 怒らせてはならぬヒト





 みんなとの運動会を終えた鳳凰は、たいそうご機嫌であった。

 商店街へと歩を進める湊の肩で、ピヨピヨ鳴いている。それを横目に見る湊もむろん機嫌がよい。


「だいぶいい運動になったみたいだね」

『この上なく』


 パタパタとはためかせる翼は立派な羽で覆われており、産毛は残すところ頭部のみとなっている。


「もうひよことは呼べそうにないね。若鳥でいいのかな」

『うむ。とはいえそう呼ばわる期間もあっという間に過ぎるだろう』

「そっか」


 湊は相好を崩す。いまの姿もそれはもう愛らしい。けれどもこの姿は、鳳凰が弱っていることを意味する。


「早く大きくなって元の姿に戻れるといいね」


 一度目にした美しい姿を思い描く湊とは対照的に、鳳凰は口ごもり、風に翼をなびかせた。

 湊にそう望まれているにもかかわらず、気に入りの職人を見つけたら、加護を与えることをやめられないからだ。

 居心地悪そうに足踏みし、わざとらしく話題を逸らした。


『では、刺繍職人のもとへ参ろうか!』

「そうだね。鳥さんが心待ちにしていた刺繍も仕上がってるだろうからね」

 ピンッと鳳凰のトサカが立ち、高揚感をあらわにした。


 そんな他愛のないやり取りをする湊と鳳凰は、すっぽり翡翠の膜で覆われている。出所は湊のボディバッグだ。数枚のメモに祓いの力を込めて記してきていた。

 むろん鳳凰を護るためである。

 商店街のアーケードが見えてきた所で、湊は首をめぐらせ、往来する人々を注視した。

 悪霊と瘴気を察知するべく、神経を研ぎ澄ませるより、人間を観察した方がはるかにわかりやすく、かつ早いからだ。


 山神から忠告を受けたあと、よくよく考えた。

 悪霊の声やそのいきさつを知り、深く関わる覚悟はあるのかと。

 答えは、いなだ。

 先日、悪霊になりかけていた蛇の恨みつらみの感情に触れた時の恐怖・嫌悪感を思い出すだけで、不安が胸に押し寄せてくる。いても立ってもいられなくなる。

 そして何より、冷酷に悪霊を斬り捨てることはできやしないだろう。

 ゆえに悪霊や瘴気を感知すべく感度を高めようとする行為はやめた。

 いまの己でわかることだけを最大限に利用すればいい。


 通行人たちに異常は見受けられない。

〝鳥遣いの人〟としての己に、気安くあいさつをしてくる名も知らぬ者たちの表情に陰りもなかった。

 気をゆるめた湊の肩がわずかに下がった時、ブワッと鳳凰の翼が広がった。


「おっと、新たな職人さん発見かな?」


 肩へ目を向けた湊の笑みが瞬時に消える。


 鳳凰の様子がおかしい。


 小刻みに身を震わせ、眼を見開いており、その瞳孔が膨張、収縮を繰り返している。

 一般的な鳥でも興奮時に見られる現象だが、尋常ではなく速かった。


「鳥さんっ」


 声を張ったその視界の端を光がかすめた。

 それを目で追い、湊の顔が驚きに染まる。

 それは、一頭の黒い蝶であった。が、通常のモノではない。

 淡く光を発し、ひらめくその羽根からきらめく鱗粉をまき散らしている。ひらひらと遊ぶように湊の周りを一巡し、路地へと飛んでいく。


「いまの蝶は……っ」


 バサリと羽音がした瞬間、肩が軽くなった。

 湊はとっさに腕を斜め上へと伸ばす。


「まっ」


 待って!

 そう出かけた大声をすんでで止めた。大勢の人の前でこれ以上突飛な行動は取れなかった。


 ありえないことが起こってしまった。

 鳳凰は今、野生のヒナ並みに弱い。その現状を誰よりも理解して弁えているため、湊と外出した際、そばを離れたことはない。

 ましてや湊の声に応えないなど、一度としてなかった。


 飛び立った鳳凰は、脇目も振らず蝶を追って路地へと羽ばたいていく。

 それを追跡すべく、湊も地面を蹴った。




 幾度も曲がり角を折れると、次第に道幅は狭くなっていった。

 建物の影で暗く沈んだ路地裏は、人の気配もない。

 早足の湊は焦った。目線より上を飛ぶ鳳凰はまったく振り返らず、ただ、ひらりひらりと飛ぶ蝶だけを一心に追い続けている。

 まるで心を奪われてしまったかのように。

 確かに蝶は美しく、一流の職人の手による細工物のように見える。もしそうならば、鳳凰が惹かれてしまっても致し方なかろう。


 ――いや、本当にそうなんだろうか。


 湊は躍るように舞うその姿を凝視し、顔を歪ませた。

 言いようのない不安を感じる。

 これ以上、鳳凰を追わせてはならない。

 そう思ううえ、激しい警鐘も脳内に鳴り響くが、だからといって、いったいどうすればいいのか。

 無理やりその身を捕まえるべきなのか。

 それはできそうになかった。何度も触れたからこそ知っている。

 鳳凰の体はひどく脆い。乱暴に扱おうものなら、容易くその命を奪えそうなほどに。


 ――そうだ。アマテラス大神の力に頼ればいい。物理的に閉じ込めてしまえばいいのではないか。


 そう思いついた時、鳳凰が鳥かごめいた檻に捕らえられた。

 一瞬のことだった。

 横手から飛んできたそれが挟み込んだ直後、鳳凰のくちばしから悲鳴がほとばしった。バタつかせる翼から羽根が抜けていく。


「捕らえたぞ!」


 嬉々とした声をあげたのは、建物の陰で手印を結んだ男であった。


 野球帽をかぶった黒衣の退魔師――園能。泳州町で悪霊を増やしていた安庄と行動をともにしていた男だ。


 そのことを湊は知らない。

 見知らぬその男が両目をギラつかせ、顔中で笑っている。

 鳥かごの中で若鳥が苦しみ、もがき、絶叫していようと、ただただうれしそうに笑っている。


「こいつさえいれば、いくらでも動物霊が手に入るぞ」


 大口を開けて高らかに笑った。

 が、その奇声が家屋の壁に反響したのは、ほんのわずかな時間で終わる。

 爆風が吹き荒れたからだ。


「な、にッ」


 狼狽した園能は、顔面をかばいつつ見た。

 湊を起点にして渦巻く、いくつもの風の刃を。

 無数の刃が蒼く煌めく。縦横無尽に舞い飛ぶそれらが、鳥かごを切断し、あっけなく消え去る。

 若鳥が落下――するはずもなく。その周囲だけあたたかな風が漂い、その身を包んでいる。

 けれども横たわる鳳凰は、ピクリとも動かない。

 抜け落ちた羽根が風に舞ううちに、その姿を消していくなか、湊は鳳凰を手元に引き寄せ、両手で包んだ。

 ポケットへと移動させるその目は昏い。


 ――護れなかった。


 己の翡翠の膜――祓うだけの力では護れなかった。

 あの黒い蝶と檻がどういうモノなのかはわからない。

 ただわかるのは、己が生来の力ではあれらに対抗できないということだ。

 ならば、風神の力に頼るしかないだろう。


「かはっ」


 真正面から風を喰らった園能が宙を飛び、壁で身体の側面を強打した。


「な、ん、なっ」


 まともに言葉も出せず、盛大によろけつつ湊を見るだけだ。その顔面は驚愕をあらわにしている。

 園能は知るはずもなかった。

 鳥遣いの人と呼ばれる人畜無害そうな眼前の男が、恐るべき神の力を宿すことを。


「ありゃあ、なんの術なんだッ」


 その身体自身から風が吹き出しているようにしか見えない。

 湊の周囲に式神などいない。いったいどんな呪術なのか。

 そんな悠長に考えをめぐらせている場合ではなかった。風は加速度的に強さを増し、吹き飛ばされないようにするのが精一杯だ。

 そのうえ、天気まで崩れはじめた。見る間に積乱雲が発達して空を覆い、雨が降り出した。

 家屋の屋根や地表を叩く滝のごとき水は、容赦なく園能の全身を濡らしていく。

 一方湊は変わらない。乾いた服装のまま佇んでいる。

 身の危険を感じた園能は這々の体で逃げ出した。


「ぎゃっ」


 破壊音とともに倒れた看板がその道を塞いだ。

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