7 これぞ、海




 海といわれて、湊が真っ先に思い浮かべるのは、切り立つ崖に波しぶきが散る景観である。

 が、いま求めているのはそういう荒海ではない。

 眷属たちがはじめて見るに相応しい海なら、やはりみんな大好き海水浴場であろう。


 どこまでも続く穏やかな青い海。目にもまばゆい白い砂浜。それらが鮮やかなコントラストを生み出す景色が、湊とテン三匹の前に広がっている。

 彼らが佇む車道脇からほどなくして砂浜に変わって海へと続き、波間にぽっかり浮かぶ小島も望める。

 まさに理想的な光景である。


 たとえ海の左右に砂の流出を防ぐ仕切りの岩が設けられ、車道沿いにヤシの木が植栽された、いかにもな人工ビーチだったとしても。


 まだ海開きも行われていないためか、眼前には人っ子一人おらず、波紋だけが刻まれた砂地に寄せては返す白波がよく見えた。


「これが海なんですね……」

「ずっと水が動いてる」


 セリとウツギは潮風にヒゲをゆらしながら、感嘆の声をあげた。

 二匹に挟まれたトリカだけが、鼻筋にシワを寄せている。


「すごい匂いだな」

「海だからね。ここはそこまで磯臭くもないけど、鼻が利くトリカにはキツいか」


 湊が気遣わしげにいうと、トリカは匂いを払うように首を振った。


「いや、大丈夫だ。はじめて嗅ぐ匂いだから戸惑っただけだ」

「自然の匂いだもん、気にならないよ。それより湊、もっと近くにいこうよ!」


 待ちきれないとばかりにウツギが催促してきた。

 うずうずと足踏みする様を見ながら湊は口角を上げる。


「ぜひとも砂浜の走りにくさを体験するといいよ」

「えー? ただの砂だよね?」

「走りくいんだな、これが。じゃあ、いこうか」


 号令をかけた瞬間、ウツギのみが跳んだ。虹めいた弧を描いて砂地に着地し、四足で駆け出して派手に砂を蹴散らして転ぶ。


「んぎゃっ!」


 瞬間的に起き上がって砂を蹴るも、後方へジェット噴射並みの砂を吹き上げ、また転がった。


「ホントだ、足が沈んでいく。走れなーい、もー!」


 どったんばったん。茶色い砂煙を立てて転がり回る己が兄弟をセリとトリカは冷静に観察していた。


「砂浜とは恐ろしい足場なんですね」

「だな。予想外にもほどがある。ウツギを先に行かせて正解だった」

「ひどい。それにしても、まさかここまでとは。ウツギの動きが疾すぎるからじゃないかな」


 湊ともども落ちつけと異口同音に発し、そろって足を踏み出した。


 ウツギの足跡をたどってサクサクと鳴る砂の音と、沈み込む靴の感触を楽しみつつ、湊は波打ち際に寄った。その左右を歩むセリとトリカは、最初のうちはおっかなびっくりだったが、ある程度進めばすぐに慣れたようだ。


 その間、ウツギは波とたわむれている。波が引けば追いかけ、押し寄せてくれば全力で引き返して。

 さざなみから逃げながら口周りについた塩水を舐め取り、ぺぺっと吐き出した。


「この水、すっごくしょっぱい、っていうか辛い!? よくわかんないけど舌が痛い! まずい!」

「害はないよ、大量に飲まなければね。ウツギたちの体は俺とは違うからよくわからないけど」


 そう告げた湊が濡れて色の変わった砂の手前で止まる。その横で同じく立ち止まったセリが訳知り顔で語った。


「我らの身は普通の動物とも異なりますからね。浴びるほど海水を飲んでも問題ないでしょう。たとえ毒物を口にしても死にませんから」

「それは、みんなの名前の由来が毒草なのに関係してる?」


 湊が好奇心から尋ねると、ふふっと妖しげな含み笑いだけが返された。

 その声にウツギの甲高い声が被さる。


「わー! 塩水が体にかかったー!」


 波にいいように洗われていた。


「あーあ、白い体が茶色になっちゃってるよ」


 眷属たちが川で悠々と泳ぐのを知ってるため、とりわけ不安はない。とはいえ――。


「ウツギ、波にさらわれないようにね」


 注意したそばから、またたく間に沖へ流されていった。

 その頭部が波間に没してしまい、顔色を変えた湊が一歩踏み出す。しかし鎮座したセリとトリカは動じない。


「大丈夫ですよ、湊。ウツギは泳ぎも巧みですから」

「いま海の底を目指して泳いでる真っ最中だから、放っておけ。気が済んだら戻ってくるだろう」

「そっか」


 眷属たちは五感を共有できる。ウツギから送られてくる視覚情報をみているらしい二匹は、半眼になっていた。


「ある程度沖へいくと、砂地は終わるようですね」

「ここの砂は、人が重機で運んでるからね」


 セリに湊が答えていると、トリカが不可解そうに顔をしかめた。


「海底を黒くて細い生き物がいっぱい這っているな。なんだこれは? 大きめの芋虫のようだが、海の虫か?」

「ナマコじゃないかな。歯ごたえがあって結構おいしいよ」


 セリとトリカが目をむいた。


「こんな見た目のモノを食すのですか!?」

「勇気あるな!」


 二匹に体ごと引かれ、湊は頬を掻いた。


「――なんかごめん。人類、悪食なんで」


 最初に食べた者は偉大である。


 ともあれ眷属たちは、方法は違えど海を満喫しているようだ。セリとトリカはあまり子どもじみたところはないため、あえて海へ入らないのかとは促さなかった。


 佇んだ湊は波打つ海面を眺めた。正面から吹きつけてくる生ぬるい潮風を肌で受け、どこかで鳴く海鳥の声を聴く。

 全身で海を感じるのは、ずいぶん久方ぶりになる。

 祖父が存命時、ともにしばしば海釣りへ出かけたものだ。

 けれども、明日海へ行こうと約束して就寝した祖父が、そのまま永遠の眠りについて以来、自然と海を避けるようになった。


「こんなに海のそばに寄ったのは、十年以上ぶりかな」


 海が嫌いになったわけではない。遠くに見える釣りに適した堤防、海面を走る漁船。祖父を想起されるそれらを見ても、心が痛むことはなかった。

 ただ懐かしく、楽しかった思い出ばかりが思い出された。

 祖父は釣りを好んでいたが、下手の横好きで決してうまくはなかった。ゆえに釣り糸を垂らしていた姿よりも、岩場の潮溜まりにいた魚を素手でとる姿や、モリで突いたウツボを天に高々と掲げる姿ばかりが蘇った。


「じいちゃん……」


 思えば、ずいぶんアクティブな御仁だった。

 それはさておき今となっては、応龍から加護を与えられて鱗を持つ動物に慕われるようになり、もう魚釣りはできそうにない。


 苦笑していれば、海面にウツギの白い頭部が浮き上がってきた。

 何度か深呼吸をしてから、こちらへ向かって声を張った。


「海ってだんだん深くなるんだね! 奥はもっと深そうだし、これならデッカイ魚がうじゃうじゃいても窮屈じゃなさそうだね〜」


 百聞は一見にしかずである。身をもって知ったらしい。

 ウツギが縦横無尽に泳ぎ回り、トビウオさながらに海上へ跳び上がり、また潜ってはしゃいでいる。


「川より泳ぎやすいかも!」

「塩水は体が浮くからね」

「へぇ〜」


 と感心する三つの声があがった。


「俺は、川より海のほうが疲れないような気がするんだよね」


 楽しげなウツギを見ていると、つい海に入りたくなったがまだ冷たいだろう。


「俺が入ったら凍えそうだ」

「人の身は弱くて脆いですからね。無茶はいけません。気をつけるべきです。それにいま、ウツギを刺そうとした半透明な生き物がいました。危険です」


 短い指を立てたセリに諭された。


「――はい、やめておきます。ウツギは大丈夫?」

「ああ、泳いでかわしたぞ」


 トリカからの情報に安心して己が服を見下ろす。


「それに水着もないしね。セリたちの毛並み、たまに羨ましくなるよ」

「そうだろう。服いらずだぞ」


 トリカに自慢げに言われ、湊は車道側をかえりみた。


「いちおうここ海水浴場だから、洗い場もあるみたいだけど――。ん?」


 ヤシの木の間に白い銅像があった。車道に立っている時は気づかなかったが、結構な大きさだ。

 巨人といっても差し支えない胡坐をかいたその姿は――。


「えびす様、いや、えべっさんだ」


 そう呼べとえびす神に言われている。

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